☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

これまでの経緯-3

2008-04-25 23:52:14 | これまでの経緯

左源太の墓が、移設されたのかそれとも無縁墓として合葬されてしまったのか
確認出来ないままではどうにも収まらない私は、
何とか手がかりがないものかと、無い知恵を絞る日々でした。

3/13(木)
 鹿児島市役所へ行き、福昌寺跡近くにある発照寺(ほっしょうじ)に
 加治木島津家の墓とその他に少しばかり墓が残っていると聞き訪ねるが、
 本当に僅かばかりで、何の手がかりも見つからなかった。
 ほとんどは薮に埋もれ崩れた墓石がそのままになっていた。


やはり、左源太の墓はもう存在しないのだろうか?

永井氏が昭和24年に編纂された「高崎くづれ 大島遠島録」の
「名越左源太翁小伝」にかかれていた言葉が気に懸かる。

 『…(前略)… 墓は現に鼓川町長谷(註:長谷場)墓地にある。
 文化五年に起つた近思録崩(秩父騒動)で有名な秩父太郎一家の墓も
 相並んで其東方にある。此の墓地は遠からず全部他に移転すべき運命に
 あるそうだが、かかる由緒墓は何らかの方法で保存さるるであろう。』

コメント (4)
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これまでの経緯ー2

2008-04-25 23:35:11 | これまでの経緯

* 前のページより続き

我が家の祖先のことをいろいろ調べ、家系・繋がりなどをまとめているうちに、
名越左源太の墓を未だに拝めていないのは申し訳ないこと、是非とも探し出して
お参りしなくては、という想いが募っていました。
左源太の子供・子孫がどれだけ残っているのか、お参りをするひとが果たして
いるのだろうか?と考えると、おそらく鹿児島に残っているのは
ウチと内村さんと、おそらくイサさんの子孫の方くらいではないかと思われるのでした。


3/6(木)
 タンタドの名越左源太別邸跡へ。
 これまでにも2~3度探したのだが、今回ようやく初めて訪ね当たる。
 屋敷跡地前の坂道入り口に表示板があるが、車で行くと少々見つけにくい感あり。


3/11(火)
 福昌寺にあった墓が移設されたという坂元墓地へ。
* ネットで探して移設のことを知ったのは↓このHPでした。
名越左源太公の墓

 墓地の管理事務所へ行き、移設・改葬されたという無縁墓の多数の骨壺を見せてもらう。
 名越とも縁のある「町田氏」の名前を多く見かける。

昭和24年の時点で連絡の取れないものや訪れる人の無い墓は
全て無縁墓としてまとめられ、供養されたということだった。

 *ほとんどの骨壺の蓋に番号が書かれていたが、
 市の墓地関係部署で訊くと、移設・改葬されたものは昭和40年代に
 まとめて供養され、資料・名簿などは残っていないとのこと。
 左源太のものが果たしてそこにあるのかは不明のまま。

 この日はこのあと県立図書館へ行き、永井亀彦氏の
 「高崎崩の志士 名越左源太翁 
    (嘉永年間著わされた郷土誌料 南島雑話の解説)」と
 「高崎くづれ 大島遠島録 (名越左源太翁日記)」の
 2冊を借りて帰った。
  私は新聞で連載されていた「南島雑話の世界」と後に出版された書籍以外、
 この時初めて見にしたが、父は台湾で暮らしていた頃に
 左源太の描いた絵と解説の原稿を目にしている。
 
左源太の次男・轟は父の祖父。台湾南部で大正11年2月に亡くなっている。
父は大正15年生まれだから、轟さんとはお目文字叶わなかったわけですが、
左源太の描いたものは父親(轟の長男)から見せてもらったそうです。

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これまでの経緯ー1

2008-04-25 23:00:50 | これまでの経緯

その後もまだまだ史跡巡りは続きます。


一度ここで現在までの経緯を整理してみようと思います。

1/23(水)
 若宮神社~今和泉島津家屋敷跡~大龍寺跡(現・大竜小学校)
~上町の名越家屋敷跡~春日神社 途中、森有礼の生誕地跡碑など

1/27(日)
 鶴丸城跡(現・鹿児島県歴史史料センター黎明館)散策

1/29(火)
 小松帯刀別邸跡を見に車で出かけ、ついでに昔住んでいた地域を散策

2/2(土)
 黎明館「島津氏一門の雅と由緒― 重富(越前)島津家資料展 ―」

2/15(金)
 1年半ぶりに、指宿岩本の今和泉島津家墓地へ。

2/18(月)
 磯・仙巌園へ。庭園散策。尚古集成館も見学。

2/29(金)
 福昌寺跡(長谷場墓地?)で名越左源太の墓を探すも見つからず。。
* 後に、移転されたらしいという情報をネットで目にする。
第21代藩主吉貴夫人で第22代藩主継豊の実母である、
お須磨(名越家の女性)の墓に初めてお参りした。

