【2023年】
宇奈月温泉からトロッコ電車で欅平へ。
≪小さな電気機関車ですが馬力があります。≫
≪宇奈月温泉駅を出るとすぐに渓谷の鉄橋を渡ります。≫
≪冬でも風通しの良い小さなトロッコ列車。1時間20分。。。。≫
≪終点欅平≫
≪過去の記事≫
【2003年】
久しぶりに雲ひとつないよい天気でした。
じと~っとした掛け布団を気持ちよく干しました。今夜は気持ちよく寝ることができます。
近くの公園の桜の紅葉を写真にと思っていたのですが、もうだいぶ葉を落としてきてしまいました。車で横を通ったのですが、きれいでした。
晩秋・・・・冬が近づくいやな気持ちになりますが、こんなきれいな風景(小さな公園の自然ですが)を見ると心が和みます。
【2004年】
(記事なし)
【2005年】
(記事なし)
【2006年】
(記事なし)
【2007年】
(記事なし)
【2008年】
「龍宮」
文春文庫
川上 弘美 著
表題作の「龍宮」をはじめ「北斎」「狐塚」「荒神」「鼹鼠」「轟」「島崎」「海馬」8つの短編からなる短編集です。
まず読み終わり感じたのは、この「龍宮」という短編集は、川上弘美さんのはじめの作品である短編集「物語が、始まる」の続編あるいは対をなす?ような作品ではないかということです。「物語が、始まる」の感想に次のように書きました。
「「物語が、始まる」「トカゲ」「婆」「墓を探す」の4篇を収めた短編集です。
読み終わってからまず浮かんだ言葉が「人生」でした。
女性の人生。。。。。
『「物語が、始まる」は「男」。「トカゲ」は「平凡」。「婆」は「生」。「墓を探す」は「死」。女性の人生を振り返ったとき、さまざまなものがあるでしょうが、大人の女性として性と伴侶すなわち「男」は、その動物的な本能からして大きなものです。
結婚後は生活がありますが、それは「平凡さ」としての日々でもあります。この気が遠くなるように長い年月が続く日常の生活は、女性にとってどのようなものでしょうか?これを幸福と自覚できるかできないか。』
やはりこの「龍宮」もまた女性の人生を暗示的に描いているのではないでしょうか?
短編の類似性から見ると、「トカゲ」と「荒神」では、社宅あるいは団地の中という風景に主婦の毎日が同じタッチで描かれます。
もう少し他の作品と比べると「蛇を踏む」にもつながるでしょう。
「北斎」は、浮世絵師北斎が描いた女に絡まる蛸は俺がモデルだったと語る自称蛸の男が出てきます。その蛸の男が激しい波を眺める「私」に近づいてきて「にいちゃん、むつかしい顔してるねえ」と声をかけてきます。そして「おもってくれよ」と酒をねだり、酒を飲み始めると「こころしてききないさい」と女談義を始める。飲んでは昔の話をしてその時々の女を語る。最後は「女と遊ぼう」と今で言えばナンパをする。女は逃げる。気がつくと世を嘆くようなまじめな無口な「私」も蛸男と一緒に女を追いかけていた。そして「私」は体をぐにゃぐにゃさせて帰っていく。粗野な蛸男。。。っ子にひとつの男を見るならば、「私」という男の奥底にも同じものがあるということだろうか?そういう男が女性と対を組むのである。ある意味人生で。
しかし「龍宮」では女性の立場からそんな粗野な一面の男を「いやらしい!!」という印象では描かない。「荒神」においては、主婦「あたし」の台所に荒神さまが出てくるが、「あたし」が母に話すると、母は「心がけのいい女の台所だけに荒神さまはいらっしゃる」と答える。「心がけのいい女」である「あたし」は、毎日のように万引きをする。知り合った男は自宅まで訪ねて来て「あたし」を押し倒す。荒神さまは「「おまえはしあわせか」と訊いてくる。必死に祈る「あたし」。
ここに北斎の蛸と裸体の女の絵が完成するのだろうか?
読み方によっては、男も同じなのよという川上さんの声が聞こえてくるようである。男女関係の間がらではないが、「古道具 中野商店」に出てくる少し粗野な中野さんと性的描写のある日記を書くその姉のマサヨさんに見るような男女。「龍宮」以後は不思議な世界の作品を感じないものとなるが、裸になった男女というのだろうか?もう少し深く言うなら「人間」という皮をはいだ男女というのか、その中で改めて人の心を考えさせられる作品が続く。
こう書くと、川上作品はなんだかいやらしいような作品として感じる方もいると思うし、人間のある一面を鼻ずらに突きつけられるように感じる方もいると思う。しかし突きつけられた後に何かが心の中に残り、それはけしていやらしさではないのである。
では、このただ単にいやらしいとだけ受け取れない、逆にそのままに川上作品を受け入れる底には何があるんだろうか。それは人間「動物」も他の動物たちと同じ営みにおいて脈々と命を伝えてきたのであるから。もちろんそこには人間動物だけが高度に持つ(持ってしまった)心や社会的倫理の中にあるという違いがあるだけで、根本的なものには違いはない。人間動物は生物界においては新参者である。謙虚に心の発達や社会的倫理に優越感を持たないなら、他の動物たちと同じ視点で性を見ることができるだろう。現実に人間動物はそのように命を伝えている。誤解のないように書きますが、レイプやその他の社会的倫理を否定するわけではなくて、性の根本的な意味で、他の動物たちにレイプがあるのかという面で考えれば、人間動物だけの悲しみです。
このような人間を「人間動物」としてみて、人間動物だけが持つ心の動きという悲しみを見る中に、「龍宮」や「轟」も理解できるのではないか。龍宮城に行っていた浦島太郎が現在に現れたかのようにご先祖様のイトが現代の「私」の前に現れる。
「なにさ、あんただってあたしの血筋の者のくせに」 (37ページ)
逆に「島崎」の中でご先祖様一目ぼれする「あたし」。生命のつながりは混沌として現在に現れている。過去の時間の流れとして今があるとすれば、人間の命も心も社会的倫理も混沌として現れているのである。
川上作品には人間社会に動物が出てくる。この短編集にもモグラ?や海馬が自然に人間社会に暮らす。もしこれらの動物たちが人間動物と同じ心を持ったら?ということだろうか?人間動物から心や社会的倫理を取り去ったなら他の動物と同じであるという逆の側面だろうか?
