世界に一つだけの姥花日記

貴方は貴方らしく私は私らしく、世界にただ一つだけのきれいな花を一生懸命咲かせましょう。
シニア主婦の平凡な日記です。

都心の錦秋を求めて~六義園

2024年12月01日 | 日記

今日から12月!ここ数日好天が続いています。

昨日の朝、のんびりと皆さんのブログを読んでいると、夫が突然紅葉を観に行こうと誘ってきました。

正直、全く出かけるつもりはありませんでしたので、少々渋りました。心も体も準備ができていません。

都心の紅葉黄葉も今週が見頃らしいよとさらに私を誘惑。運動不足だろうとも。確かにね~。

そうだ!ブログネタにも事欠いていたので、よしこれはいいチャンスと重たい腰を上げました。

ブログは運動不足解消にも効果ありですね。(苦笑)

 

我が家から六義園の最寄り駅「駒込」までは南北線で乗り換えなしの直通、便利です。

入園料は65歳以上は大人料金300円の半額150円、さらに大人の休日カード提示で120円に。安い!

 

六義園の歴史を、いただいたパンフより簡単に説明しますと・・・・。

六義園は五大将軍・徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳澤吉保が1702年に築園した回遊式築山泉水。

江戸時代の大名庭園の中でも代表的なもので、明治11年(1878年)には、三菱の創業者である岩崎弥太郎の別邸となり、

その後昭和13年に岩崎家より東京市(都)に寄贈されただそうです。

 

入園するや久しぶりの深い緑と爽やかな空気と風に気持ちが高揚しました。来てよかった~と。

<正門から庭園までの小径>

紅葉にはまだ早かったのか、それとも遅かったのか、よく分かりません。ネットには見頃とありました。

ここからは写真ばかりとなります。夫のデジカメと私のスマホの写真混在です。

最近夫は重たいと言い、一眼レフカメラを持ち歩かなくなりました。デジカメです。

<中の島と臥龍石>

池の周囲にはあまり紅葉の木はありません。

心泉亭 お抹茶とお菓子で一服 残念ながら夫にはそんな風流さはありません。

写真だけパチパチ撮って素通りです。

 

<つつじ茶屋> 

明治年間、岩崎氏がツツジの曲がりくねった古木材を使用して建てたあずま屋。

材料が特異なため倒壊防止に斜めに補強材が使われているれいるのが面白いですね。

戦災や火災を免れた園内唯一現存する貴重な建物だそうです。このつつじ茶屋周辺の紅葉がとても奇麗でした。

渡月橋 この橋は六義園でも有名な橋ですが、今回写真を撮り忘れました。

これは7年前、ブログに載せたコピーです。夫撮影。

藤代峠 ↓

園内で一番高い築山で、標高は35m。たった35mなのに息が切れるってどういうこと、情けないです。

山頂からは園全体が見渡せとてもよい眺めです。

 

ランチは園内の茶屋で豚汁と山菜うどんを。美味しかったです。

 

昨日の歩数、ドアツードアで10505歩。最近にしてはよく歩きました

 

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言葉がありません。

2018年07月08日 | 日記

テレビをつけるたびに西日本豪雨の災害の犠牲者が増え続け、もうニュースを観たくないと思うほどです。

広島、佐賀、愛媛・・・・全て我が家にとっては思い出のある土地ばかりです。

皆さんもすでにご存知、私と夫の故郷は広島です。私は南区、夫は佐伯区。

佐賀は夫初めての単身赴任地、愛媛県今治は夫2度目の単身赴任地。

春、夏、冬休み、家族で夫の元を訪ね、共に過ごした懐かしい地です。

すでに両親も他界、広島にはもう家もありませんが、あの辺りはどうなっているでしょうか。

あそこ、ここと見知る地名が出てくるたびに心が痛みます。

 

