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曽祖父の養母・須賀の前夫、島津務(司)久命とは?

2021-10-22 15:16:43 | 曾祖父・轟のこと

以前、『島津 登について』で頂いたコメントの中で、

「島津務(司=つかさ)久命」という人が気になり、今頃ですがネット検索してみました。

この方、曽祖父の養母・御須賀さんの最初の夫・「島津務(司)久命」だったようだ、とのこと。

(「久命」の読みがわかりません 「新納久命(ひさのり)」という名前があったので同様かな?)

 

検索した結果、そこから「島津歳久」→「島津常久」→「島津忠隣」と見ていったら、

「木脇祐定」の名前を見つけました。こちらは日向伊東氏の一族とのこと。

 

この結果、「島津務久命」についてはわかりませんでしたが、

自分用のメモとして取り敢えず並べてみることにします。

 

「島津歳久」 

これは単に「島津」と「久」に反応してヒットした模様 

 

島津 歳久(しまづ としひさ)は、戦国時代武将島津貴久の三男で、島津義久島津義弘の弟。日置島津家の祖にあたる。

【生涯】【略記】

祖父の忠良(日新斎)から「始終の利害を察するの智計並びなく」という評価をされ[1]、若年より父の貴久や兄の義久、義弘を助けて数々の合戦で活躍した。

その初陣は、天文23年(1554年)、歳久が17歳の時の祁答院良重が拠る大隅岩剣城における合戦で、同母兄の義久、義弘もこの合戦で初陣を果たす。岩剣城は三方を断崖に囲まれた天然の要塞で、戦いは激戦となるも、ついに落城。良重主従は、岩剣城を捨てて本拠のあった祁答院地方(現在のさつま町の大部分と薩摩川内市の一部)へ退くこととなる。

しかしその1年後の大隅蒲生北村城の合戦においては島津勢は敗北を喫し、義久・義弘兄弟は戦場より辛くも脱出し、歳久も敵中に孤立する中、重傷を負いながらも脱出した。歳久22歳のとき、蒲生本城落城によって蒲生合戦は終了している。

永禄5年(1562年)、島津氏・北郷氏相良氏の三氏は、伊東氏により家督と領地を簒奪された北原氏の再興に助力するのだが、歳久は北原氏への恭順に応じない北原旧臣北原兼正討伐の総大将に任じられ、その居城である横川城を攻め落とした。その後、歳久は永禄6年(1563年)から吉田城(松尾城)の城主を命じられ、現在の鹿児島市吉田、佐多浦、本城、本名、宮之浦の統治を任され、44歳になるまでの18年間を吉田城主として過ごした。

この間にかつて姶良地方を追われ祁答院地方の虎居城(現・宮之城屋地)に拠った祁答院良重は、なお入来院氏東郷氏らの渋谷一族と結んで強勢を保ったが、永禄9年(1566年)の正月に、妻(島津実久の娘)によって暗殺され、祁答院氏の勢力は急速に衰退。元亀元年(1570年)、ついに入来院氏、東郷氏などの渋谷一族はこぞって帰順し、ここに島津氏は鎌倉時代以来強勢を誇った渋谷一族の拠点である祁答院地方を平定した。この平定された祁答院領には後に歳久が入る事になる。

天正3年(1575年)には先行した弟の家久に引き続いて、歌道の伝習のために上洛。ただ歌道伝習は名目的なものであり、実際は情報収集と織田信長とのパイプを強化することが最大の目的であった。

天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津勢の侵略により豊後国に一時的に退去すると、伊東氏一族の娘であった梅を梅君ヶ城に連れ帰る。梅は歳久の側室となり、後に伊集院久洪室を産む。歳久には、児島備中守女との間の長女(婿養子の島津忠隣室)と、この梅との間の次女しか子供は居ない。しかも、二人の室は、ともに連れ子ありの再婚である上、身分が正室にしては低すぎるとの事から、歳久は側室のみで、正室はいないとの見方がある。

天正8年(1580年)、先に平定された祁答院十二郷(現在のさつま町の佐志、湯田、時吉、虎居、平川、船木、久富木、鶴田、紫尾、柏原、求名、中津川)1万8千石を加増され、虎居城に入った。歳久はこの地をよく治めながら、三州統一や九州制圧において重要な役割を果して行く。その後は56歳で死去する12年間をこの祁答院虎居城(現在のさつま町宮之城)を本領として過ごしたため、歳久直属軍は祁答院衆(宮之城衆)と呼ばれた。後に歳久自害の報にこの祁答院衆を中心に3000が虎居城に立て籠もったりと、君臣間の信頼が厚かったとされる。