モグラは、捕まえてきた人間に餌をやる。人間もあなたが捕まえる人間をあそこでみたよと。。。。メスの海馬は人間動物のオスにひどい仕打ちをされる。そして海に帰る。
こう見ると動物いや生物の中の人間動物も混沌といてくる。もう少し深読みをすれば、海馬は現代の女性そのものである。それは一番初めに書いた「北斎」での人間動物の粗野なオスとその中において幸せも感じるメスである。メスは社会的倫理(男社会の倫理といってもよいのか)から抜けて海に帰る。そこには命を伝える母性がある。
「私は海馬に戻って、海を泳いだ。沖の漁船を追い越し、(中略)子供の笑い声が、耳元に響いた。私はそのまま走り続けた。昼も夜も尽きるところを目指して、、どこまでも、走りつづけた。」
同時に母性は、いつか子供自体が命を伝える者として人間動物として生きていくようになれば、メスは一人海を走り続ける。ご先祖様になっていくんでしょう。。。混沌とした生命界の中に。
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
道の駅 東山道伊王野(とうさんどう いおうの)
茨城県?栃木県?(笑)どちらの県になるのかな?県境あたりにある袋田の滝方面にドライブに行ってきました。朝早く起きて昨晩炊いておいたご飯でおにぎり!具は生タラコと昆布です。先日千葉県佐原で買ってきた竹細工の弁当箱に入れて。。。。。竹は殺菌作用もあるそうで、編みこみの竹は湿気を逃がしてくれるので傷まないそうです。途中のサービスエリアで食べたのですが、まだ竹も新しいのでほのかに竹の香が。おいしかったです。
茨城県に入り常磐道のいくつものトンネルを抜けて出口を出て剣道県道を走るとすぐに山の中に入ります。袋田の滝まで30キロほどあるのですが途中の山そして麓の里も紅葉がきれいでした。紅葉の名所といった派手さはないのですが、名も知らない低い山々や麓の小さな紅葉ののどかさが好きです。山道の両脇の紅葉、山道を抜けると農家やお寺の塀の向こうの紅葉そして神社のこんもりとした鎮守の森の紅葉。ハンドルを握っていてもはっとすることがあります。そのはっとした景色は頭の中に写真のように焼きつきますね。
袋田の滝は近年水の量が少なくなったよう気がするのですが、それでもすだれのように流れる水は美しいです。両脇の山も紅葉していましたが、本格的な紅葉はいま少しかな。
さて道の駅「東山道意王野」ですが、袋田の滝から栃木県に入り40キロほどのところの那須町にあります。那須町大字伊王野です。
日曜日と言うこともありますが駐車場はほぼ満車でした。まだ新しさを感じる道の駅です。
ちょうど昼飯時につきましたので、昼飯をと思ったら蕎麦屋さんに行列が。
今の季節新蕎麦が出たそうでこの気節限定の蕎麦がありました。ラッキーです!!
30分ほど並び席に着けました。さて蕎麦ですが、コシがありうまい蕎麦でした。店先ではお二人のおじいちゃん(失礼)が蕎麦を打っていました。蕎麦は少し緑がかった蕎麦で他の人が食べていた限定でない蕎麦は普通の色のような?
おいしいにはおいしいのですが。。。。。蕎麦を口に入れたときの蕎麦の香が?
どうなんでしょ?蕎麦らしい蕎麦をイメージすると少し違うような?もちろんうまいんですよ。また食べたいです。でも蕎麦のイメージが少し違うと言うこと。蕎麦湯は蕎麦の香がしましたので食ったときの僕の感覚が変だったのかな?
一緒に頼んだ天然鮎を使った「鮎ご飯」もうまかったです。お近くに住まいの方、那須方面に遊びに行く方、お勧めです。
蕎麦屋さんのほかには物産販売所と地域のお祭りで使用するお神輿を飾ってある建物。物産もそうは多くなかったです。でも印象としては真面目な道の駅。。。。。
キクイモと平茸そして地元でつくられたチーズケーキを買ってきました。チーズケーキは添加物無しで濃厚な味でおいしかったです。お勧めです。
僕としての評価は。。。。ううん、ABCでいえばBに近いCかな。。。。設備面ではそうは面白い道の駅ではないが、雰囲気はいいから。
キクイモと平茸は袋田で買ったしみコンニャクと一緒に天麩羅にしました。おいしかったです。
【2011年】ツイッターつぶやき
政府はTPP協議に参加する方針だが、早くもアメリカは牛肉・自動車・郵政の三部門の解放を要求したという。この中身は以前からも議論になっていたものもあると思うしある意味日米の二国間交渉という中身である。韓国がアメリカとの二国間FTAを決めたが、アメリカのTPPにおける日本への要求も結果は同じこととなる。
TPP参加国はいくつかあるわけだがその国々を含めた共通理念とはなんだろうか?アメリカが主導をしてTPP参加国と独自に中身を決めていくというもの以外ではないのではないか?日本が三部門の解放を要求されたが、本来はすべての関税の廃棄こそがTPPであるはずで、アメリカの要求がどうのということよりもすべての関税をなくすことがどうなのかが問われるべきである。三部門をづするという議論が国内(政府)で行われるだろうが、これで参加方針を決めたらえらいことになるわけである。
牛肉はアメリカの要求を呑むことでオーストラリアの牛肉との競合がでる。当然TPPにさんかだからオーストラリアの牛肉の関税も廃止される。自動車は日本からアメリカへ輸出される。しかし日本はアメリカでの現地生産が多いがアメリカは日本での現地生産はあるのか?日本は郵貯という巨大金融機関を開放をする。しかし日本はアメリカのどの部門を開放してほしいのか。どう考えてもアメリカ主導でしょう。日本はアメリカに対して何を要求するのかが全く見えないわけである。
TPPはある意味解放とはいえほんとはアメリカの保護主義ではないか?
