夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「3月 5日という日」

2024年03月05日 07時56分29秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
岸田さんが物価上昇以上の賃上げをいい、それは中小企業にも及ぶよう助けるとしています。
しかし、ゼロ金利と株価の上昇で企業を助け、悪性の物価高で国民生活を貧しくしてきた中で、経済の好転は起きていない。
日銀の2%目標があるが、岸田さんの物価上昇より高い賃上げ率という場合、この1%から2%の範囲内にあるでしょう。それ以上の賃上げ分は、増税と社会保障そして防衛費で国が吸い上げる。
これならまだましで、中小企業は賃上げに踏み込めない中で、バイトなどの時給増で精いっぱいでしょう。
昔からインフレに対する賃上げは、労働者への合理化として現れ、「雇用か賃金か」と労働者に迫る。
失われた30年を引きずる日本の状態で日銀は出口に迎えるのでしょうか。

≪過去の記事≫

【2004年】
(記事なし)

【2005年】
(記事なし)

【2006年】
小川洋子さんの「博士が愛した数式」の感想をやっと書き終えました。
数学という特殊な題材を表現するとなると、小川さんもいろいろ勉強されたことと思います。しかしそこは文学。文学としての読み方があるものと思って考え続けました。オイラーの公式(等式)のとらえ方が正しいかどうかはわかりませんが、感想文ですからこれでいいかと思っています。いろいろな方が「博士の・・・」の感想を書いていますが、とらえ方はいろいろですなぁ。
次は梨木香歩さんの「春になったら苺を摘みに」ですが、こちらの作品は重いものがあります。梨木さんの内面をうかがえられるとともに、作品の性格に対してもヒントになるのではと考えています。梨木ファンには貴重な作品なのかもしれません。とはいえ他のエッセイを読んでいないのではっきりとはかけませんが。
晴れて春らしさを満喫できる一日でした。
ベランダの花たちも咲いてきましたし、これからどうなるかわからない正月用の寄せ植えの梅も元気です。はごろもジャスミンは植え替えたら少しは元気になりました。しかしこの後どうしたらよいのかがわからない。また調べて見たいと思います。
そういえば、ひな祭り用に買った桃の切花に葉が出はじめました。
どうせこのままなら枯れてしまうのですから挿し木ができないものか調べてみました。どうも桃は難しいようで、接木にしないと無理なようです。どんよりしていたら、偶然にも桃の挿し木に根が付いたというサイトがあった!でも、どうやったかがかいていない。憶測で読めば、水の中に挿し木をして根を出したと思うのですが、これじゃァ今花瓶の中に入れている状態と変わらない?
もう少し葉が生い茂るようなことがあったら、素人的な挿し木で桃には申し訳ないですが、一応槌を消毒してから挿し木をしてみようと思います。

【2007年】
実家から電話が。。。
実家から電話が来るのはあまりよくない知らせばかり。。。。。
お袋が暗い声で「足、骨折した。。。」
ううう。。。
風呂を掃除していたら滑って転んでしまったらしい。
明日、行ってみようと思います。
年寄りが足を骨折するというのは大変なことですからね。。。体が弱ってしまうし、認知症の原因とも言われています。
一日中すごい風でした。レインボーブリッジだったか、通行止めだったよう。
洗濯物が吹き飛びそうでした。植木鉢は倒れてしまうし枝が折れそうでした。
春の精はうららかな美人ですが、気性は激しい。。。。ううう

【2008年】
買い物に行こうとして車に乗ったらびっくり。
フロントガラスが汚く手前が見えにくいほど。。。。。
黄砂です。。。
東京は小雨が少し降ったのですが、その小雨で大気中の黄砂も雨に混じって一緒に降ったらしい。車を降りて車全体を見たらやはりすごい汚れでした。
ガソリンスタンドに行って洗車をしてもらおうかなと想ったのですが、この黄砂は季節がらしばらくは続くと想うのでやめました。
黄砂だけではなくて花粉も?
昼過ぎからクシャミと鼻水がひどかったです。
今夜は、切干大根を煮付けました。
鷹の爪を入れて少しピリッと。
あとは息子のリクエストで酢豚。タレはクックドゥー。。。
玉ねぎタピーマンをたくさん入れて油通しをします。大目の油に玉ねぎやピーマンを素揚げするような感じで。こうすると、ただ炒めたものよりおいしくなり野菜も残りません。

【2009年】
(記事なし)

【2010年】
(記事なし)

【2011年】ツイッターつぶやき
ボランティアでたこ焼きを作ることになり車で出掛けました。
会場に着くと駐車場はあるのですが催し物があるということで入れませんでした。しかたなく駐車場を出て道路に戻りましたが、駐車場らしきものはほかにない。
ムフフフ・・・・・こんなときはカーナビ検索!!
音声認識システムでカーナビに「駐車場」と話しかけました。するとカーナビは「近くの駐車場を探します」とすぐに検索。「後方約500メートルに〇〇駐車場があります」と。後方じゃぁ面倒だから次を検索。しかし次も「後方約・・・・・」。。。。
そういえばこの検索機能と使うたびに「なんで後ろばかり探すんだよ!」と独り言でツッコミを入れていたっけ。まぁ、近い順に教えるのでしょうが、行き先設定をしているときにもかかわらず後方ばかりを案内するというのはどういうものでしょうか。前方にはないのかとも思いますが、、、、、
それにしてもカーナビは進化したものですなぁ。。。
はじめ買ったカーナビは誤差も大きくて苦労しましたが今は制度がすごくよくなっています。一般道路を走っているときにトイレに行きたくなり「トイレ」といえば近くの公園を案内してくれますし、コンビニやファミレスもすぐに。でも時々もうなくなっている場合がありますが。。。。。
カーナビは画面を見るから危険という見方もありますが、道を探しながらうろうろしているよりもずっと安全な場合があります。
今ではカーナビがなければはじめていくような遠出もできません。