広島は私が子供の頃は気候も温暖、地震も台風も滅多になく、豪雨の記憶もありません。

原爆という恐ろしい体験をしている街だけに、神様はその償いにこんな住みやすい街のしてくれたのだわと思っていました。

周囲を低い山に囲まれ、風光明媚な瀬戸内海に面し、海の幸、山の幸にも恵まれ、七つの川の流れる美しい街です。

人口も増えたため、近年山を切り開き、造成を重ねて家を建て、地盤が緩んできたのでしょうか。

もともと三角州ですので地盤は決して固くはなく、よって地下鉄も作れないのだと聞いたことがあります。

それでも、こんな大惨事がおこるなんて誰が予想したでしょう。

何故もっと早く避難を呼びかけることはできなかったのか?と私は疑問を感じます。

天変地異はどうしようもありません。

しかしそれにより引き起こされる被害は行政の力で前もって最小限に防ぐことができたのでないかしら。

多くの命があっという間に奪われ、いまだに数十名の方が安否不明です。何ということでしょう!

行方不明の方が、一人でも多く無事で見つかりますように!

また犠牲になられた方々のご冥福を祈るとともに、わが故郷広島の一日も早い再建と復興を、

遠く東京からひたすらお祈りいたします。

 




 



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堂々と!

2018年06月29日 | 日記


<ネットから拝借>

今日は一日中、どこのチャンネルも西野ジャパン、サムライブルーのW杯1次リーグ突破の話で持ちきりだった。

とりあえずバンザイ、おめでとうを言いたい。

西野監督の采配にはいろいろ批判があるけれど、それは今回の試合に限ってのこと。

今までの2試合の勝利とドローがあっての今回の采配と結果。私は立派だと思う。

選手たちにも忸怩たる複雑な思いはあると思うが、スポーツは反則さえしなければ、結果が全て。

決勝トーナメントでは、汚名返上(私は汚名とは思っていない)、今度こそ堂々と全力で戦ってほしい。

日本を背負う侍ブルーの活躍を期待したい。


今回の日本チームの他力本願、消極的パス回しのややアンフェアーと思われる試合運びを観て、

私は先日の米ゴルフツアーの有名プロゴルファーミケルソンのグリーン上での行為を思い出した。

非常に難しいグリーンで、彼はカップ脇を通り過ぎ、まだ転がって動いているボールを、2打罰覚悟で、

カップ方向へ打ち返したのだ。ゴルフのお好きな方ならよくご存じのニュースですよね。

これは反則ではない。でも多くのゴルファーはあっと驚き、彼の行為を批判した。

ミケルソンはホールアウト後、「ルールを自分に有利に利用するのは選手として当然のこと」と言ったとか。

今回の日本チーム時間稼ぎとも思える行為と重なり、何故かそのことを思い出してしまった。


関東甲信越地方は今日、例年より22日早い梅雨明けとなった。6月中の梅雨明けは観測史上初めてだそうだ。

これから長い長い暑い夏が始まるかと思うと、暑がりの私たち夫婦はちょっぴり憂鬱。

梅雨明けの声を聴いて、今年初めてエアコンのスイッチを入れた。

こういう蒸し暑い日は運動をするのが一番(?)。

夫もまだ完璧に腕が上がるようになったわけではないが、そろそろゴルフを始めるかと。

半年ぶりに二人でドライビングレンジ(打ちっぱなし)に行った。

夫は怪我をしてから初めてではないかしら?思うようにいかないと少々手こずっていたけど。楽しそうだった。

また二人でコースへ出てゴルフラウンド楽しましょうね、お父さん!