【2012年】ツイッターつぶやき
経済成長どころかマイナス成長に落ち込んでいる先進国。企業利益のために国家は赤字財政を続ける。
もう一般国民は骸企業やセレブ達を養う余力はなくなっているのである。成長率が高かったころはその余力はあったが今の時代は一般国民の貧困化でしか企業やセレブを養い切れなくなっているのである。一人のカリスマ経営者もそのカリスマ性の裏には安い労働力を使わないとだめでしょう。そうしないとセレブにはなれない。
だんだんとこの養い切れないという意識が表面化をしてアメリカでの1%と99%が問題になり、中国でも権力者の蓄財や収賄に目を向きつつある。日本でも同じで、特に東電の生き残り策が国民生活の犠牲において行われることに強い批判がある。大企業にしても海外に資本移転をして国内は冷え切っている。
一般国民の中にも格差は広がり、官民や正規社員と派遣などという矛盾が広がり、一般国民同士での生活切り捨て競争としての公務員批判や正社員批判が出る。一般国民自身がその生活の不安定さからより良い条件の一般国民を批判をして足を引っ張り、結局は自らの生活向上を自粛してしまう。
経済の人の心に及ぼす影響も犯罪やちょっとした言動にとげとげしさや上から目線のいじめ的なものが出る。
こうした一般国民の意識は排外主義に向かい敵を海外に求めて満足をする。ナショナリズムは貧困化から生まれる。
基本的な、一般国民は大企業やセレブを養い切れなくなっているという視点で結束をしなければならないでしょう。これは命の問題でもある。放射能もそうですし経済的理由での自殺もそうです。
【2013年】ツイッターつぶやき
BLOGOSに「私たちの身近に降りかかる生活保護改悪-「針の踏絵」強制、親族「共助」へ国の責任転嫁する生存権侵害」という記事があった。
芸人の方の親族の生活保護受給について問題化されてから生活保護への世論にも批判が多くなったのは明らかでしょう。しかしこれを取り上げて生活保護を必要とする方が受給しにくくなることも同時に考えなければならない。この必要な方が受給しづらくなることそしてその受給条件が1親等どころか三親等にまで仕送りなどができないかを問われるとなれば、生活保護という公助そのものが否定されたことに等しいでしょう。
他の先進国に比べて日本はまだ生活保護の方がだいぶ少ないと言われています。子供の頃教室の中で一人の子だけが先生にプリントされた紙を渡していた。僕は何の紙か知らなかったのですが、周りの子はひそひそと「セイカツホゴ・・・・」とか話していたのをよく覚えています。日本では昔からこのような偏見が多くていまもその偏見が残っていることが受給者の数が少ないことに現れているのだと思います。日本人は「世間様の目」には弱いですね。こういう中で生活保護受給を3親等にまで知らせて受給できるかを判断されれば受給したくても申請すらしなくなるでしょう。
同時に生活保護の話が来ればその3親等の親戚一同が相談をして仕送りをするしかなくなるでしょう。あるいは親戚とはいえ行き来がなければ迷惑だとも言われるかもしれない。1親等の問題となる。それは負担が大きくなるということです。
なんとなく昔の家制度の復活を思い出すようです。
自助・共助は家制度の復活でしょう。
今の社会はたとえば年金制度も若い人の負担が大きいから若い人は損をするといった見方が強くなっています。たしかにそれは事実かもしれませんが、それでは年金額を大幅に減らしたりしたならば、今でさえ年金だけでは食えないわけですからやはりここでも家制度の中での仕送りが問題となる。公的年金で若い人が大変というものから家庭内などでの私的な負担増に代わるだけなのです。若い人の負担に変わりはないわけです。
生活保護にしろ年金制度にしろ公助がなくなり困るのは中間層以下のそうは豊かとはいえない層の人々の負担感が高まるということです。高所得者はそもそも生活保護や年金には頼らなくて位わけですから貧乏人が自助や共助で生きていけばそれはそれで負担が減るわけですから良いのです。
格差社会はこういった公的なサービスにまで及んでくるのでしょう。
よく介護保険はある程度の資産がある人々に有利とも言われています。自分の家があれば介護保険でバリアフリーの工事も補助してもらえる。しかしアパートでは大家の承諾が必要でしょうし、個人負担分に耐えられないかもしれない。
生活保護の問題や年金制度の問題など階層や世代の問題として考えてはいけないものなのです。問題点はやはり格差であり公助の位置づけと自助や共助の社会システムの後退と見るべきなのです。
低賃金化や貧困が増加していくとなおさらこういった公助から自助(共助)へといったものが広まっていきます。
格差は一方における贅沢に対する生存の不安定性となり、格差そのものの中身自体に広がりが出てきます。
【2014年】ツイッターつぶやき
報道の中でも解散の今ささやかれている解散風には解散の大義がるのかという批判が出ている。
何のための解散か?
消費税を10%に再増税をするものを国民に問う選挙なのか?今はこれぐらいしか解散の理由は見つからないだろう。女性大臣のスキャンダルなどもありアベノミクスも失敗かとささやかれているわけですから内閣が信任されなくなったために総辞職ならば話はわかる。
しかし解散されて消費税10%を問うというのならばその答えはもう出ているはずです。世論調査を見ても反対は多くなっていますし、何よりも円安や消費税による悪性の物価高が国民生活を圧迫をして経済自体もこの悪性の物価高を除けば成長などしていないのが見えているとも報じられています。公開性をして10%への増税は行わないことを決めるべきなのです。あるいは少なくとも延期をして十分な国会の議論を行うべきなのです。
民主党も消費増税10%ができなくなったらアベノミクスの失敗が認められたことになるといった批判から先送り容認へと軟化した表現となっているようである。
二大政党が消費増税先送りを決めて、法的にも時期はずらせることになっているのですから何もすごい税金を使ってまで解散総選挙はやる意味がないでしょう。アベノミクスが失敗、時期をずらすでいい。
すぐに消費増税をやるべきと、先送りするべきとの対立は自民党内のごたごたです。今更軽減税率がどうのというのは与党内のごたごたです。そして選挙向けの公約です。何も総選挙などやらずに、先送りして軽減税率を考えればいい。それに対する先送りではなく消費増税反対を言う野党と議論すればいい。
こう見ると今の解散は自民公明の政権維持のための選挙でしかないことが見えてくるのではないか。
小泉政権時に改革に反対する自民党はつぶすとまで言っていたが、結局はそれも自民党内のごたごたでした。そして選挙には勝った。すぐ増税という悪者を作り増税は先送りというまやかしの善を国民に見せて選挙は勝つという構図。。。。
デフレからの脱却が物価が上がることだという。しかし物価が上がれば物は消費されにくくなる。
これだけを見ても物価が上がることによるデフレからの脱却というものには矛盾が生じる。
消費が伸びると物価は上がる。そしてその物価が上がったことによりデフレからインフレ傾向となるという順番で考えることの方が正しいのではないか?
この順番に沿ってこそ金融政策も政府の政策も効果が出るということである。
しかしアベノミクスや日銀の量的緩和はこの逆さまのことをやっている。
消費が伸びるには何が必要か?
勤労国民の賃金が上がることと社会保障の充実が必要です。これまでこのブログでも書いてきましたが、賃金は労働力の再生産費です。労働者が平均的な労働力の再生産を行う程度はその社会の生産力による。日本の労働者の賃金はずっと下げられてきたわけですから社会的に豊富な生産力があっても労働者はそれを消費できない状態で労働力の再生産を行わざるを得なかった。これを生産力に見合った賃金にしなければならないということです。
同時に賃上げだけではなくてモノの値段が下がることによっても相対的に消費は伸びます。日本は賃下げ傾向にあっても物価が下がっていたこそ消費を支えられる部分があった。
物価が下がっても労働者の消費が伸びるならばそれはデフレ(不況)という現象を生まないのではないか?
