世界に一つだけの姥花日記

貴方は貴方らしく私は私らしく、世界にただ一つだけのきれいな花を一生懸命咲かせましょう。
シニア主婦の平凡な日記です。

これが最後の車と決めました!

2015年04月15日 | 日常の生活

今朝の多摩川土手ウォーキングでは富士山が見えるほどの快晴でした。

予報によると午後から大荒れになるとのことですが、今にも振り出しそうな空ながらまだ大丈夫なようです。

夫はゴルフ、風も強いですから、きっと難儀していることでしょう。。

それに引き換え、ラッキーなことに私は明日が恒例の友達とのゴルフラウンド。

明日はまるで梅雨の晴れ間のようなお天気になりそうです。私ドライバー当番にて良かった!

 

今の愛車スカイラインに乗り続けて早7年が過ぎ、この2月に3回目の車検を通り、8年目に入りました。

走行距離は約60000キロ。レジャーにしか使わないため、7年間乗っているにしては少なめです。

1年前、ゴルフ友達が一斉に燃費のいいエコカーに乗り換え、私もかなり買い替えに気持ちが動き、ゆれました。

が、高齢な上、夫婦共々視力に不安があり、いつまで免許の更新ができるかわかりません。

私はこの夏が免許更新時期、夫は2年先の同じく夏です。

今更歳を隠してもせん無いことで、正直申します。この夏で夫72歳、私69歳(まだ今は71と68)。

彼は2年先の更新ではもう3年しかとれません。私はまだ5年更新できます。

今のスカイライン、6ヵ月ごと定期点検を欠かさず、大事に乗っているためか、とてもエンジンの調子も良く、快適です。
(私が感じるのではなく、車好きの夫が言うのですから、本当なのでしょう)。

買い替えはもう考えないことにしました。このまま乗り続け、この車を人生最後のマイカーにするつもりです。

そこでナビゲーションも車検の際、最新式のもをインストールしてもらい、先日はタイヤ前輪後輪全て新品に取替えました。

タイヤは高いです!諸々の諸費用を含めて13万円(これでも中間の品)かかりましたが、これで後4年は大丈夫!

ニッサンのディーラーもこれで新車の売込みを諦めるでしょう(笑)。

 

 我が家の車の歴史!

結婚したとき、既に主人は「ニッサンローレル」に乗っていました。

このローレルは子供たちからも「ローラちゃん」の愛称で呼ばれ、家族の一員でした。

独身のひとりから二人になり長女が生まれ3人になり、長男が生まれ4人になり・・・。

その家族が増えていくのをずっと見続け、護り続けてくれた車です。

愛車2代目は「トヨタマークツー」。我が家の愛称「マークちゃん」です。

この車購入後、夫のドイツ転勤が決まり、確か半年後ぐらいだったと思います。友達に譲りました。

ドイツでは、車好きの夫は日本人が好むベンツではなく、何故かAudiの新車をオーダー。

半年待たされましたが、その間乗っていたのが、前任者に譲ってもらったFord。

こちらは中古ですので、致し方ないとしても、人気車、新車にしてはAudi、よく故障しました。

しかし6年間乗り続け、私たち家族の海外生活に花を沿え、この車でヨーロッパを楽しく駆け抜けたものです。

 

帰国し今の地に住居を構え、交通の便もいいこと、また唯一運転できる夫の単身赴任が多かったことから、
車なしの生活が10年間続きました。

子供たちが大学生になり、免許をとり、是非車が欲しいと懇願され、購入した車は練習用に5年落ちの超中古車ブルーバード。

我が家にとって5代目の車になります。

私も両親の介護に車の必要性を感じ、ペーパードライバー講習に通い、本格的に運転を始めました。

この中古車ブルーバードはなかなか性能のよい車で、当たりでした!夫以外は皆初心者。

可哀相に、満身創痍の車となりましたが、我が家の足となった思い出の多い車です。

 

6代目は再びニッサンローレル。新古車で展示用、試乗用の車で、割安で手に入れました。

この車では孫可愛さに長女の家まで高速を使わず2時間半かけて頻繁に通いました。

チャイルドシートを常に装備して孫を乗せあちらこちらにも行きました。名づけて孫車!