* 3月もまだまだ続きます。

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追いつけない。。

2008-04-25 16:44:51 | これまでの経緯

私が、後追いで調べ始めたのが今年に入ってから。

大河ドラマで『篤姫』が始まるのを機会に
島津家との関わりや、我が家の家系の事をもっと把握しておきたいと
郷土史にも疎かった私は、まず手始めに家にある資料を読む事にしたのでした。

そんな折、ちょうど1月6日から1月12日まで
鹿児島市の篤姫館で開催されていた「篤姫展」を見に行ったのが
1月の10日。

篤姫館へ(2008.1.12 mixi日記より)


一通り展示物を見てまわり、出口に向かうとそこに
篤姫が暮らしていた頃の鹿児島城下の絵地図があり、
ウチの先祖の名前が書かれた屋敷跡の場所を発見したのです。



それで、俄然興味を持ったのでした。

それからはほぼ毎週、郷土の史跡巡りの日々で
まずは一度も行った事の無かった南洲墓地・南州神社へ。

郷土史探訪の日々<1. 西郷南洲顕彰館~竹公園(mixiアルバムより)

郷土史探訪の日々<2. 南洲墓地~南洲神社(mixiアルバムより)

「ほ~ぅ、これが南洲墓地かぁ。」とぐるぐる歩き廻り、
ウチと関わりのあるお墓があるかと探してみたり、
歴史上名の知れた方々のお墓を拝見して回ったりしました。

この時点では、西郷南洲翁についても明治維新に関わる「郷土の偉人さん」で
西南の役の主役、城山で自害した人、くらいの認識しかありませんでした。
西郷南洲顕彰館も初めて行きました。


家に帰れば帰ったで、母の残した資料から興味のあるものを引っ張り出しては
あれこれと読みあさり、『「さつま」歴史人名集』で自分ちの名前の由来や
島津家歴代の名前や繋がりを調べまくり、脳内の日頃と違う分野を使い過ぎたために
頭痛をおこしたりしてぐったり疲れてしまうような事もありました。(笑)

ちなみに、現在の姓は今和泉島津家の家臣の家の名。
ドラマ『篤姫』にも出てきました。

母は以前から「今和泉島津の家来だった家なんだよ。」と言っていたので(*↓に☆☆☆《補足》☆☆☆あり)
「はぁ~、お母さんの言ってた事はこれだったのかぁー」と
ちょっとした感動を覚えました。

まだ大河ドラマの話題も無い頃、2年程前に今和泉島津家の領地だった指宿岩本にあるお墓も見に行き、

    

孫六さん。(mixi日記より)

忠剛・忠冬両領主の墓にある献燈に名前が残っているのを目にしてはいましたが、やはりこういう形で名前が出てくると、また違った感慨があるものです。

      

      

実は、この燈籠に名前を見つけたのは、
随分前にこのお墓を見に行った母だったのです。

母の残したメモや集めた資料を眺めては関連づけて読むのですが、
めぼしいところは既に目を通した跡があり、
赤鉛筆で傍線を引いてあったりします。

もう、どこまで先を行っているのか、「もうコレはチェック済みなのか~!」
「これもすでに知っていたのねー!」などと父と二人驚くばかりで
なかなか追いつけそうになく、ただただ脱帽です。



☆☆☆《補足》☆☆☆2017年3月9日

(*)我が家が「今和泉島津家の家来だった家」というのはちょっと違っていて、同じ姓ではあっても繋がりまでは未だに分かっていません。

この件は、当時の母にはまだ解明できていなかった懸案でした。
そのため、父をお供に指宿市役所に戸籍を調べに行ったりしたようです。

なぜそう思い込んでいたのかというと、指宿岩本の今和泉島津家の墓地で見つけた献灯石に刻まれていた名前は「栗川用邦」「栗川用郡」で、
曾祖父・轟が妻ツタ(旧姓:三原)と長女・長男とを従え養子に入った先の養父の名前が「栗川用行」なのです。
(これについては2016年5月25日の「我が家のファミリーヒストリーを思う」にも書きました。)

また、上記本文にもあるように『「さつま」歴史人名集』(稲葉行雄/高城書房出版)で見てみると、
  「薩州島津仲正徳年間、二男以下の苗字栗川氏、諱字は嫡男 久、二男以下は 用 と命名するよう命ぜられた。」とありました。
  「栗川用次 島津帯刀久元二男、今和泉島津家臣。」とも書かれています。

それですっかり「間違いない!」と思ったのかもしれません。

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