ここから初めて、消費が増えることにより物価が上がる傾向を示すようになってインフレ傾向となる。
この経路を進むように経済の進路の変更が求められる。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
朝日新聞朝刊に世論調査があった。【数字および太字はこのサイトより引用】
まず内閣の支持率を見ると支持するが44%で支持しないが39%。支持支持しないがほぼ拮抗している。
先の総選挙での自民党独り勝ちという結果とこの支持率を見るとやはり現実は国民意識と乖離していると見える。もちろん支持しないとしても野党の現状から消去法で自民党が勝ったというものは見えるが。
阿部首相に一番力を入れてほしいと思う政策は、
景気・雇用20▽社会保障32▽原発・エネルギー6▽教育15▽外交・安全保障15▽憲法改正6
安倍総理は憲法改正に意欲を示しているが、国民意識は6%にとどまっている。安倍内閣は選挙後社会保障の切り下げや負担増を言っていますが、国民意識としては32%と一番期待をしている。
景気・雇用も20%と大きい。
景気も様々な統計では一応良い数字が出ているとされるが、巨大企業の不祥事が続き、銀行の寺院削減が大きく報道されて利潤率は低下をしている。企業の内部留保は増加をしているが、それが国内の設備投資や雇用・賃上げ・雇用形態の改善にはつながらない。
このような中で国民の景況感は
大いに実感している1▽ある程度実感している15▽あまり実感していない49▽まったく実感していない33と、株価の高騰はあるがそれが国民生活からすれば好況とは映らない。
以上のように見ると、国民が求める政治への期待と現実から見た未来の実態とは増々乖離をしているとみるべきではないでしょうか。
その株価の高騰もバブルではないかという見方が増えつつある。
黒田日銀の金融政策も限界が見えてアベノミクスも国民生活向上から乖離していく様子が目に見えてきている。
【2018年】ツイッターつぶやき
昨夜は日銀が政府の統計に不信感を持ちつつあるという記事について買い来ましたが、その日銀も総資産がアベノミクス後膨れ上がりGDPを超えたそうです。
以下ツイッターから
量的緩和の副作用の中、いつかは出口に向かわざるを得ないが、金利が上がれば日銀が債務超過になるという懸念も。
異次元緩和も結局はアベノミクスと同じく経済を混乱に導く結果になりそうです。
結局は言葉だけで経済は「道半ば」「回復傾向」といわれるだけで、現実は2%は放棄されて株価や企業利益の裏にはデフレ傾向が存在し続ける。ある意味スタグフレーション。デフレは貨幣量が足りないのではなくて資本として機能しない金の金余りです。日銀も銀行も企業も金がだぶつく。国民は疲弊する中
貨幣量を増やしていき経済の器にどんどん注入してどこかの地点であふれかえることを期待しているが、どん欲な資本主義は守銭奴的ですからあふれかえって勤労国民の懐に入る金は存在しない。すべての価値は大衆消費材の価値に移転しなければならないが消費する側に金がない。ますます金余り傾向に。
内需拡大をできずに(内需拡大は企業利益を減らすというバカげた論理からも)中国などの発展した国家頼みに陥っているが、同盟国が中国と経済戦争に。昨日は日米の株安でしたね。
通貨安競争の結果が副作用のほうへ動き慌てて中国へ経済面での接近。ロシアともどのような話が中心になるか?
【2019年】ツイッターつぶやき
桜を見る会の中身がだんだんとそのひどさが報道されはじめています。
正体は様々な分野で活躍をした方を呼ぶことになっているのだそうですが、内閣の中で総理をはじめ招待客を割り振るわけですが、各省庁の大臣がその省としてみた活躍をした人を選ぶなら何ら問題はないはずですが、自分の事務所を通じて小たいきゃ招待客を選ぶのですから桜を見る会の私物化といわれても否定できないでしょう。
本来ならばこういうことは大臣として恥ずかしいはずですよね。
しかし恥ずかしさはどこ吹く風で地元の人に力を見せつけることに優越感やらを持ってしまう。自分には力があるという誇示です。
本当なら恥ずかしいはずのことも今の政治は恥ずることはなくなっている。
数の力などの力を持つとひどい場合には行き着く先は独裁です。好き勝手に恥ずべきことも平気になり、だれも批判しなくなります。
日本に政治を取り戻さないと大変ですね。
ずっと国会では大臣の不祥事やら地方でも議員の不祥事が続いている。国家内も省庁を含めて公文書や統計がへんてこになっている。ほんとは恥ずかしいことなのですが、時間がたてば国民は忘れる。逆に国民も政治の数の力になれてしまっている。慣れてしまう以上に損得を見てしまう。
【2020年】ツイッターつぶやき
社民党の大会がどうなったのかはまだわからないが、ツイッターを読んでいると福島瑞穂さんが社民党に残ることになりそうで、ほかの議員は立憲民主党に合流をするようです。
社民党もともしびのように。。。。。
天国で土井さんは泣いている、いや、怒り狂っているでしょうね。
そう、泣いていても仕方ない。怒りが無いとだめなんです。
福島さんだけですが、地方組織はどうなんでしょ?社民党がどうにか生き残ってきたのは、社会民主主義という理念と地方組織の力です。そして女性の力強さでした。
社会民主主義をどう広めていくか。。。。。
これには国会の議席が必要なのですが、社会民主主義の理念が国民の心をどうつかむかですね。
勤労国民を中心とした国民の実態は、すでに今の資本主義では改善されないほどひどいものになっています。その実態に社会民主主義の理念は必ず結びつきます。
旧民主党の分裂と結集の数合わせは政策には反映されていません。自民党に対立する別の保守主義です。ここに必ず矛盾は吹き出します。
一方の自民党は数の力で押し切っているようですが、中身は自壊をはじめている。
【2021年】ツイッターつぶやき
山茶花が咲きはじめました。
公園の片隅にはスイセンの葉が伸びてきてつぼみも膨らみはじめました。
一昨年だったか、公園に行ったら赤い小さな花がたくさんついている低木がありましたが、エリカという花だそうです。今年も咲いているかな。
去年は十月桜というのも見に行きましたが、お寺や広い公園に初冬の花を見つけに行くのも楽しいかもしれませんね。
【2022年】ツイッターつぶやき
車で出かけてきました。
首と高速道路を抜けて行かねばならないのですが、分岐がたくさんあり次は左車線に入って、次は右車線と緊張しながら分岐をクリアーしながら運転をします。いつまでたっても慣れません。