私の練習風景


 


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平和への祈りの日

2017年08月06日 | 日記

8月6日、今日は72回目の原爆の日、そして21回目の父の命日です。

父は72年前の今日、前日の出張で30分遅れの出社が許されたため、命を落とすことも怪我もなく助かりました。

父の勤めていた会社は爆心地から目と鼻の先でした。

まさかあのような恐ろしい新兵器が落とされたとはつゆ知らず即出社。

その道すがら目にした地獄図はどんなにおぞましいものだったかと、想像するだけでも身が震えます。

その時の様子を父母から聞くことはめったにありませんでしたが、私が記憶にある父母の話を以前のブログに記しています。

すでに何度かお読みになっている方もいらっしゃると思いますが、新しくブログ友達となった方々にも是非読んでいただき、

平和を考えるきっかけにしていただければと思い、ここにコピーさせていただきます。

 

「原爆の日に寄せて」   

2008年8月6日(旧ブログ「プラチナのように輝いて」より) 

 

私達夫婦は生まれも育ちも 広島 です。
今日8月6日は私達、特に私にとっては、重たい重たい忘れられない日です。

私の父母、姉、そして夫、義父、全て 被爆者 です。
私の父母、姉は爆心地から直線距離で3キロ地点の自宅で被爆しました。

私はといえば、その翌年の8月に生まれ、辛うじて胎児被爆も免れました。

父母は悲惨な被爆体験を多くは語ろうとしませんでしたが、裏覚えの父母の話をここに記します。
平和を考える何かのきっかけになってもらえればという思いで・・・。

      昭和20年8月6日の朝 広島は晴れわたっていました。

原爆が投下される少し前、空襲警報が解除され、大勢の人々が戸外にでていたそうです。

父は前日が出張であったため、会社の規約で30分出社を遅らせていました。 

玄関先で靴のゲートルを巻き上げていたその時、午前8時15、突然の閃光とドカーンという爆音 !

父は自宅の裏庭にB29が爆弾を投下したと思ったそうです。

一瞬にして家の中はめちゃめちゃになりました。
つぶれることはありませんでしたが、家は傾き、ガラスは粉々に飛び散りました。

 

実家の2階の部屋に知人夫婦が間借りして住んでいましたが、

奥様は全身に飛び散ったガラス片が刺さり、生死をさまよわれたそうです。

実家の2階の柱にはそのままガラス片がいくつか刺さったままで、
障子や襖と柱は合わさることなく、隙間だらけでした。
このことは私の子供達(父母にとっては孫)もよく覚えています。

父はその後、即会社(爆心地のすぐそばにありました)へ向かいましたが、
その爆弾が新型爆弾の ピカドン であることは当然知りません。
(広島の人は原子爆弾のことをピカドンといいます) 

ただ会社へ向かう道すがら、これはただごとではないと気がついたといいます。
道には焼けた丸太のように、沢山の人たちがごろごろと転がっていたそうです。

その中の一人、全身焼けただれた若い女性が、
「○○さん、私は○○課の○○です。父母に知らせてください」と住所を言い、助けを求めました。
あまりの惨さに誰だかわからなかったそうです。

その住所は爆心地、ど真ん中、父はどうすることも出来なかったと悔やんでいました。

会社は跡形もなく、父は無念にもまた来た道を引き返し、黒い雨を全身に浴びながら、
助けを求める人々や転がる死骸をまたぎまたぎ、母や姉のもとへ急いだそうです。

 

その地獄図 は想像にあまりあるものがあります。

幸いに母も姉も怪我ひとつつなく、無事でした。
父が前日出張でなければ、普通通りに出社していたら、父の命は無かったでしょう。
 
父は運の強い人です 


もうひとつの偶然があります。 

当時 建物疎開 というのがありました。

あらかじめ特定の建物を取り壊し、空襲の折、火災がひろがるのを防ごうという目的で、
多くの主婦、学生、一般市民が強制動員されました。

母の属していた班(路地ごとに区切ってあったようです)は翌日がお当番でした。
お気の毒に8月6日がお当番にあたっていた一本前の筋の方たちは、全員お亡くなりになったそうです。

 

