☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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⑧ 島津家歴代御当主の墓(1)ー師久・氏久、 宗久も

2022-07-09 21:39:45 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

皆さま、こんばんは〜

 

ちょっと前に『2018年6月13日、島津家墓地にて出会う

   (2022-07-07 カテゴリー | 福昌寺跡島津家墓地) の

「島津齊徳之墓」の紹介画像で墓所奥の区域を望む写真を1枚載せました。↓コレ 

 

間に3つの記事を書いて「妙心院殿の墓」ではフライング気味に写真をチラッと載せましたが(笑)、今回は、ようやく歴代当主の方々の墓所巡りの画像です 

 

 お馴染み、案内図です。

 

 画像の中央付近、「齊徳(忠重男子)」から左の区画は歴代のご当主の墓所です。

ここには「薩摩6代 師久」夫妻、「大隅6代 氏久」夫妻、「9代 忠国」夫妻の墓を始め、

10〜14代までの当主の墓が並んでいます。

 

 

前に『第六代薩摩守護職・島津師久』(2022-07-07) で少しだけ「薩摩六代 島津師久」の墓の写真を載せていましたが、その1年後、この2018年6月13日の画像ファイルにたっぷり残っていたので、少しずつご紹介したいと思います。

 

 まずは、「薩摩第六代 島津師久之墓」、それに隣り合う「島津宗久」の墓です。

  

・ 島津師久 … 六代薩摩国守護職

  島津貞久三男。母は大友因幡守親時入道 道徳の女子。

  正中二年(1325年)八月十六日、出水木牟礼城に出生。

※ 父の守護・貞久は文和元年(1352年)頃には、嗣子・師久には薩摩国を、同じく氏久には大隅国をと国政を分けて委ねているが、師久は薩摩国の守護所を川内(せんだい)碇山城に置いた。(『島津歴代略記』より抜粋)

 ( 右端に父が写ってます↓見切れてますけど〜

島津宗久は、「第五代 島津貞久次男」だそうです。

 

ここで改めて『島津歴代略記』で確認しました。

・貞久二男。母は大友因幡守入道道徳の女子。梅林夫人。元享二年(1323年)出生。

「暦応三年(1340年)薩摩の宮方=反守護方渋谷氏を討たんとして一月二十四日、川内(せんだい)隈之城(くまのじょう)に急逝しました。歳十九。」

そして、宗久様の神号が、なんというか…美しい 

「貴桜真恒彦命(うずさくらまとこひこのみこと)」だそうです

 

 そして、師久・宗久墓の右となりに、「大隅第6代 島津氏久之墓」があります。

 

3基並んでいますが、案内図で確認すると、

向かって右は氏久夫人、中央の氏久墓を挟み、左は氏久女子となっています。

 

・島津氏久 … 六代大隅国守護職

   貞久四男。母は大友因幡守親時入道道徳の女子。梅林夫人。(「梅」は木偏に作りの部分の毋は「丹」)

     嘉歴三年(1328年)四月十一日、出水木牟礼城に出生。

     嘉慶元年(1387年)五月四日、鹿児島に歿す。歳60。

  ※ 氏久の系統をその官位「陸奥」から、「奥州家」と称す。(『島津歴代略記』参照)

 

それではまた。 

 

 

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鎌倉殿と島津家の伝承、鶴嶺神社の「遷塔之記」

2022-07-09 14:24:33 | 鶴嶺(つるがね)神社

 シリーズ「福昌寺跡島津家墓地」の記事が続いていますが、

 ちょっとここで、閑話休題です。

 

先週の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の「紀行コーナー」では鎌倉の「持仏堂」の紹介がありましたが、源頼朝の墓、石塔の足元には丸十紋が映し出されていたので思わず見入ってしまいました。

謂れをご存じない方には「なぜここに丸十紋が‥‥?」と思われたでしょうね。

 

今、再放送を見ていて、ここにも書いておきたくなったのです。

で、試しに「持仏堂 鎌倉」でネット検索したところ、鎌倉市のHPに「源頼朝の墓」として

「島津重豪が‥‥」と紹介されていたので嬉しかったです

 

鎌倉市のHPより↓

「現在、墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂(ほっけどう)と呼ばれました。墓の層塔(そうとう)は1779年(安永8)に島津重豪(しまずしげひで)により大御堂(おおみどう)から移されたものといわれ、国の史跡に指定されています。

明治時代になり、それまでは一緒にまつられることも多かった神と仏を離す神仏分離(しんぶつぶんり)の政策により、1872年(明治5)墓前に白旗神社が建立されました。」

 

☆ 鹿児島市の仙巌園は島津家別邸でした。今は歴史と観光のスポットとなって久しいですね。

そのお隣には島津家所縁の「鶴嶺神社」があります。「鶴嶺」と書いて「つるがね」と読みます。

 

 

☆ そこには「遷塔之記」があり、鎌倉との関わりが書かれています。

【概略】

平成になって鎌倉の墓塔を修復する際に試作された雛形塔が、「頼朝公没後800年」を記念して、鎌倉の墓所を再興した鹿児島島津家に寄贈すべく、鎌倉市民有志により「源頼朝公墓所再興報恩塔」として遷座(平成11年8月建立)