 

7代目 スカイライン!今の前の車、初めての新車です。この頃から夫婦で楽しむレジャー用の車となったと言えます。

そして今乗っている8代目はフルモデルチェンジしたスカイライン!

老後を夫婦でエンジョイしようと、我が家にとっては最もお金をかけた車です。

音響はBOSE,ライトもLED,7年前は全てが最先端をいく車でしたが、いまや旧型、時代遅れの車となりました。

でもスカイライン、愛しています!このまま乗り続けます!

すぐにお腹がすいて、美味しいものを食べさせないと、機嫌を損ねますから、少々高くつきますが・・・。

明日はその車に友達を乗せて、私の運転でゴルフを楽しんでまいります!

 

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山里の春&生藤山ハイキング

2015年04月13日 | 登山 ハイキング ウォーキング

ようやく晴れました!

お天気がはっきりせず、最近夫婦共々少々運動不足にて、うずうずしておりました。

まるで梅雨の晴れ間を狙うように、夫婦でハイキング即決!近場で山桜の名所生藤山(990m)に出かけました。

皆さん、考えることは一緒のようです。日曜だろうと、今回だけは混み込み覚悟です。

土日の山には比較的少ない中高年が昨日は大半で、最近良くみかける若者は生藤山に限っては少なかったです。

やはり桜への関心度が私たちの世代は高いのでしょうね。

ところがその桜!まったくと言っていいほど咲いていませんでした。ここ数日の寒の戻りで蕾を固く閉じてしまったのでしょう。

ちょっとがっかり!でも久しぶりの青空に(午前中だけ)、気もちのよいハイキングでした。

富士山も、少し霞みがかっているものの、最後まで肉眼ではっきり見ることができました。

山頂近くはまだまだ冬枯れの山道で野の花も見かけませんでしたが、裾野の山里は春爛漫。桜は見ごろ!

ミツバツツジと桜との競演で、まるで桃源郷のようでした。

生藤山は2回目です。この山もいろいろなルートがありますが、今回も一般的なルートで上りました。

中央線上野原駅8:10発の井戸行きバスに乗り(超満員)、石楯尾神社下車。殆どのハイカーがここからスタートです。

三国山までは整備された歩き易い上りがダラダラと続きます。

このあたりは山桜咲く尾根道のはず。でもりっぱな桜の大木にはお花は無し!

やっと見つけた可愛い桜の花。

全てが樹齢何年かを思わせる大木、足元ばかりみて歩いていると桜を愛でることはできません、お気をつけて!(苦笑)。

8時55分登山口をスタートして10時半三国山到着。ここから生藤山までは20分足らずかな?

しかしここが難所で、一旦下り急な岩場の上り。生藤山からはまた同じぐらい急な下り。下りの方が怖いです!

  

茅丸は巻いて、後は醍醐丸まで上り下りを繰り返しながら徐々に下っていきます。

醍醐丸までくれば、私は高尾山系を高尾から生藤山まで繋いで踏破したことになります。

前回は途中「山の神」より和田のバス亭に降りましたので、醍醐丸までは行っていません。

前回の記事はこちらです。

 

醍醐丸から数百メートルのところに和田峠に行く道と和田のバス停に行く道との分岐点、醍醐峠があります。

その分岐点から和田峠を通って陣馬高原下バス停までは4,8キロ、和田のバス停までは半分の2,5キロ。

ショートカットに目が眩みました。和田のバス停への道を選択。が、これは失敗!

樹林帯の全く面白味のない荒れた道でした。ただひとっこひとり会わない静かな山道であったということ、

イチリンソウの群生地に出会えたことは幸いでした。

 
<まだまだこれからでしょう!咲き乱れると見事だと思います>

2時40分、和田のバス亭に到着。休息を含めて約5時間半の爽快なハイキングでした。

 

 

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雑感~故郷を訪ねて

2015年04月11日 | 国内旅行

これを菜種梅雨と言うのでしょうか。

そろそろ暖かくなっても良い頃と思いますが、相変わらずの寒さと雨模様の空。

しばらくはこんなお天気が続きそうですね。寒さに強い我が家でも時折暖房を入れています。

東京近郊ですら、今年は入学式が「雪」という所が多かったのではないでしょうか。

この時期に雪が降ることはそんなに珍しいことではなく、数十年前の息子の高校の入学式も雪でした。

初めて革靴を履いた息子が危なげに恐る恐る歩いていたことを懐かしく思い出します。

そういえば大学の入試の日も雪でした。交通機関は乱れに乱れ、ハラハラドキドキしたのも息子のときでした。

よほど雪に縁があるようですね、息子は!