分岐があれば合流がある。これまた緊張しますが、一番困るのが「X」状の分岐です。合流したらすぐに右車線に入ってすぐにまた分岐を右へとか。おろおろしながら合流、車線変更身近い区間内で行わなければいけない。だいたいウインカーを出せば入れてくれる方が多いのですが、時にはいじる悪な方もいますからなぁ。
こんな首都高速道路は渋滞もありつかれながら走るのですが利用料も数年おきに値上げ。
家に帰り着くとぐったりです。
宇奈月温泉からトロッコ電車で欅平へ。
≪小さな電気機関車ですが馬力があります。≫
≪宇奈月温泉駅を出るとすぐに渓谷の鉄橋を渡ります。≫
≪冬でも風通しの良い小さなトロッコ列車。1時間20分。。。。≫
≪終点欅平≫
≪過去の記事≫
【2003年】
久しぶりに雲ひとつないよい天気でした。
じと~っとした掛け布団を気持ちよく干しました。今夜は気持ちよく寝ることができます。
近くの公園の桜の紅葉を写真にと思っていたのですが、もうだいぶ葉を落としてきてしまいました。車で横を通ったのですが、きれいでした。
晩秋・・・・冬が近づくいやな気持ちになりますが、こんなきれいな風景(小さな公園の自然ですが)を見ると心が和みます。
【2004年】
(記事なし)
【2005年】
(記事なし)
【2006年】
(記事なし)
【2007年】
(記事なし)
【2008年】
「龍宮」
文春文庫
川上 弘美 著
表題作の「龍宮」をはじめ「北斎」「狐塚」「荒神」「鼹鼠」「轟」「島崎」「海馬」8つの短編からなる短編集です。
まず読み終わり感じたのは、この「龍宮」という短編集は、川上弘美さんのはじめの作品である短編集「物語が、始まる」の続編あるいは対をなす?ような作品ではないかということです。「物語が、始まる」の感想に次のように書きました。
「「物語が、始まる」「トカゲ」「婆」「墓を探す」の4篇を収めた短編集です。
読み終わってからまず浮かんだ言葉が「人生」でした。
女性の人生。。。。。
『「物語が、始まる」は「男」。「トカゲ」は「平凡」。「婆」は「生」。「墓を探す」は「死」。女性の人生を振り返ったとき、さまざまなものがあるでしょうが、大人の女性として性と伴侶すなわち「男」は、その動物的な本能からして大きなものです。
結婚後は生活がありますが、それは「平凡さ」としての日々でもあります。この気が遠くなるように長い年月が続く日常の生活は、女性にとってどのようなものでしょうか?これを幸福と自覚できるかできないか。』
やはりこの「龍宮」もまた女性の人生を暗示的に描いているのではないでしょうか?
短編の類似性から見ると、「トカゲ」と「荒神」では、社宅あるいは団地の中という風景に主婦の毎日が同じタッチで描かれます。
もう少し他の作品と比べると「蛇を踏む」にもつながるでしょう。
「北斎」は、浮世絵師北斎が描いた女に絡まる蛸は俺がモデルだったと語る自称蛸の男が出てきます。その蛸の男が激しい波を眺める「私」に近づいてきて「にいちゃん、むつかしい顔してるねえ」と声をかけてきます。そして「おもってくれよ」と酒をねだり、酒を飲み始めると「こころしてききないさい」と女談義を始める。飲んでは昔の話をしてその時々の女を語る。最後は「女と遊ぼう」と今で言えばナンパをする。女は逃げる。気がつくと世を嘆くようなまじめな無口な「私」も蛸男と一緒に女を追いかけていた。そして「私」は体をぐにゃぐにゃさせて帰っていく。粗野な蛸男。。。っ子にひとつの男を見るならば、「私」という男の奥底にも同じものがあるということだろうか?そういう男が女性と対を組むのである。ある意味人生で。
しかし「龍宮」では女性の立場からそんな粗野な一面の男を「いやらしい!!」という印象では描かない。「荒神」においては、主婦「あたし」の台所に荒神さまが出てくるが、「あたし」が母に話すると、母は「心がけのいい女の台所だけに荒神さまはいらっしゃる」と答える。「心がけのいい女」である「あたし」は、毎日のように万引きをする。知り合った男は自宅まで訪ねて来て「あたし」を押し倒す。荒神さまは「「おまえはしあわせか」と訊いてくる。必死に祈る「あたし」。
ここに北斎の蛸と裸体の女の絵が完成するのだろうか?
読み方によっては、男も同じなのよという川上さんの声が聞こえてくるようである。男女関係の間がらではないが、「古道具 中野商店」に出てくる少し粗野な中野さんと性的描写のある日記を書くその姉のマサヨさんに見るような男女。「龍宮」以後は不思議な世界の作品を感じないものとなるが、裸になった男女というのだろうか?もう少し深く言うなら「人間」という皮をはいだ男女というのか、その中で改めて人の心を考えさせられる作品が続く。
こう書くと、川上作品はなんだかいやらしいような作品として感じる方もいると思うし、人間のある一面を鼻ずらに突きつけられるように感じる方もいると思う。しかし突きつけられた後に何かが心の中に残り、それはけしていやらしさではないのである。
では、このただ単にいやらしいとだけ受け取れない、逆にそのままに川上作品を受け入れる底には何があるんだろうか。それは人間「動物」も他の動物たちと同じ営みにおいて脈々と命を伝えてきたのであるから。もちろんそこには人間動物だけが高度に持つ(持ってしまった)心や社会的倫理の中にあるという違いがあるだけで、根本的なものには違いはない。人間動物は生物界においては新参者である。謙虚に心の発達や社会的倫理に優越感を持たないなら、他の動物たちと同じ視点で性を見ることができるだろう。現実に人間動物はそのように命を伝えている。誤解のないように書きますが、レイプやその他の社会的倫理を否定するわけではなくて、性の根本的な意味で、他の動物たちにレイプがあるのかという面で考えれば、人間動物だけの悲しみです。
このような人間を「人間動物」としてみて、人間動物だけが持つ心の動きという悲しみを見る中に、「龍宮」や「轟」も理解できるのではないか。龍宮城に行っていた浦島太郎が現在に現れたかのようにご先祖様のイトが現代の「私」の前に現れる。
「なにさ、あんただってあたしの血筋の者のくせに」 (37ページ)
逆に「島崎」の中でご先祖様一目ぼれする「あたし」。生命のつながりは混沌として現在に現れている。過去の時間の流れとして今があるとすれば、人間の命も心も社会的倫理も混沌として現れているのである。
川上作品には人間社会に動物が出てくる。この短編集にもモグラ?や海馬が自然に人間社会に暮らす。もしこれらの動物たちが人間動物と同じ心を持ったら?ということだろうか?人間動物から心や社会的倫理を取り去ったなら他の動物と同じであるという逆の側面だろうか?
