雪は立ち尽くした。

携帯電話からは、母親の沈んだ声が聞こえてくる。
雪は「分かった、すぐ行く」と言うと、すぐに実家へ帰る支度を始めた。
母親から聞かされたのは、父親の事業が倒産したという知らせだった。

翌日の事務補助のバイトには、当然身が入らなかった。
いつもは軽快に響くキーボードを弾く音も、今日は時たま長い沈黙を挟んだ。

遠藤も品川さんたちも、いつもとは違う彼女に違和感を感じていた。
彼女らの心配をよそに、雪は心ここにあらずの風情でモニターの前で放心している。

心の中を虚無感が支配する。

下を向いていた雪だが、ふと視線を上げた。
前の方から、自分の名前を呼ばれたからだった。

顔を上げると、先輩が雪の方を向いて立っていた。
いつもと違う彼女を前にして、先輩もまた違和感を感じていた。


お昼休み、外に出ると木々の間でセミが五月蝿いほど鳴いていた。
けれど雪の感覚は壁一枚隔てているように鈍く、それに気が付かないかのように沈黙して歩いた。
先輩が腕時計を見ると、時刻は十二時半であった。
「一時まであと三十分あるし、ちょっと休憩してこっか」

雪はぼんやりしたまま「はい‥」と答え、促されるまま先輩と並んでベンチに座った。
「クーラーきついから頭痛くなるよな。ちょっと休んでいこう」

引き続き雪は先輩の言葉にも、心ここにあらずな返答をするだけだ。
俯いた彼女の横で、先輩が優しく声を掛ける。
「何かあった?元気ないみたいだけど」

雪はそう言われてやっと、普段の自分らしくその心配を否定した。

誤魔化すように頭を掻きながら笑う雪に、先輩はゆっくりと言葉を選んで彼女に語りかける。
「あまり言いたくなければ無理にとは言わないけど、
それでも内に溜めとくより外に吐き出した方がいい時もあるよ」

前にも言っただろう?と先輩は言った。
以前の記憶が頭を掠める。
一人じゃないんだから、それくらい大丈夫だよ

あの時、行き詰っていた暗い道に光を差し込ませてくれたのは、彼の温かな眼差しだった。
雪は隣に座った彼を見つめる。

以前も今も、変わらず自分を見つめる彼の瞳の前で、心の扉が揺れる思いがした。
いつも問題をひとりで抱え込んできた雪を、先輩は柔らかく解き解していく。
「実は‥昨日実家に行ってきたんですけど‥」

雪は言いにくそうに口を開くと、父親の事業が倒産した旨を先輩に伝えた。
俯く雪の横で、先輩が大きく目を見開く。

乾いた笑いを立てる雪に何と言葉を掛けて良いのか分からず、彼は思わず口を噤んだ。
雪はそんな先輩を見て、大したことじゃありませんからと両手を広げて見せた。
「差し押さえの札を張られたりとかそういうのもなければ、
借金だって深刻なレベルでもないみたいですし‥」

それに料理が得意な母親が今度お店を始めることになったということを、雪は努めて明るく話した。
それを聞いて先輩はほっとした顔をしたが、雪の表情は依然として晴れない。
「うまくいくといいんですけどね‥。もう‥状況がこうなってしまった以上、
いい方向に考えようとはしてるんですけど‥」

昨日実家で対面した、項垂れた両親の姿が思い浮かんだ。
特に父親は、丸めた背中が一回り小さく見えた‥。
「お父さんはすごく落ち込んでるし‥。なんせ状況が状況だから‥それが何よりも心配で‥。
どうしても気持ちが落ちちゃって‥」

そう言って俯く彼女を、淳は何も言えずにただ見つめた。
夏空の下、二人の間に沈黙が流れる。

雪はそんな気まずい雰囲気を察して、あはははと声を上げて笑い始めた。
「私ってば何やってんだか~!無駄に周りまで暗い気持ちにさせるなんて~!どうかしてますよね~!」

先輩は雪を見て、そんなことないよと何度も首を横に振った。

「それで元気なかったんだね。雪ちゃんもそうだけど、お父さんもさぞ辛いだろうにな。
こういう時こそ前向きに乗りきるしかないんだろうけど、実際そうはいかないもんなぁ‥」