 

さて帰郷の番外編とでも言いましょうか。もう少し書かせてください。

よく言われますが、広島の街は「路面電車の動く博物 館」。

 

最新型の3両連結ノンステップ電車から、クラシカルなレトロな電車まで、いろいろな電車が走っています。

鉄道ファン、いえ電車ファンにはたまらない街でしょう。

7年前、広島を訪れたときは、まだまだ沢山のレトロな路面電車が走っていました。

私もこの路面電車に乗って、小学校、中学校へ通った懐かしい電車です。

ところが今回、私が街に出て見かけた以前の電車は1台のみ。あまり走っていないように思いました。
(写真を撮り損ねましたので、ホームページからのコピーです)

まるでヨーロッパのトラムを思わせるハイカラな路面電車ばかりになりました。

実際にドイツから貰い下げてもらった電車だと聞いています。

この電車、市民にとっても観光客にとってもは足代わりの大切な交通機関なのですが、

中心部はこの電車のために車で走るのはかなり運転秘術がいりそう!

広島の街を愛車で運転するのはかなり勇気が要ります。友達は見事にハンドルを操っていましたが。

電車には今時珍しい車掌が居て、窓を開け、首を突き出し、常に車との接触を気にしマイクで呼びかけているようでした。

これも聞いた話で正確ではありませんが、広島では車と路面電車との接触事故は日常茶飯事とのこと。

また交通機関では何よりも路面電車が優先されているとも聞きました。それなら地下鉄は?

三角州の上に形成された広島の街は地盤が軟弱で地下鉄は作れないのだそうですね。

とても美しい街だけに、中心部の車の渋滞解消はなんとかならないのかな~と残念に思いました。

 

久しぶりに会って愉しい時間を共にした彼らの私への印象!少々驚きました!

やることがすばやいというのです。そうかな~?自分では全く気づきませんが・・・。

まず歩くのが速い!何事も準備が速い!ついでに喋り方も速い!

これって褒められてるの?けなされてるの?

中学時代の私の印象と随分違ってきてるようです。私もせっかちな都会人になったってこと?

というよりも、これらは日々の私の生活スタイルに原因があるようです。

歩くのが速いのはゴルフの、準備が速いのは最近のツアー参加の影響かな。

喋り方の速いのは・・・・・よく分かりません。

皆は褒めているつもりのようでしたが、私は友の私への印象に少々ショック、反省しています。

せっかちな、気ぜわしい人間に思われるのは私の目指す人間像ではありません。

これからはもっと心にゆとりを持って、物静かに振るまうことができればと思っていますが・・・できるかな?

 

新幹線の窓から、夜のネオンの灯かりが徐々に増え、不夜城の大都会が近づくにつれ、

どこかホッとする感情が沸き起こったのには我ながら不思議に思いました。

今の私にとっては、もう東京が最も居心地良い自分の場所なのでしょうか。

 

「故郷は遠きにありて思うもの、そして悲しくうたうもの」(室生犀星)

 

 

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故郷で過ごした有意義な3日間 その3

2015年04月09日 | 国内旅行

季節はずれの寒さに震え上がった昨日でした。

広島から帰宅して今朝初めて多摩川土手をウォーキング。

最も美しい満開の時期は逃しましたが、遊歩道は花びらが敷き詰められ、「花筵」となっていました。

これもまた風情があるものです。

 