モグラは、捕まえてきた人間に餌をやる。人間もあなたが捕まえる人間をあそこでみたよと。。。。メスの海馬は人間動物のオスにひどい仕打ちをされる。そして海に帰る。
こう見ると動物いや生物の中の人間動物も混沌といてくる。もう少し深読みをすれば、海馬は現代の女性そのものである。それは一番初めに書いた「北斎」での人間動物の粗野なオスとその中において幸せも感じるメスである。メスは社会的倫理(男社会の倫理といってもよいのか)から抜けて海に帰る。そこには命を伝える母性がある。
「私は海馬に戻って、海を泳いだ。沖の漁船を追い越し、(中略)子供の笑い声が、耳元に響いた。私はそのまま走り続けた。昼も夜も尽きるところを目指して、、どこまでも、走りつづけた。」
同時に母性は、いつか子供自体が命を伝える者として人間動物として生きていくようになれば、メスは一人海を走り続ける。ご先祖様になっていくんでしょう。。。混沌とした生命界の中に。
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
道の駅 東山道伊王野(とうさんどう いおうの)
茨城県?栃木県?(笑)どちらの県になるのかな?県境あたりにある袋田の滝方面にドライブに行ってきました。朝早く起きて昨晩炊いておいたご飯でおにぎり!具は生タラコと昆布です。先日千葉県佐原で買ってきた竹細工の弁当箱に入れて。。。。。竹は殺菌作用もあるそうで、編みこみの竹は湿気を逃がしてくれるので傷まないそうです。途中のサービスエリアで食べたのですが、まだ竹も新しいのでほのかに竹の香が。おいしかったです。
茨城県に入り常磐道のいくつものトンネルを抜けて出口を出て剣道県道を走るとすぐに山の中に入ります。袋田の滝まで30キロほどあるのですが途中の山そして麓の里も紅葉がきれいでした。紅葉の名所といった派手さはないのですが、名も知らない低い山々や麓の小さな紅葉ののどかさが好きです。山道の両脇の紅葉、山道を抜けると農家やお寺の塀の向こうの紅葉そして神社のこんもりとした鎮守の森の紅葉。ハンドルを握っていてもはっとすることがあります。そのはっとした景色は頭の中に写真のように焼きつきますね。
袋田の滝は近年水の量が少なくなったよう気がするのですが、それでもすだれのように流れる水は美しいです。両脇の山も紅葉していましたが、本格的な紅葉はいま少しかな。
さて道の駅「東山道意王野」ですが、袋田の滝から栃木県に入り40キロほどのところの那須町にあります。那須町大字伊王野です。
日曜日と言うこともありますが駐車場はほぼ満車でした。まだ新しさを感じる道の駅です。
ちょうど昼飯時につきましたので、昼飯をと思ったら蕎麦屋さんに行列が。
今の季節新蕎麦が出たそうでこの気節限定の蕎麦がありました。ラッキーです!!
30分ほど並び席に着けました。さて蕎麦ですが、コシがありうまい蕎麦でした。店先ではお二人のおじいちゃん(失礼)が蕎麦を打っていました。蕎麦は少し緑がかった蕎麦で他の人が食べていた限定でない蕎麦は普通の色のような?
おいしいにはおいしいのですが。。。。。蕎麦を口に入れたときの蕎麦の香が?
どうなんでしょ?蕎麦らしい蕎麦をイメージすると少し違うような?もちろんうまいんですよ。また食べたいです。でも蕎麦のイメージが少し違うと言うこと。蕎麦湯は蕎麦の香がしましたので食ったときの僕の感覚が変だったのかな?
一緒に頼んだ天然鮎を使った「鮎ご飯」もうまかったです。お近くに住まいの方、那須方面に遊びに行く方、お勧めです。
蕎麦屋さんのほかには物産販売所と地域のお祭りで使用するお神輿を飾ってある建物。物産もそうは多くなかったです。でも印象としては真面目な道の駅。。。。。
キクイモと平茸そして地元でつくられたチーズケーキを買ってきました。チーズケーキは添加物無しで濃厚な味でおいしかったです。お勧めです。
僕としての評価は。。。。ううん、ABCでいえばBに近いCかな。。。。設備面ではそうは面白い道の駅ではないが、雰囲気はいいから。
キクイモと平茸は袋田で買ったしみコンニャクと一緒に天麩羅にしました。おいしかったです。
【2011年】ツイッターつぶやき
政府はTPP協議に参加する方針だが、早くもアメリカは牛肉・自動車・郵政の三部門の解放を要求したという。この中身は以前からも議論になっていたものもあると思うしある意味日米の二国間交渉という中身である。韓国がアメリカとの二国間FTAを決めたが、アメリカのTPPにおける日本への要求も結果は同じこととなる。
TPP参加国はいくつかあるわけだがその国々を含めた共通理念とはなんだろうか?アメリカが主導をしてTPP参加国と独自に中身を決めていくというもの以外ではないのではないか?日本が三部門の解放を要求されたが、本来はすべての関税の廃棄こそがTPPであるはずで、アメリカの要求がどうのということよりもすべての関税をなくすことがどうなのかが問われるべきである。三部門をづするという議論が国内(政府)で行われるだろうが、これで参加方針を決めたらえらいことになるわけである。
牛肉はアメリカの要求を呑むことでオーストラリアの牛肉との競合がでる。当然TPPにさんかだからオーストラリアの牛肉の関税も廃止される。自動車は日本からアメリカへ輸出される。しかし日本はアメリカでの現地生産が多いがアメリカは日本での現地生産はあるのか?日本は郵貯という巨大金融機関を開放をする。しかし日本はアメリカのどの部門を開放してほしいのか。どう考えてもアメリカ主導でしょう。日本はアメリカに対して何を要求するのかが全く見えないわけである。
TPPはある意味解放とはいえほんとはアメリカの保護主義ではないか?
