またまた『【第1話】永吉の九良賀野 辰彦様と水上の野元彦十郎様 』からのお話。
東京でイサと轟に会いに、従兄弟の九良賀野辰彦様と一緒に宿を訪ねて来られた
「水上の野元彦十郎様」についてわかったことがあります
数日前のこと、別件で例の『島津家家臣団系図集』をみていたところ、
島津登家の系図に「彦十郎」の名前がありました。
以前もみてはいたのですが、今日はその下の「野元氏嗣」
に気が付き「はっこれは」と思ったわけです
ということで、左源太の妻・タネの弟・島津久籌の息子が「永吉の九良賀野辰彦」さん、
さらに3番目の弟・久馨の三男・彦十郎さんが「水上の野元彦十郎」さんだったようです
野元彦十郎様も島津登久包の孫であり、イサと轟の従弟であったようです
は〜スッキリした
でも、悲しいかな、彦十郎さんのところに「35歳卒」とありました。。
東京で会った時がいくつだったのかはわかりませんが、
明治23年、イサさん51歳、轟が41歳だったことから考えても
彦十郎さんが亡くなったのは数年後のことだったかもしれませんね。。。
篤姫の兄・久敬は廃嫡となり、タネの弟・久籌が継いでいるのですが、久敬さんは廃嫡後に九良賀野(のち九良野)姓になったということなのでしょうか?
野元彦十郎のことまで調べて頂きありがとうございます。
明治23年からかなりの年月が経っているのでなかなか難しいかと思います。
最近気になっているのは、
そのタネの弟「島津久籌」の墓がどこにあるのだろう?ということなのですが、、、。
九良賀野からなまって「賀」が抜けたことまで調べるとは、野田さんの取材力もすごいですね
たまたま「永吉の本〇どん」から先日贈っていただいた「永吉小学校創立百周年・・・・・記念誌」を読んでいて、その中に野田好敬さんの「百五十年前の永吉」という文章を見つけました。文中に幕末永吉郷屋敷割図」(約150年前)という地図があります。その中に「九良野長次郎」(島津久敬)という屋敷があります。ゆきさんは系図をご覧になったいるのでご存知かと思いますが、私は「賀」の字が抜けた誤植かた思い、文章を読み進んでいると、「永吉島津家の二男以下の名字は決められておりました。九良賀野です。・・・久敬の家は九良賀野→九良ヶ野→九良野となまって名乗られました」とあり納得しました。