雪は困ったように頭を掻いて、融通の効かない父親について話し出した。
「うちのお父さんは頑固な上にプライドも高いから、立ち直るまで少し時間がかかりそうです」

昨日だって母親と一緒に何度も前向きな意見を出して励ました。
けれど取り付くしまもないほど落ち込んだ父親に、雪と母親は閉口するほかなかったのだ。
「こうなった以上少しでも楽に考えればいいものを‥。
そういう部分がもどかしくて、どう励ましていいのかも分からないんです」

雪が語る父親との話は、淳の心の縁取りに重なるように思えた。
彼女のことを思ってというだけではなく、淳はその縁取りをなぞるように心の扉を少し開ける。
「俺もそういう時があるよ」

先輩の一言に、雪は「本当ですか?」と身を乗り出した。
彼が自分自身のことについて話をするのを、雪は初めて聞いたのだ。

淳ははにかむような表情を浮かべてから、ゆっくりと自身と父親のことを語り出した。
「うちの父親は俺よりも断然大人で賢い人だけど、たまに融通が利かない時があるんだ」

自身の父親は、情が厚すぎて損をするタイプの人間だと淳は言った。
河村姉弟への支援だって、父親のそれは淳の考える程度を遥かに越えている。
淳はいつもそれをもどかしく感じていた。
「それを俺がいくらどう言おうが、父さんの歳くらいになればそれを覆すのは難しいみたいで」

雪はその言葉に、うんうんと何度も頷いた。
頑固一徹な父親を変えることほど難しいことは無いと、雪も常日頃から思っていたからだ。

淳の心の扉は、自身が思っているより幾分大きく開いているようだ。
「でも反対に、」と彼は言葉を続けた。
いつも父親から押さえつけられた肩が、疼くような気がする。
「俺に対してはプレッシャーが半端無くて‥」

幼い頃から厳しかった父の姿が、脳裏に浮かんでくる。
河村姉弟にはいつも甘いくせに、自分にだけ厳しい父親の姿が。
「特に押し付けたりとかそういうのはないんだけど、知らぬ間にそう感じる時があって」

「たまに息苦しくなる時があるんだ」

そう言って幾分俯いた彼を、雪は何も言わずにただ見つめた。
真昼の陽の下で、二人の間に沈黙が流れる。

その微妙な空気を察して、ハハハ‥と今度は淳が乾いた笑いを立てた。
「俺の方こそ暗い気持ちにさせちゃったみたいで‥」

そう言って頭を掻く彼を、そんなことないですと慌てて雪はフォローする。

そして「そういうの、少しは分かる気がします」と、
自身の父親も同じような面があることを認めると、今までの記憶が脳裏を掠めた。

死ぬほどの努力をして保持している”優等生”を、当たり前のように求めるその姿勢や、
弟と比べることで知らぬ間に与えているプレッシャー、そして失敗をした時にされたあの冷遇が、蘇ってくる。
頑張っても頑張っても、得られない愛情。努力しても努力しても、与えられない評価。
自身とあまりにも違う友人と父親との関係性を耳にする度に、心の奥をぎゅっと掴まれる感じがすること‥。

雪は小さく溜息を吐く。
「友達の話とか聞くと、変に比べちゃったりして気に病んでる自分がいるんです。
そんなことしたらいけないって分かってるのに‥」

考えても何にもならないことや、求めてもどうにもならないことが、雪の心を悩ませている。
そんな雪に対して、先輩は「俺もそうだよ」と声を掛けた。
雪はまた意外そうに彼の横顔を眺めた。
「多分誰しもがそうなんだと思う。敢えて他人と比較することで、自分を慰めたり、尚更憂鬱になったりね」

「間違いなく皆も、各自人知れない事情があるだろうに」


雪は何も言わず先輩の横顔を見つめていると、彼は雪の方を見て最後にニッコリと微笑んだ。

陽の光が映り込んだ先輩の瞳に、一筋の明かりが見えた気がした。
去年は漆黒の闇だったその瞳の中に、仄かで温かな一点の光明が。
そして二人は事務室へ向かって歩き出した。
セミの鳴き声が、二人の真上で騒がしく響鳴していた。
その五月蝿いほどの生命力を、雪は真昼の陽の下で感じていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<重なる二人>でした。
お父さんへの二人の気持ちが、重なって見えた回でしたね。
この二人はこういう話を沢山すべきなんですよね、心の中の、話すべき話を。
初めて人と人とで向き合った、雪と淳のお話のような気もします。
次回は<互いを知るということ>です。
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携帯電話からは、母親の沈んだ声が聞こえてくる。
雪は「分かった、すぐ行く」と言うと、すぐに実家へ帰る支度を始めた。
母親から聞かされたのは、父親の事業が倒産したという知らせだった。