さて懐かしい友が駅前のホテルに集合です、と言ってもたった5人ですが。

中学3年生の時の学級委員をしていた五人組です。

学級委員をしていたということは、ま~それなりに先生とクラスでの信頼はあったのでしょうね(苦笑)。

私自身は、かなり生意気な正義感に燃えた生真面目な生徒であったと記憶しています。


<懐かしい53年前の写真です。左の5人が今回集まりました。手前右側が私です>

14、15歳と言えば、最も多感な思春期、難しい年齢です。

公立中学でしたので、様々な環境の生徒がおりました。それも県内一番のマンモス校。

教職につかれて初めての担任、一クラス60人近くの生徒の指導には並々ならぬご苦労があったと思います。

そんなM先生は中学校教師を定年退職された後、生まれ育った広島湯来町に戻り、

自然栽培に拘りながら農業に、緑と自然を護るために林業に取り組んでいらっしゃいました。

先生が丹精込めてお作りになった合鴨農法によるお米をお土産に頂きました。

早速毎日頂いております。美味しい!

 

先生はやはり最後まで、教育者でした。

子供たちのために「ふるさと探検隊」というボランティア団体を設立し、山では自然観察、登山、植樹、

川では水質調査や魚とり、カヌー体験などの川遊びをと、子供たちと楽しんでいらしたそうです。

素晴らしい老後、人生であられたと!そんな先生の生徒であったことを私達は誇りに思います。

前日までお元気でいらした先生が、突然出先で倒れられ、そのまま帰らぬ人となられました。

山奥の一軒家にひとり残された奥様は途方に暮れていらっしゃいました。

それでも気丈に私たちの来訪を心から喜んでくださり、私たちも遺影ではありますが、

長年の無沙汰とお世話になった感謝の気持ちをお伝えすることができ、心の荷が少し軽くなったような気が致しました。

私を故郷に呼び寄せ、こうして懐かしい学友に合わせてくださったのも先生のお蔭!有難うございます。


<遺影を前に奥様と>

 

先生のお宅を後にし、私たち5人は広島宇品瀬戸内に面した最高のローケーションにある広島プリンスホテルで、
賑やかな女子会です。

途中、広島市内を友の車で走り、もう何処を走っているのか、もと広島っ子の私にはさっぱり分かりません。

それほどまでに広島の街は中心部を除いては私の知る広島の街ではありませんでした。

すっかりよそ者になってしまった気分でした。

ホテルについてからの私たちのお喋りは尽きることなく、懐かしい話がポンポン飛び出し、大笑いです。

その時、皆が思ったことは、人間の記憶と言いものは何とも不可思議であいまいなもの。

ところどころ共通する部分があるものの、それぞれに記憶がバラバラ。

あのときあ~だった、こうだった、「そんなこと言うとらんよ~」「それは覚えとらんよ~」「そうじゃったかね~」と・・・。

次第に話が繋がり、「そんとなこともあったね~」と昔話に花が咲きました。

何故でしょう。私たち年齢が集まると必ずでてくる病気や介護の話題は殆どと言っていいほど出てきませんでした。

すっかり若返り中学生に戻った私たちだったのです。

0時過ぎ、それぞれの部屋に引き上げ、就寝です。

東京から出てきた私のために、わざわざ広島在住の友も一緒に泊まってくれ、感謝感謝、有難う!

あれから53年!皆、それぞれの人生を歩み、美しく歳を重ねました。

 

翌日4月3日はまるで台風のようなお天気でした。

友の車で広島駅まで送ってもらい、広島安佐にひとりで住む82歳になる叔母の家を訪ねました。

5人兄弟の私の父の一番下の妹になります。ちなみに私の父は長男でした。

一昨年叔父が亡くなりましたが、葬儀に列席できず、こちらもまたその無礼をわび、ご仏前にお線香を上げさせて頂きました。

懐かしい従妹も会いに来てくれていて、それはそれはとても嬉しかったです。雪ちゃん、ありがとう!