 

「島津常久」

島津 常久(しまづ つねひさ、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将島津家の家臣。薩摩藩家老日置島津家3代当主。

天正15年(1587年)、島津家臣・島津忠隣の子として誕生した。母は島津歳久の長女・湯之尾。

誕生してわずか3か月後の同年4月17日(5月24日)の根白坂の戦いにて父・忠隣が戦死した。残された常久は祖父・歳久の手によって養育されたが、その歳久も天正20年7月18日(1592年8月25日)、豊臣秀吉の命により自害に追い込まれた。歳久夫人と歳久長女はこの処分を不服とし、常久を擁して祁答院宮之城(現・鹿児島県さつま町宮之城)の虎居城に籠城した。この事態を重く見た細川幽斎と主君・島津義久新納忠元を使者として差遣し、歳久の遺族・遺臣を害さないことを約するなど説得を行い、1か月の籠城の末、常久成人の際に旧領を回復するとの条件で開城に至った。

成人後の文禄4年(1595年)に日置(現・鹿児島県日置市日吉町日置)の山田・神ノ川3600石を賜って移住、さらに慶長6年(1601年)には藺牟田を、翌年には祁答院船木村を、慶長13年(1608年)には伊作の中ノ里などを賜った。主君家久の信任厚い家臣として活躍、家久の代理としてしばしば江戸で人質役も務めた。これらの功績に対し、鹿児島城の詰めの城である上之山城の城主に任命された。

慶長19年(1614年)、疱瘡(天然痘)により急死した。享年28。日置の大乗寺に葬られ、後に同じ日置の光禅寺へ改葬された。

 

「島津忠隣」

島津 忠隣(しまづ ただちか)は、安土桃山時代武将島津家の家臣。

【生涯】

島津義虎と御平(島津義久の長女)の次男。天正12年(1584年)、男子のいなかった大叔父・島津歳久(義久の弟)の養嗣子となり、歳久の長女を室とした。

天正14年(1586年)、叛乱した筑紫広門征伐の副将に任じられる[1]。しかし若年であり、また初陣であったことから[2]島津義久より遠矢信濃守良時木脇伊賀入道祐定を付けられた上で7月6日鷹取城攻めを行った[1]。同27日の岩屋城の戦いにも参加、取添口より攻撃し軍功を上げた[1]

天正15年(1587年)、豊臣秀吉九州平定において島津氏は一方的な防戦となり、重要な戦略拠点である日向国の根白坂(現・宮崎県木城町)を宮部継潤に占拠されてしまう[1]。忠隣は、夜襲を掛け根白坂を奪回することを提案するが、無謀な攻撃であり島津家久(義久や歳久の弟、妻方では叔父、母方では大叔父にあたる)に反対されたという。しかし、その制止を振り切り根白坂を攻撃するが、それを予測していた宮部軍の反撃により忠隣率いる島津側のほぼ全員が討死し完敗した(根白坂の戦い)。

忠隣も鉄砲傷を被り、その出血はなはだしく家臣・鎌田囚獄左衛門政金に水を所望すると、囚獄左衛門が傍らにあった青梅を引き千切り差し出した[1]。忠隣はそれを末期の水代わりと一口食べ絶命した[1]。享年19。家臣らは遺体を盾板に載せて退却した[1]

なお、その年の1月に生まれたばかりの長男・常久は歳久によって養育され、日置島津家として系譜は続いた。

 

「木脇祐定」

木脇 祐定(きのわき すけさだ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国島津氏の家臣。

木脇氏日向伊東氏の一族で、祐定はその祖である木脇祐頼より続く嫡流であるが、父の祐利の頃に伊東氏より離れ、島津氏15代貴久に仕官して島津氏の家臣となった。祐定も貴久に仕えていたが、主命によりその三男である島津歳久後見となり、弘治3年(1557年)4月には菱刈氏との戦いで兜首を討ち取るなど、その元で軍功を為した。

天正14年(1586年)6月、歳久の娘婿である忠隣筑紫広門攻めで初陣を果たす際は、遠矢良時と共にその補佐に付けられ鷹取城攻めに参加する。そのときの事、祐定は土瓶に水を入れ鑓に付けて回っていたのであるが、忠隣が焼山を通って顔が黒く汚れたため、忠隣の家臣・脇元城之介がその水を所望して忠隣の顔を洗ったという逸話が『本藩人物誌』に記されている。

 

以上。メモでした。

 

「務」ではなく「中務」だとしたら?と検索したら、「豊久」さん関連しか出てきません〜〜。。

 

鹿児島もすっかり寒さを感じる季節になってきました。

では〜


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