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名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(1)今和泉島津家本邸跡

2021-09-21 16:23:17 | 上町散策 2008年1月

 前回に続き、2008年1月23日に散策した鹿児島城下の上町の画像です。

(当然ながら、画像は全て13年前に撮ったものですので御了承下さい

 

まずは、当時大河ドラマ『篤姫』の放送でにわかに注目を浴びることとなった、

篤姫の実家今和泉島津家本邸跡 を訪ねることからスタートしました。

 

付近の様子。「上之馬場(うえんばあ)」と表示がありました。

  

この↓右手が屋敷跡。この屋敷跡の向こうにバス停があり、先ずは地図をたっぷりと写真に収めました(堪能♪)

 

  

 

バス停に到着。大きな古地図をじっくり見てみます。

 

「今和泉島津家本邸跡」の説明書き

 

バス停前には古地図のパネルが二つもあったので、ここで色々と確認します。

 

 

「名越家」は、篤姫のご実家のご近所でした。お向かいは重富島津家のお屋敷。

 

ただ、名越家のはっきりした場所は、この時点ではわかっていませんでしたので、

大龍寺跡(現・大龍小学校)の前を通り、この「名越家」角のあたりから付近をぐるっと廻ってみることにしました。

  

「大龍小学校校庭遺跡」として説明書きがありました。

「三千年くらい前の縄文時代後期を中心とした祭祀遺跡である」そうで、また

「五世紀頃に南方の島々との交流があったと思われ」るとあります。

「内城(1550~1602年)」「大龍寺(1611~1869年)」もあった場所には大昔からの人々の痕跡がありました。

 

 

 

 

大龍小学校の前の通りの奥は南洲神社・南洲墓地方面。

 

ここで方向転換し、名越家の屋敷跡があったあたりに向かいます。(小学校の門)

 

 

もう少し引きで見ると、

 

さらに鹿児島湾(錦江湾)側には「今和泉島津家濱(浜)屋敷」もありました。

 実はのちに気づくことになるのですが、

『鹿児島城下絵図散歩』で、安政6年(1859年)に「島津峯之助殿中屋敷」であったものが、

それ以前の天保13年(1842年)には「名越右膳中屋敷」と表記があり、祇園之洲に掛かる

永安橋南側の「抱真院」に繋がる「境橋」の手前(画面の境橋の左手屋敷、上町から見ると境橋の手前右手)に

340坪の屋敷があったようです。(☆画像右手が北、左手が南)

 

嘉永三年(1850年)の左源太の遠島処分に伴い、父・右膳の中屋敷も

今和泉島津家に召し上げられたということなのでしょうか?

 では、また続きます。


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