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【第4話】紹介者は、寺師若法師さん

2019-09-06 23:59:38 | 都見物日記プロローグ

いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

さて、今日は川上イサさんの『都見物日記』について、誰が纏めて誰が公に紹介したのかを改めて記したいと思います。

 

2008年4月10日の「いささん、51歳」で書いていますが、明治23年に書かれた日記を、

二男の橋口精一さんが整理されたものを、丹下幸代(=イサさんの長男・久良さんの娘)さんが『さんぎし』の寺師若法師さんに託されたものなのです。

 

 「さんぎし」とは‥‥薩摩狂句の月刊誌

 ※月刊誌「さんぎし(竹馬)」は昭和32年に創刊され、昭和57年に復刊し、平成19年3月で300号が復刊継続

 

その「さんぎし」に連載された『都見物日記』の、冒頭部分をそのまま紹介します。

 

「 都見物日記(一)   川上いさ(記)

 母の鑑(かがみ)の丹下幸代おばさんといえば人よく知るところ。もう(※)昨年のこと、若法師庵をお訪ね下さつて、赤表紙の和綴ものをお見せになつた。祖母にあたる川上いさ刀自の「都見物日記」である。 」

 

(※)昨年のこと、とありますが、この掲載年月日は記載されていません。

ただ、この第一回の最後、四月二十日の末尾にこう書かれています。

 

「 以上の四日分は一つも省略していない。七十年前、若法師生れる前年の旅日記で興味津々である(若)」

 

この寺師さんのコメントから、昭和35年の掲載ではないかと推測できます。

明治23年=1890年 → 70年後=1960年   若法師さんは明治24年生まれで当時69歳という事ですね。

 

ですから、「母の鑑の丹下幸代おばさん」が持ち込んだのは、昭和34年という事になるかと思います。

 丹下幸代さんについてはこちらにも書いています。→ 「曾祖父が養子となった先は‥‥」(2008.3.18)

 

それにしても、、「母の鑑の〜」とは?当時知られていたという事なのでしょうか??

今となってはご存知の方もいらっしゃらないかもしれませんが‥‥‥、

ご存知の方がありましたら、コメントなどお寄せください

 

 

 おっと

『都見物日記』は「さんぎし」に(一)から(八)まで 掲載され、最終回のみ未掲載となっているそうですが、

ブログ記事のタイトル、ナンバリングを合わせればよかった〜。。

 ……って、時既に遅し、、、まぁいっか

 

 各章に納められてる日記の日付けを以下にまとめて表記しておきます。

 

(一)4月17日 鹿児島出帆(チリン島 山川眺めつつ 〜 19日 讃州多度津、金比羅様参り)〜20日まで

(二)4月21日 淡路島を眺めつつ兵庫着(名越氏の知人・鈴木信弥(※)、来訪 〜 22日 大坂入り)〜24日西京入りまで

       (※「鈴木信弥」という方は、鹿児島へ帰りの直前5月26日にも再登場)

(三)4月25日 西京見物(西京博覧会見物等々)27日 嵐山葉桜見物等の後、近江の湖水、むかで山、勢田の唐橋など眺め柘植へ

       28日 鈴鹿山など感嘆と共に眺め、29日 伊勢参詣 30日 豊橋 5月1日 豊橋より汽車で天竜川、大井川などの鉄橋を渡り東へ移動

(四)5月 1日  東京新橋着 〜 5月4日

(五)5月 5日  〜 10日

(六)5月11日 〜 16日

(七)5月16日(続き)〜 22日

(八)5月23日 〜 27日 美濃丸に乗船 29日(船中)

 

 未掲載分は(八)の続きで桜島らしき絵と共に、いよいよ鹿児島湾(錦江湾)に入り、天保山の前を通り前の浜に着船、端舟(はしけ)にて上陸、出迎えを受け喜ぶ様子や、無事に帰り着き「お君さん」を呼び三味線や地歌を頼んで踊ったり笑ったりして「皆々よろこび嬉しさ おめでたさ おかしきなり実に実にすぐれた初のぼりの新下り妙々」と記されて終わっています。

 

 



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