 

 2008年(平成20年)2月に訪ねた際に撮っていました。

「源頼朝公御石塔」の札が立っていました(2008年2月撮影)

☆ 現在では、島津氏初代・島津忠久公が「源頼朝と丹後局の間に生まれた」というのは伝承であると知られるようになりましたが、重豪公の頃の話ですから、公はご先祖とされる頼朝公の墓が荒廃しているのを見て悲しんだことでしょうね

 

「薩藩史談集」(重野安繹ほか著)によると、

丹後局の父は武蔵国比企郡(埼玉県)の豪族比企掃部允(ひきかもんのすけ)、母は比企局(ひきのつぼね/頼朝の乳母・比企尼)ということです。(『島津歴代略記』参照)

 

「鎌倉殿の墓」と島津家との繋がり、広く知っていただけると嬉しいです

 

追記および一部訂正:(2022.7.10  PM11:25)

  たった今尚古集成館のHPを読んだところ、

『島津家初代・忠久誕生にまつわる説話』として詳しく書かれていました。(←リンクをクリック

母親は丹後局であり、彼女が惟宗広言(これむねひろこと/貴族)に嫁いだため、島津家初代は「惟宗」を名乗ったと系図にあり、専門家の間では忠久の父親はこの広言(ひろこと)、あるいは惟宗忠康ではないかと考えられている、とのことです。

「とはいえ、頼朝の庶子であるという説話を、島津家や家臣をはじめ、多くの人々が尊重し、現在まで伝わっているという点も、また欠いてはならない歴史」とも。

 また同じく尚古集成館のHPに『比企家とのつながり』として系図などと共に詳しく書かれています。

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島津継豊公の後の夫人(2) ー 島津重年公の実母・嶺松院殿の墓

2022-07-09 09:52:17 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 いつもお読みくださって、ありがとうございます

先日書いた記事、『④ 第22代・継豊公夫人の墓、二つ

    2022-07-05 カテゴリー: 福昌寺跡島津家墓地 

ここに、

「 継豊公の跡を継いだ長男「宗信公(第23代)」の母が妙心院殿であり、宗信公は江戸の芝藩邸に出生、その兄が22歳で早逝し、跡を継いだ二男「重年公(第24代)」(母は島津嶺松院殿)は鹿児島鶴丸城に出生

とある。(『島津歴代略記』参照)」

と書きました。

 また、以前『島津氏と北郷氏と禰寝氏の沼へ2021-09-07 を書く際に

カテゴリー「 島津重年公の母・嶺松院殿 」を作っていました。すっかり忘れていました

上記記事ではWikipedia情報として、

「また、島津重年は島津継豊の次男として鹿児島城で生まれ、加治木島津家当主・島津久季の養子となる。なお、継豊と母・登免(○松院殿)との子は重年(幼名・善次郎、久門)一人であった、」

ということも書いていました。 (この「◯松院殿」の◯については当時の書き込みでは〈(※○は山冠に松←Wiki情報による〉『島津歴代略記』では「嶺松院殿」」ということでした。)

 

 この数日写真を整理する中で、福昌寺跡の島津家墓地の案内図もだいぶ見慣れて来て、気付くことも多くありました。

その中で、島津重年公の実母「嶺松院殿」墓の位置も把握できました。

 例によって写真を撮った当時は詳しいことはわからないままに撮りまくっていました。

今回は、2018年6月13日に撮ったものに近くを写したものがありましたが、

この時は重豪公と斉宣公の墓所を巡る目的でした。

→『調所笑左衛門などの刻銘を確かめに2018-06-14 18:00:37 | 歴史探索

 

撮りためた写真の中で探したところ、そのものズバリの写真はありませんでしたが、

近いところを撮ったものがあったので、一度整理するためにここに貼っておこうとと思います。

 

福昌寺墓地の丸十紋の門扉から入った先には

 

   (上↑,下↓,画像 2017.6.4撮影)

 

 

 島津重年・重豪・斉宣3代の藩主の墓所への入り口があって、(以下、2018.6.13撮影)

 

更に進むと、一面緑の空間が広がっています。ここの雰囲気も好きな空間です

 

 すでにお馴染みの「福昌寺墓地 案内図」です。

この上部に「21代 重年」とあり、その右隣には「継豊後夫人(重年実母)」とあります。

ただ、「嶺松院殿」とは書かれていません。

前回記事の「宗信公実母の墓」も写真整理してる中で気づいたもので、こちらが二人の後夫人のどちらなのかすぐにはわかりませんでした。

 

 3代の墓所区画(画像中央)の入り口から入るとすぐ、左手に龍の手水鉢(?)のようなものがあります。

 

 

 

で、この通路の先にあるのが重年公の墓更に右奥へ進むと、公の実母「嶺松院殿」の墓があるのですね。

まだ奥へ入ったことがないので、次回はお参りしてみたいと思います。

※「嶺松院殿」‥‥ 継豊次男・重年実母。

        島津求馬久房の女子。お登米。

 

☆ 以前書いた関連記事↓もあります 

第24代藩主・島津重年と嗣子・重豪 』2019-05-26 

     カテゴリー| 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊 

 では、また

 

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