大河ドラマ「篤姫」、前々回は船旅の様子が見られましたが、
左源太の長女、いささんが書いた「都見物日記」を思い出していました。
といっても何だかわからないかも知れませんね。^^;
国会開設の年(明治23年)、全国から大勢の人が東京見物に出かけたそうで、
川上家に嫁いだ名越左源太の長女、いささんも、この年の4月に
お姑さんと弟の轟さんの3人連れでお江戸上りをされました。
(↑これが、私の曾祖父です。^^ ♪)
その時の旅日記をいささんの二男の方が整理され、
のちに若法師さん(おそらく寺師若法師さんか?)が
雑誌(おそらく「さんぎし」か?)に連載されたものを
左源太の子孫である内村さんからコピーで頂いていました。
今年に入って、ようやくじっくりと読む事ができたのですが、
船旅の大変さを垣間見ることが出来、そこから、
篤姫さんの船旅の様子とシンクロした、というワケです。
明治23年(=1890年、というと、今から118年前のことなのですね~)、
4月17日午前中に船に乗り付け、2時前に出帆。
チリン島、山川を眺め、四国は金比羅参詣、それから大坂、西京、
そして東京まで旅の記録が、日々楽しい筆致で綴られています。
マメな日記は父親譲りなんですかねぇ?(笑)
それとも、日々日記を書き付ける事が当時は当たり前なのか知らん?
日記によると、初日、「昼飯はおいしく夕飯はトントトントいけず残念に候」
と書かれており
「夕方より少々気分悪敷候得共吐き方これなく」済んだようですが、
翌18日は朝食は「食べる事はいかず、矢張矢張ごろごろ休み」、
九時過初めて用足しに出、顔を洗い、お茶を飲んだら少しは気分宜しく、
お昼はお粥を食べた、等々、船旅での様子が詳しく書かれていました。
川上のお姑様も「少し昨夜御はき遊ばされ御気分あしく、
今日はよろしく私と同敷(おなじく)昼飯より御召し上りなされ、‥‥」と
船旅は難儀なようでしたが、
3日目の19日には、雨が降り天気も船から見る景色も悪いものの、
「朝より飯食べ皆々元気にて気分宜敷実に嬉敷事。
一時頃には昼飯食べ程無く讃岐近くに砂の瀬に乗りかかり、云々」
と、早速立ち寄り先の事を綴り始めます。
ここから途中伊勢参詣も果たし、泊まった宿屋の名前や、
車や汽車の乗り継ぎも書き付けつつ東京滞在は5月1日から18日まで、
横浜から神戸・大坂に数日泊まり、
5月下旬、鹿児島に帰り着くまで日記は続きます。