若い頃はうんと年の差を感じていた可愛い従妹もはや60歳還暦を迎えていました。

「こうなればもう同じ老人の仲間だね」と笑い合いました。

 

懐かしい広島の街をそぞろ歩き、いろいろな人に会い、懐かしい話をし、実に有意義な故郷での3日間でした。

今度広島を訪れるのはいつになるでしょうか。やはり親も家もなくなった故郷は遠く感じます。

次回は、できれば同郷の夫と共に機会を作って是非訪れてみたい故郷広島です。

 

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故郷で過ごした有意義な3日間 その2

2015年04月07日 | 国内旅行


<広島元安川辺の桜 この川には多くの被爆者が水を求め、また熱さにに耐えられず飛び込んだと言われています>>

桜満開の美しい雨の京都でしたが、気持ちは故郷「広島」に向いており、同日夕刻早々に広島入りしました。

懐かしい広島駅は大改修中で、右往左往。予約してあった駅前のホテルに入り、一服する間も惜しんで街に繰り出しました。

育った街ながら、地図を片手に歩く始末。完全に観光の人となってしまった私です。

この日の目的地は縮景園。午後6時までの開園と聞いていたのでちょっぴり焦りました。
(実際はこの桜の時期、ライトアップのため8時まで開園でした、ラッキー!)

まず中心地(八丁堀)まで電車に乗り、そこからそぞろ歩きながら、母校の高校を訪れ、縮景園に。


<我が母校>

縮景園は広島藩主浅野長晟(ながあきら)により、1620年(元和6年)、別邸として築成されたものです。

園の名称は幾多の景勝を縮めて表現したことによって付けられた名前とか。

高校が近くにあったため、よく訪れた園庭でしたが、名前の由来などその当時は知る由もありませんでした。

池の中央にかけられたお太鼓橋のような跨虹橋(ここうきょう)は、縮景園の代表的な、私にとっては懐かしい光景です。

1945年、この縮景園も投下された原子爆弾により壊滅的被害を受けました。爆心地に近いですから当然でしょう。

縮景園は空襲時、市民の避難先に指定されており、被爆直後は多くの被災者で溢れかえっていたと言われています。

今は美しい庭園ですが、それを思うと艶やかな桜の花々にも憂いを感じます。

午後6時からライトアップ!

ほの暗くなった園内に浮かび上がる夜桜はどこか怪しげな艶やかさを放ち、昼間とはまた違った美しさです。

7時前に縮景園を後にし、広島駅前のホテルまで15分、歩いて戻りました。

途中本場広島お好み焼きに舌鼓を打ち、満足満足!

 

翌日は晴れ!集合の11時半まで時間を有効に使うべく、久しぶりに訪れた平和記念公園は、川べりの桜が満開でした。

平和祈念資料館にも時間があったので入館してみました。恐らく何十年ぶりでしょう。

その資料館に納められた被爆者の遺品や被爆者の惨状を示す写真や資料の展示に、

核の恐ろしさを改めて痛感したことは言うまでもなく、悲しみに心が震えました。

原爆の惨禍から蘇った広島の核廃絶の願いがこの展示物に込められ、無言の叫びが聞えるようでした。。

是非全世界のひとりでも多くの人々にこの資料館を訪れて欲しいと、被爆2世の私は心からそう思いました。

フラッシュなしで、写真撮影は許され、何枚かカメラに納めましたが、その惨状はブログに載せるには偲びがたく、

アップするのは止めておき、建物のみアップいたします。

ハーモニカ型をしたこの資料館は丹下健三氏の設計です。ユニークな形ですね。


<原爆死没者慰霊碑 毎年8月6日の原爆の日、その年に亡くなった被爆者の名前が死没者名簿に書き足されます。
私の両親の名も、夫の父の名もここに書きこまれています>


<原爆の子の像 2歳のときに被爆し、10年後白血病で亡くなった佐々木貞子さんは、
闘病生活の中で回復を祈って千羽鶴を折り続けました。生きていらっしゃれば私の姉(かれん桜)と同い年です>

最後に原爆ドーム!

残念ながら原爆ドームは3年に一度の割合で実施されるドームの状態把握の健全度調査中でした。

戦後70年、ドームの傷みも相当なものですが、ノーモア広島のためにも、その保存には力を尽くさねばなりません。

原爆ドームの詳しいことはコチラをご覧下さい。

 

ホテルに戻ったところで丁度友達も集まり、ホテルで軽い昼食をとった後、

今回の真の広島行きの目的である亡き恩師のご仏前にお参りに、奥様の待つ先生のご自宅へ友の車で向かいました。

<続く>

 

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