翌日の事務補助のバイトには、当然身が入らなかった。
いつもは軽快に響くキーボードを弾く音も、今日は時たま長い沈黙を挟んだ。


遠藤も品川さんたちも、いつもとは違う彼女に違和感を感じていた。
彼女らの心配をよそに、雪は心ここにあらずの風情でモニターの前で放心している。

心の中を虚無感が支配する。

下を向いていた雪だが、ふと視線を上げた。
前の方から、自分の名前を呼ばれたからだった。

顔を上げると、先輩が雪の方を向いて立っていた。
いつもと違う彼女を前にして、先輩もまた違和感を感じていた。


お昼休み、外に出ると木々の間でセミが五月蝿いほど鳴いていた。
けれど雪の感覚は壁一枚隔てているように鈍く、それに気が付かないかのように沈黙して歩いた。
先輩が腕時計を見ると、時刻は十二時半であった。
「一時まであと三十分あるし、ちょっと休憩してこっか」

雪はぼんやりしたまま「はい‥」と答え、促されるまま先輩と並んでベンチに座った。
「クーラーきついから頭痛くなるよな。ちょっと休んでいこう」

引き続き雪は先輩の言葉にも、心ここにあらずな返答をするだけだ。
俯いた彼女の横で、先輩が優しく声を掛ける。
「何かあった?元気ないみたいだけど」

雪はそう言われてやっと、普段の自分らしくその心配を否定した。

誤魔化すように頭を掻きながら笑う雪に、先輩はゆっくりと言葉を選んで彼女に語りかける。
「あまり言いたくなければ無理にとは言わないけど、
それでも内に溜めとくより外に吐き出した方がいい時もあるよ」

前にも言っただろう?と先輩は言った。
以前の記憶が頭を掠める。
一人じゃないんだから、それくらい大丈夫だよ

あの時、行き詰っていた暗い道に光を差し込ませてくれたのは、彼の温かな眼差しだった。
雪は隣に座った彼を見つめる。

以前も今も、変わらず自分を見つめる彼の瞳の前で、心の扉が揺れる思いがした。
いつも問題をひとりで抱え込んできた雪を、先輩は柔らかく解き解していく。
「実は‥昨日実家に行ってきたんですけど‥」

雪は言いにくそうに口を開くと、父親の事業が倒産した旨を先輩に伝えた。
俯く雪の横で、先輩が大きく目を見開く。

乾いた笑いを立てる雪に何と言葉を掛けて良いのか分からず、彼は思わず口を噤んだ。
雪はそんな先輩を見て、大したことじゃありませんからと両手を広げて見せた。
「差し押さえの札を張られたりとかそういうのもなければ、
借金だって深刻なレベルでもないみたいですし‥」

それに料理が得意な母親が今度お店を始めることになったということを、雪は努めて明るく話した。
それを聞いて先輩はほっとした顔をしたが、雪の表情は依然として晴れない。
「うまくいくといいんですけどね‥。もう‥状況がこうなってしまった以上、
いい方向に考えようとはしてるんですけど‥」

昨日実家で対面した、項垂れた両親の姿が思い浮かんだ。
特に父親は、丸めた背中が一回り小さく見えた‥。
「お父さんはすごく落ち込んでるし‥。なんせ状況が状況だから‥それが何よりも心配で‥。
どうしても気持ちが落ちちゃって‥」

そう言って俯く彼女を、淳は何も言えずにただ見つめた。
夏空の下、二人の間に沈黙が流れる。

雪はそんな気まずい雰囲気を察して、あはははと声を上げて笑い始めた。
「私ってば何やってんだか~!無駄に周りまで暗い気持ちにさせるなんて~!どうかしてますよね~!」

先輩は雪を見て、そんなことないよと何度も首を横に振った。

「それで元気なかったんだね。雪ちゃんもそうだけど、お父さんもさぞ辛いだろうにな。
こういう時こそ前向きに乗りきるしかないんだろうけど、実際そうはいかないもんなぁ‥」