原爆投下がもう一日後だったら・・・。

 母もまた運の強い人です 

この二つの偶然と強運が重なって、私が今ここにいます 


昭和20年 8月6日、父はその命を強運によって救われました。

しかし12年前、まるでその命をその日にお返しするかのように
8月6日その日に、静かに 他界 しました。享年81歳。

今日は父の 命日 でもあります。

合掌


昨日のことです。スポーツ番組でも観ようかとテレビをつけてみると、NHKでドラマ「東京裁判」をやっていました。

昨年12月に放映された再放送のようです。昨日は第1部と第2部。今日の午後4時から第3部と4部があります。

昨年の放送をお見逃しになった方は是非歴史的事実をご覧ください。

日本、オランダ、カナダ、オ-ストラリアの合同制作で、その裁判の11人の判事たちの記録や手記に基ずき、

かなり事実に忠実に描かれているようです。

大変見ごたえのある傑作のように思われます。

私はこの裁判に関しては知らないことばかり、眼からウロコで食い入るように見入りました。

今日の放送3部、4部でいよいよ裁判も佳境に入ります。

きっといろいろ考えさせられることでしょう。

今、気づきました。全編、You-tubeでも観られるようです。


         

           いつもおよみいただきありがとうございます。                              

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友よ!

2017年07月01日 | 日記


昨日は久しぶりに友人とランチでした。


<簡単なランチメニューです>

ランチの後に皆(3人)である展示会に揃って行くつもりだったのです。

でもお喋りをしているうちに時間が無くなってしまって!

それに外は雨、今日は行くの止めましょうとまた続きのお喋りとなりました。

どうしても話は介護、病気、健康、これからの生活の過ごし方、終の棲家の話に流れていきますね。

ひとりの友は97歳になるお母様がまだお元気で、弟さん家族と他県にお暮し、お嫁さんも大変で時々預かったいらっしゃるようです。

預かった折には、お母様にとっては慣れない家ゆえ、万が一のことがあってはと一歩も外へ出られないのよ、と。

また年齢が年齢だけに、お嫁さん、弟さんとは何かあっても恨みっこなしね、と話しているそうです。それが賢明な考え方です。

それでも憧れの地、奈良にセカンドハウスを持ち、行ったり来たりの生活とは羨ましい!

もう一人の友は少々気になる症状が出ていて、本人も周囲もとても心配しています。

それは認知症!本人にも自覚があり、親孝行の息子さん二人に付き添われ、病院で検査もなさったそうです。

やはり診断は軽度の認知症。

しかし今のところは物忘れが多いというだけで、特に生活に困るわけでもなく、一人暮らしをしていらっしゃいます。

とても几帳面で控え目、楚々とした日本人女性の典型のような彼女が・・・・と少しショックです。

1か月前、お花の苗を差し上げるため、お宅を訪ねた時、そのことを彼女の口から直接聞きました。

正直その数か月前から私は心配していました。以前に比べるとすべてに反応が鈍く、何度も同じことを尋ねられます。

約束場所、約束時間も何度も確認の電話があるうえに間違うこともあり、どうしちゃったのかしらと内心とても危惧していました。

メールをするとすぐに返事をくれ、行ったり来たりのメールのやり取りは終わらないくらい。

でも最近はメールの打ち方がわからなくなったって、いつもお電話です。あんなにメールがお好きだったのに。

でも彼女の偉いところは、それを隠さないことです。普通はあまり人に知られてたくないことだと思うのです。

しかし彼女は自ら進んで私たちにこう言いました。

「こんな私になってしまったことを知ってもらって、お付き合いしてもらう方がいいの。迷惑をかけることがあるかもしれないけれど許してね」と。

そうです!それでいいのです!それでないといつの間にか引きこもりになり、病気は進みます。

私たち以外にも趣味のお仲間や学生時代のお友達がたくさんいる彼女。みんなで支えていくわ。

そして何よりもお二人の親孝行の息子さん、そしてその家族が貴女を見守っていますよ。そしてご主人も空の上で。

何も心配しないで、どんどん外へ出て、気軽に友達の輪に加わりましょうね。



いつもお読みいただきありがとうございます。                            

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勝手ながら本日よりしばらくの間コメント欄を閉じさせていただきます。

              

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