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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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曾祖父・名越轟と西南戦争−2

2017-08-27 02:38:49 | 曾祖父・轟のこと

いつもお読み頂き、また気がつけば「いいね!」も頂いて、
本当にありがとうございます♡
     ☆☆☆

さて、今年5月に『曾祖父・名越轟と西南戦争』と題してほんの少し記事を書きました。

その後、そのままになっていたのですが、
6月にFaceBookを始めたところ、最近参加させていただいた「鹿児島の歴史を学び、語り、伝えよう」というグループ
とあるサイトを紹介していたことを切っ掛けに、また書いてみようと思い立ちました。

今回はもう少し細かく追っていきたいと思います。

切っ掛けは前述の通りで、『西南役余話』というサイトの
「肥薩国境の戦闘」のページをFBグループの参加者の方の紹介で見てみたんです。

すると西南戦争時の詳しい状況が時系列で調べられていて、「これは凄い!」と。
 ※このサイト、有り難いことにリンクフリーということなので『西南の役・データ集』をご紹介します。

前にも書いた通り、曾祖父・轟が西南戦争であちこち転戦していることは、
轟の兄・時成さんの子孫の内村八紘氏が纏められた資料『名越左源太と長男・時成(変名・三笠政之介)第一回薩摩英国留学生の消息』や
以前このブログで書いた日記『北川町教育委員会様へ。』(2010年10月3日)にあるように
北川町教育委員会が平成3年3月に発行された冊子『西南戦争、戦跡を訪ねて』に書かれていたのですが、今ひとつ参戦・転戦の流れをつかみきれず、随分前に「安政橋」をキーワードに調べてみたりもしたものの、どの大隊の第何小隊だか、どこで戦って手傷を負ったのか、これまでちゃんと把握出来ていなかったので
このサイトを頼りに一度照合して書き記しておこうと思ったわけです。


     ☆☆☆

ではまず、内村氏の資料(元は『西南記伝』下巻二 「14. 名越 轟伝」)から辿ると、

  ↓↓↓

 ※ 国立国会図書館デジタルコレクションコマ番号228で読めます('21.2.23 追記)

☆「明治十年 西南の役、薩軍に應じ、五番大隊二番小隊に属して、熊本に出て、」とあるので
「熊本城の戦い」を見てみます。
(※北川町の冊子『西南戦争、戦跡を訪ねて』巻末資料に、発進時の薩軍編成は、五番大隊は池上四郎が約2000人を、
  桐野利秋が四番大隊(約2000人)を、別府晋介が六番・七番(各約1500人)を率いたとあります)


☆次に「熊本に出て、二月二十二日、※安政橋方面に戦いて傷を負ひ、治療し、後、本隊に復し、山鹿、隈府方面に転戦し後、奇兵隊に属し、」とあります。傷の程度は不明ですが、曾祖父が傷を負ったその日に例の「軍旗事件」があったんですね!
(※「安政橋」熊本市市街部を流れる白川に架かる橋でのちに安巳(やすみ)橋と名前を変えたが今でも残っている)

そこで、「山鹿の戦い」を見ますと、「3月21日 官軍、山鹿を占領。薩軍、※隈府方面へ撤退」とあり、合致します。
(※「隈府」を何と読むのか判らず、調べたら「わいふ」でした。旧菊池郡隈府町(わいふまち))

また「大分方面の戦闘」には「4月30日 野村忍介率いる奇兵隊、日向に出発。」とあります。


☆続いて、「奇兵隊に属し、豊後竹田に於て、同隊(奇兵隊)十三番中隊 隊長と為る。是より日州各地に戦いて利あらず、…中略… 六月十七日、薩軍 豊後方面三国峠を守り、夜半官軍の襲う所となり、大敗して退くや、轟、時に旗返峠の険を守りしが、」ということで、8月14日までの攻防が伺い知れます。


☆そしていよいよ、「是より日州各地に戦いて利あらず、八月十七日、長井村に於て官軍に降り、懲役2年の刑に處し東京市 市谷監獄に幽せらる十年の役」ということの様です。「大分方面の戦闘」にも「8月15日 和田越の戦い。薩軍、長井村(宮崎県)に退却」とあり、納得しました。



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