雪は困ったように頭を掻いて、融通の効かない父親について話し出した。
「うちのお父さんは頑固な上にプライドも高いから、立ち直るまで少し時間がかかりそうです」

昨日だって母親と一緒に何度も前向きな意見を出して励ました。
けれど取り付くしまもないほど落ち込んだ父親に、雪と母親は閉口するほかなかったのだ。
「こうなった以上少しでも楽に考えればいいものを‥。
そういう部分がもどかしくて、どう励ましていいのかも分からないんです」

雪が語る父親との話は、淳の心の縁取りに重なるように思えた。
彼女のことを思ってというだけではなく、淳はその縁取りをなぞるように心の扉を少し開ける。
「俺もそういう時があるよ」

先輩の一言に、雪は「本当ですか?」と身を乗り出した。
彼が自分自身のことについて話をするのを、雪は初めて聞いたのだ。

淳ははにかむような表情を浮かべてから、ゆっくりと自身と父親のことを語り出した。
「うちの父親は俺よりも断然大人で賢い人だけど、たまに融通が利かない時があるんだ」

自身の父親は、情が厚すぎて損をするタイプの人間だと淳は言った。
河村姉弟への支援だって、父親のそれは淳の考える程度を遥かに越えている。
淳はいつもそれをもどかしく感じていた。
「それを俺がいくらどう言おうが、父さんの歳くらいになればそれを覆すのは難しいみたいで」

雪はその言葉に、うんうんと何度も頷いた。
頑固一徹な父親を変えることほど難しいことは無いと、雪も常日頃から思っていたからだ。

淳の心の扉は、自身が思っているより幾分大きく開いているようだ。
「でも反対に、」と彼は言葉を続けた。
いつも父親から押さえつけられた肩が、疼くような気がする。
「俺に対してはプレッシャーが半端無くて‥」

幼い頃から厳しかった父の姿が、脳裏に浮かんでくる。
河村姉弟にはいつも甘いくせに、自分にだけ厳しい父親の姿が。
「特に押し付けたりとかそういうのはないんだけど、知らぬ間にそう感じる時があって」

「たまに息苦しくなる時があるんだ」

そう言って幾分俯いた彼を、雪は何も言わずにただ見つめた。
真昼の陽の下で、二人の間に沈黙が流れる。

その微妙な空気を察して、ハハハ‥と今度は淳が乾いた笑いを立てた。
「俺の方こそ暗い気持ちにさせちゃったみたいで‥」

そう言って頭を掻く彼を、そんなことないですと慌てて雪はフォローする。

そして「そういうの、少しは分かる気がします」と、
自身の父親も同じような面があることを認めると、今までの記憶が脳裏を掠めた。

死ぬほどの努力をして保持している”優等生”を、当たり前のように求めるその姿勢や、
弟と比べることで知らぬ間に与えているプレッシャー、そして失敗をした時にされたあの冷遇が、蘇ってくる。
頑張っても頑張っても、得られない愛情。努力しても努力しても、与えられない評価。
自身とあまりにも違う友人と父親との関係性を耳にする度に、心の奥をぎゅっと掴まれる感じがすること‥。

雪は小さく溜息を吐く。
「友達の話とか聞くと、変に比べちゃったりして気に病んでる自分がいるんです。
そんなことしたらいけないって分かってるのに‥」

考えても何にもならないことや、求めてもどうにもならないことが、雪の心を悩ませている。
そんな雪に対して、先輩は「俺もそうだよ」と声を掛けた。
雪はまた意外そうに彼の横顔を眺めた。
「多分誰しもがそうなんだと思う。敢えて他人と比較することで、自分を慰めたり、尚更憂鬱になったりね」

「間違いなく皆も、各自人知れない事情があるだろうに」


雪は何も言わず先輩の横顔を見つめていると、彼は雪の方を見て最後にニッコリと微笑んだ。

陽の光が映り込んだ先輩の瞳に、一筋の明かりが見えた気がした。
去年は漆黒の闇だったその瞳の中に、仄かで温かな一点の光明が。
そして二人は事務室へ向かって歩き出した。
セミの鳴き声が、二人の真上で騒がしく響鳴していた。
その五月蝿いほどの生命力を、雪は真昼の陽の下で感じていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<重なる二人>でした。
お父さんへの二人の気持ちが、重なって見えた回でしたね。
この二人はこういう話を沢山すべきなんですよね、心の中の、話すべき話を。
初めて人と人とで向き合った、雪と淳のお話のような気もします。
次回は<互いを知るということ>です。
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