【2012年】ツイッターつぶやき
経済成長どころかマイナス成長に落ち込んでいる先進国。企業利益のために国家は赤字財政を続ける。
もう一般国民は骸企業やセレブ達を養う余力はなくなっているのである。成長率が高かったころはその余力はあったが今の時代は一般国民の貧困化でしか企業やセレブを養い切れなくなっているのである。一人のカリスマ経営者もそのカリスマ性の裏には安い労働力を使わないとだめでしょう。そうしないとセレブにはなれない。
だんだんとこの養い切れないという意識が表面化をしてアメリカでの1%と99%が問題になり、中国でも権力者の蓄財や収賄に目を向きつつある。日本でも同じで、特に東電の生き残り策が国民生活の犠牲において行われることに強い批判がある。大企業にしても海外に資本移転をして国内は冷え切っている。
一般国民の中にも格差は広がり、官民や正規社員と派遣などという矛盾が広がり、一般国民同士での生活切り捨て競争としての公務員批判や正社員批判が出る。一般国民自身がその生活の不安定さからより良い条件の一般国民を批判をして足を引っ張り、結局は自らの生活向上を自粛してしまう。
経済の人の心に及ぼす影響も犯罪やちょっとした言動にとげとげしさや上から目線のいじめ的なものが出る。
こうした一般国民の意識は排外主義に向かい敵を海外に求めて満足をする。ナショナリズムは貧困化から生まれる。
基本的な、一般国民は大企業やセレブを養い切れなくなっているという視点で結束をしなければならないでしょう。これは命の問題でもある。放射能もそうですし経済的理由での自殺もそうです。
【2013年】ツイッターつぶやき
BLOGOSに「私たちの身近に降りかかる生活保護改悪-「針の踏絵」強制、親族「共助」へ国の責任転嫁する生存権侵害」という記事があった。
芸人の方の親族の生活保護受給について問題化されてから生活保護への世論にも批判が多くなったのは明らかでしょう。しかしこれを取り上げて生活保護を必要とする方が受給しにくくなることも同時に考えなければならない。この必要な方が受給しづらくなることそしてその受給条件が1親等どころか三親等にまで仕送りなどができないかを問われるとなれば、生活保護という公助そのものが否定されたことに等しいでしょう。
他の先進国に比べて日本はまだ生活保護の方がだいぶ少ないと言われています。子供の頃教室の中で一人の子だけが先生にプリントされた紙を渡していた。僕は何の紙か知らなかったのですが、周りの子はひそひそと「セイカツホゴ・・・・」とか話していたのをよく覚えています。日本では昔からこのような偏見が多くていまもその偏見が残っていることが受給者の数が少ないことに現れているのだと思います。日本人は「世間様の目」には弱いですね。こういう中で生活保護受給を3親等にまで知らせて受給できるかを判断されれば受給したくても申請すらしなくなるでしょう。
同時に生活保護の話が来ればその3親等の親戚一同が相談をして仕送りをするしかなくなるでしょう。あるいは親戚とはいえ行き来がなければ迷惑だとも言われるかもしれない。1親等の問題となる。それは負担が大きくなるということです。
なんとなく昔の家制度の復活を思い出すようです。
自助・共助は家制度の復活でしょう。
今の社会はたとえば年金制度も若い人の負担が大きいから若い人は損をするといった見方が強くなっています。たしかにそれは事実かもしれませんが、それでは年金額を大幅に減らしたりしたならば、今でさえ年金だけでは食えないわけですからやはりここでも家制度の中での仕送りが問題となる。公的年金で若い人が大変というものから家庭内などでの私的な負担増に代わるだけなのです。若い人の負担に変わりはないわけです。
生活保護にしろ年金制度にしろ公助がなくなり困るのは中間層以下のそうは豊かとはいえない層の人々の負担感が高まるということです。高所得者はそもそも生活保護や年金には頼らなくて位わけですから貧乏人が自助や共助で生きていけばそれはそれで負担が減るわけですから良いのです。
格差社会はこういった公的なサービスにまで及んでくるのでしょう。
よく介護保険はある程度の資産がある人々に有利とも言われています。自分の家があれば介護保険でバリアフリーの工事も補助してもらえる。しかしアパートでは大家の承諾が必要でしょうし、個人負担分に耐えられないかもしれない。
生活保護の問題や年金制度の問題など階層や世代の問題として考えてはいけないものなのです。問題点はやはり格差であり公助の位置づけと自助や共助の社会システムの後退と見るべきなのです。
低賃金化や貧困が増加していくとなおさらこういった公助から自助(共助)へといったものが広まっていきます。
格差は一方における贅沢に対する生存の不安定性となり、格差そのものの中身自体に広がりが出てきます。
【2014年】ツイッターつぶやき
報道の中でも解散の今ささやかれている解散風には解散の大義がるのかという批判が出ている。
何のための解散か?
消費税を10%に再増税をするものを国民に問う選挙なのか?今はこれぐらいしか解散の理由は見つからないだろう。女性大臣のスキャンダルなどもありアベノミクスも失敗かとささやかれているわけですから内閣が信任されなくなったために総辞職ならば話はわかる。
しかし解散されて消費税10%を問うというのならばその答えはもう出ているはずです。世論調査を見ても反対は多くなっていますし、何よりも円安や消費税による悪性の物価高が国民生活を圧迫をして経済自体もこの悪性の物価高を除けば成長などしていないのが見えているとも報じられています。公開性をして10%への増税は行わないことを決めるべきなのです。あるいは少なくとも延期をして十分な国会の議論を行うべきなのです。
民主党も消費増税10%ができなくなったらアベノミクスの失敗が認められたことになるといった批判から先送り容認へと軟化した表現となっているようである。
二大政党が消費増税先送りを決めて、法的にも時期はずらせることになっているのですから何もすごい税金を使ってまで解散総選挙はやる意味がないでしょう。アベノミクスが失敗、時期をずらすでいい。
すぐに消費増税をやるべきと、先送りするべきとの対立は自民党内のごたごたです。今更軽減税率がどうのというのは与党内のごたごたです。そして選挙向けの公約です。何も総選挙などやらずに、先送りして軽減税率を考えればいい。それに対する先送りではなく消費増税反対を言う野党と議論すればいい。
こう見ると今の解散は自民公明の政権維持のための選挙でしかないことが見えてくるのではないか。
小泉政権時に改革に反対する自民党はつぶすとまで言っていたが、結局はそれも自民党内のごたごたでした。そして選挙には勝った。すぐ増税という悪者を作り増税は先送りというまやかしの善を国民に見せて選挙は勝つという構図。。。。
デフレからの脱却が物価が上がることだという。しかし物価が上がれば物は消費されにくくなる。
これだけを見ても物価が上がることによるデフレからの脱却というものには矛盾が生じる。
消費が伸びると物価は上がる。そしてその物価が上がったことによりデフレからインフレ傾向となるという順番で考えることの方が正しいのではないか?
この順番に沿ってこそ金融政策も政府の政策も効果が出るということである。
しかしアベノミクスや日銀の量的緩和はこの逆さまのことをやっている。
消費が伸びるには何が必要か?
勤労国民の賃金が上がることと社会保障の充実が必要です。これまでこのブログでも書いてきましたが、賃金は労働力の再生産費です。労働者が平均的な労働力の再生産を行う程度はその社会の生産力による。日本の労働者の賃金はずっと下げられてきたわけですから社会的に豊富な生産力があっても労働者はそれを消費できない状態で労働力の再生産を行わざるを得なかった。これを生産力に見合った賃金にしなければならないということです。
同時に賃上げだけではなくてモノの値段が下がることによっても相対的に消費は伸びます。日本は賃下げ傾向にあっても物価が下がっていたこそ消費を支えられる部分があった。
物価が下がっても労働者の消費が伸びるならばそれはデフレ(不況)という現象を生まないのではないか?
