☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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⑫ 島津久光公② - 久光公の墓と墓所内の石塔群

2022-07-11 16:39:21 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

☆ 前回に続いて、今回は久光公のお墓とその周りの石燈籠群です。

 

「前左大臣従一位大勲位公爵島津公墓」とあります。

 

 燈籠群は全部は撮りきれないので、興味を持ったものだけですが、こちらには「島津珍彦」 ほか刻銘があります。

 

こちらには「北白川宮能久親王妃 富子」、さらに「公爵島津忠義」

 

「北白川宮能久親王」 がどういった方か気になってこのあと調べたところ、Wikiに以下の通り。

明治26年(1893年11月10日第4師団長となる。明治28年(1895年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征。ところが現地でマラリアに罹り、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去。遺体は安平から西京丸で本土に運ばれた。この際、表向きには「(能久親王は)御病気ニテ御帰京遊バサル」ということになっていた。日本到着後、陸軍大将に昇進が発表された後に、薨去が告示された。国葬に付され[27]豊島岡墓地に葬られた。

皇族としては初めての外地における殉職者となったため、国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり、台北台湾神宮(台湾神社)、終焉の地には台南神社が創建された。」

「また通霄神社[28] をはじめとする台湾各地に創建された神社のほとんどで主祭神とされたが、敗戦後にこれら能久親王を祀った60の神社はすべて廃社となったため、現在は靖国神社にて祀られている」

とあります。

☆ 台南へ父の同窓会にお供をした際に、どこかでお名前を見たように記憶しています。あとでその時の画像をチェックしてみようかな。

 

また、「親王妃 富子」様についてはこちら→「北白川宮能久親王妃」

一部抜粋して紹介

「能久親王との間にもうけた一子成久王が北白川宮を継承したが、能久親王にはこのほかにも5人の側室との間に10人の子女があり、富子はその教育にも力を傾けた。

それも一段落ついた1923年(大正12年)、こんどは最愛の成久王を留学先のフランスで自動車事故で失うという悲劇に見舞われる。その悲しみからか以後は葉山の別邸でひっそりと過ごすようになった。1926年(大正15年)10月に台湾に渡り、能久親王を祀った台湾神社に参拝したのが数少ない表立った行動だった。1936年(昭和11年)に74歳で薨去。」

 

 

 今後も、久光公の御両親の墓所など、ご案内しようと思っているところです。

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⑪ 島津久光公① - 墓所前広場と大階段

2022-07-11 15:42:38 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

☆ 福昌寺跡にある島津家墓地、入り口を入ると、

 

島津家墓地の案内図(配置図)があり、

 

そのさきに広場が広がっていて、大階段が悠然と存在している。

私はこの広々とした空間と緑が心地よくお気に入りなのです 

 

 散策するように、画像をお楽しみください('17.6.4撮影、'18.6.13撮影を取り混ぜて)

奥には斉興公墓所と、さらに吉貴公墓所を始め、歴代当主の墓所があります。

 

午後の日差しが良い感じでした♪ 

 

 

 

 

 

☆ 鳥居の傷みが気になるところではある。左の柱、中程が細くなっているし。

大階段の上からの眺め。

こちらは墓所入り口を見下ろした景色。

入り口の右手には大きな神道碑が立っており、画像の下に写っているのがその台座。

神道碑には実は第二次大戦の鹿児島空襲の際に爆撃を受けた証拠の銃撃痕が残っているそうです。

 

側面の左淵の真ん中あたりの黒い点↓。これが弾痕だそうです。

 

 

 

☆ 次回は久光公の墓所内の様子です 

 

 

 

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⑩ 島津家歴代御当主の墓(3)ー忠昌

2022-07-11 13:00:23 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

☆第十一代守護職・島津忠昌 … 立久長男。母は梶原三郎太郎弘純の女子。茂山夫人。

    寛政3年(1463年)五月三日、出生。

    永正五年(1508年)二月十五日、鹿児島清水城に突然自刃した。歳46。

※ 死に臨み、忠昌が吟じた西行法師の歌。

   願はくは花のもとにて春死なむ 其きさらぎの望月のころ

「11代・忠昌」夫妻の墓画像右手、台座の上の2基です。

 奥の石塀に沿って、左から「12代・忠治」「13代・忠隆」「14代・勝久」の墓が並びます。

☆ 忠昌公は領国統治も意のままにならず、失意のうちに永正五年(1508年)、鹿児島清水城に突然自刃。46歳で没しました。

 

忠昌公へ献花。

 

 このとき、奈良原助八満が忠昌に殉じて自刃。25歳だったそう。

福昌寺近くに碑が建っています。

 

 これが、2008年5月に初めて「かごしま探検の会」の町歩きに参加した時に、当時は島津氏や郷土の歴史について何の知識もなかったのですが、それでも「助八の死は島津家における初めての殉死」という東川さんの説明が強烈に印象に残りました。

 

関連記事 →『5月の歴史探訪フォトアルバム-1』 2008-08-02 (カテゴリー| 歴史探索

 

そのころはピンと来ていませんでしたが、『島津歴代略記』を読んで、少しずつ理解出来るようになりました。

 

 

 2019年にも説明板を撮っていました。新しいものになったようですが、内容は変わっていません。

 

 

 それでは、また。

 

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