ここから初めて、消費が増えることにより物価が上がる傾向を示すようになってインフレ傾向となる。
この経路を進むように経済の進路の変更が求められる。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
朝日新聞朝刊に世論調査があった。【数字および太字はこのサイトより引用】
まず内閣の支持率を見ると支持するが44%で支持しないが39%。支持支持しないがほぼ拮抗している。
先の総選挙での自民党独り勝ちという結果とこの支持率を見るとやはり現実は国民意識と乖離していると見える。もちろん支持しないとしても野党の現状から消去法で自民党が勝ったというものは見えるが。
阿部首相に一番力を入れてほしいと思う政策は、
景気・雇用20▽社会保障32▽原発・エネルギー6▽教育15▽外交・安全保障15▽憲法改正6
安倍総理は憲法改正に意欲を示しているが、国民意識は6%にとどまっている。安倍内閣は選挙後社会保障の切り下げや負担増を言っていますが、国民意識としては32%と一番期待をしている。
景気・雇用も20%と大きい。
景気も様々な統計では一応良い数字が出ているとされるが、巨大企業の不祥事が続き、銀行の寺院削減が大きく報道されて利潤率は低下をしている。企業の内部留保は増加をしているが、それが国内の設備投資や雇用・賃上げ・雇用形態の改善にはつながらない。
このような中で国民の景況感は
大いに実感している1▽ある程度実感している15▽あまり実感していない49▽まったく実感していない33と、株価の高騰はあるがそれが国民生活からすれば好況とは映らない。
以上のように見ると、国民が求める政治への期待と現実から見た未来の実態とは増々乖離をしているとみるべきではないでしょうか。
その株価の高騰もバブルではないかという見方が増えつつある。
黒田日銀の金融政策も限界が見えてアベノミクスも国民生活向上から乖離していく様子が目に見えてきている。
【2018年】ツイッターつぶやき
昨夜は日銀が政府の統計に不信感を持ちつつあるという記事について買い来ましたが、その日銀も総資産がアベノミクス後膨れ上がりGDPを超えたそうです。
以下ツイッターから
量的緩和の副作用の中、いつかは出口に向かわざるを得ないが、金利が上がれば日銀が債務超過になるという懸念も。
異次元緩和も結局はアベノミクスと同じく経済を混乱に導く結果になりそうです。
結局は言葉だけで経済は「道半ば」「回復傾向」といわれるだけで、現実は2%は放棄されて株価や企業利益の裏にはデフレ傾向が存在し続ける。ある意味スタグフレーション。デフレは貨幣量が足りないのではなくて資本として機能しない金の金余りです。日銀も銀行も企業も金がだぶつく。国民は疲弊する中
貨幣量を増やしていき経済の器にどんどん注入してどこかの地点であふれかえることを期待しているが、どん欲な資本主義は守銭奴的ですからあふれかえって勤労国民の懐に入る金は存在しない。すべての価値は大衆消費材の価値に移転しなければならないが消費する側に金がない。ますます金余り傾向に。
内需拡大をできずに(内需拡大は企業利益を減らすというバカげた論理からも)中国などの発展した国家頼みに陥っているが、同盟国が中国と経済戦争に。昨日は日米の株安でしたね。
通貨安競争の結果が副作用のほうへ動き慌てて中国へ経済面での接近。ロシアともどのような話が中心になるか?
【2019年】ツイッターつぶやき
桜を見る会の中身がだんだんとそのひどさが報道されはじめています。
正体は様々な分野で活躍をした方を呼ぶことになっているのだそうですが、内閣の中で総理をはじめ招待客を割り振るわけですが、各省庁の大臣がその省としてみた活躍をした人を選ぶなら何ら問題はないはずですが、自分の事務所を通じて
本来ならばこういうことは大臣として恥ずかしいはずですよね。
しかし恥ずかしさはどこ吹く風で地元の人に力を見せつけることに優越感やらを持ってしまう。自分には力があるという誇示です。
本当なら恥ずかしいはずのことも今の政治は恥ずることはなくなっている。
数の力などの力を持つとひどい場合には行き着く先は独裁です。好き勝手に恥ずべきことも平気になり、だれも批判しなくなります。
日本に政治を取り戻さないと大変ですね。
ずっと国会では大臣の不祥事やら地方でも議員の不祥事が続いている。国家内も省庁を含めて公文書や統計がへんてこになっている。ほんとは恥ずかしいことなのですが、時間がたてば国民は忘れる。逆に国民も政治の数の力になれてしまっている。慣れてしまう以上に損得を見てしまう。
【2020年】ツイッターつぶやき
社民党の大会がどうなったのかはまだわからないが、ツイッターを読んでいると福島瑞穂さんが社民党に残ることになりそうで、ほかの議員は立憲民主党に合流をするようです。
社民党もともしびのように。。。。。
天国で土井さんは泣いている、いや、怒り狂っているでしょうね。
そう、泣いていても仕方ない。怒りが無いとだめなんです。
福島さんだけですが、地方組織はどうなんでしょ?社民党がどうにか生き残ってきたのは、社会民主主義という理念と地方組織の力です。そして女性の力強さでした。
社会民主主義をどう広めていくか。。。。。
これには国会の議席が必要なのですが、社会民主主義の理念が国民の心をどうつかむかですね。
勤労国民を中心とした国民の実態は、すでに今の資本主義では改善されないほどひどいものになっています。その実態に社会民主主義の理念は必ず結びつきます。
旧民主党の分裂と結集の数合わせは政策には反映されていません。自民党に対立する別の保守主義です。ここに必ず矛盾は吹き出します。
一方の自民党は数の力で押し切っているようですが、中身は自壊をはじめている。
【2021年】ツイッターつぶやき
山茶花が咲きはじめました。
公園の片隅にはスイセンの葉が伸びてきてつぼみも膨らみはじめました。
一昨年だったか、公園に行ったら赤い小さな花がたくさんついている低木がありましたが、エリカという花だそうです。今年も咲いているかな。
去年は十月桜というのも見に行きましたが、お寺や広い公園に初冬の花を見つけに行くのも楽しいかもしれませんね。
【2022年】ツイッターつぶやき
車で出かけてきました。
首と高速道路を抜けて行かねばならないのですが、分岐がたくさんあり次は左車線に入って、次は右車線と緊張しながら分岐をクリアーしながら運転をします。いつまでたっても慣れません。
分岐があれば合流がある。これまた緊張しますが、一番困るのが「X」状の分岐です。合流したらすぐに右車線に入ってすぐにまた分岐を右へとか。おろおろしながら合流、車線変更身近い区間内で行わなければいけない。だいたいウインカーを出せば入れてくれる方が多いのですが、時にはいじる悪な方もいますからなぁ。
こんな首都高速道路は渋滞もありつかれながら走るのですが利用料も数年おきに値上げ。
家に帰り着くとぐったりです。
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