【2012年】ツイッターつぶやき
ツイッターで教えていただいたのですが「放射線被ばくと基準の意味」という文章があります。
非常にわかりにくい論理なのですが、涙ながらに危険をうったえる学者と安全ばかりをうったえる学者と、なぜこのように専門家の意見が分かれるのかが書かれています。その意見の混乱の原因が放射線被ばくの「リスク評価」と「リスク管理」の混同にあるとしています。
「リスク評価」とは科学的事実に基づき「リスク管理」は放射線防護の考え方を規定するポリシーを導くものだと。
「リスク評価」。。。。 「100ミリシーベルト(mSv)以下では、被ばくと発がんとの因果関係の証拠が得られない」という言明は、サイエンスである。このような科学的事実(仮説)のうち、国際的な合意を得られたものを発表する機関がUNSCEAR(国連放射線影響科学委員会)で、「疫学的には、100mSv以下の放射線の影響は認められない」という報告がなされる。
「リスク管理」。。。。ICRP(国際放射線防護委員会)は「放射線被ばくは少ない方がよい」という当たり前の立場をとっているが、ICRPが出す勧告の根拠は上記UNSCEARが示すサイエンスである。すなわち、100mSvを超えると被ばく線量に比例して直線的にがんのリスクが増えること、100mSv以下では、そうした影響が疫学的には認められないことなど、UNSCEARが認めた放射線の科学的影響を前提にして、ICRPはポリシーとして、100mSv以上における“線量と影響の直線関係”のグラフの線を100ミリ以下にも延長して、放射線の防護の体系を作っている。これは、安全面に配慮した防護思想に基づいている。
よく学問や科学の世界に仮設仮説の上に仮説を立ててそれを通説として用いることがあるという。それがサイエンスとも科学的事実とも言われるのだろう。サイエンスという面ではある仮説を立ててその仮説が正しいかをいろいろな面から実証をしたり修正をしたりするものですから良いとしても「科学的事実(仮説)」が国際的な合意を得られて「疫学的には、100mSv以下の放射線の影響は認められない」という結論が出される。この結論を基に「リスク管理」としても「放射線被ばくは少ない方がよい」というものが「100mSvを超えると被ばく線量に比例して直線的にがんのリスクが増えること、100mSv以下では、そうした影響が疫学的には認められないことなど、UNSCEARが認めた放射線の科学的影響を前提」の基に「リスク管理」もあるとする。
これは仮設仮説の上に立った仮説が科学的事実とされているということではないか?「涙ながらに危険をうったえる学者」は、このよう中科学的事実に疑問を持つからその「リスク管理」としての危険性を訴えるのではないか?そして安全ばかりを言う学者は、上のような意味においての仮設仮説からの科学的事実をいう。「リスク評価」と「リスク管理」という視点での対立からの意見の違いではなくて、科学的事実のとらえ方の対立ではないでしょうか。「リスク管理」のとらえ方が違う。この「リスク管理」の中身の違いによる「放射線被ばくは少ない方がよい」という考え方ではないかと思います。
素人が考えても「放射線被ばくは少ない方がよい」と考えるのが普通でしょう。核戦争や今回の事故のようなときでも100ミリシーベルト以下よりも「放射線被ばくは少ない方がよい」と考えるのが普通ですし科学的な視点でしょう。「リスク管理」とはより少ないほうが良いという科学的事実に基づいて被ばく量を減らすことにあるのではないでしょうか。
平時の一般人の被ばく線量は年間1ミリシーベルトで、職業人は50から100ミリシーベルトというのは、職業人であっても年間1ミリシーベルト以下がより安全なわけですが、そうもいかないから仮説に従い100ミリシーベルト以下にするということ以外ではないです。そして原発事故時には一般人も100ミリシーベルトに合わせたものにする。
今の原発の実態から、どこまで被ばくの許容を高めても大丈夫かという論理は「リスク管理」から離れたところにあります。
「リスク評価」と「リスク管理」を区別しないならば、科学(科学的事実、科学的仮説)と哲学(放射線防護上の安全哲学・ポリシー)が混同されることにつながる。社会を大混乱に陥れ、結果的には日本人の短命化につながる“専門家の言説”の責任は重い。
ここには奇妙な結論が出されている。
「チェルノブイリで顕著であったが、非常時に平時の目安に固執すると逆に健康被害が出るからである。」とも書かれているが、ここで言う健康被害は被ばく自体による健康被害ではないでしょう。「リスク評価」と「リスク管理」の区別は、放射線被ばくの論理なのです。そこに被ばくとは関係のない健康被害を持ち込むのは科学的ではないし論理のすり替え(あるいは飛躍)でしょう。
何も危ないという学者がいて食物の偏りや精神的な疾患を受けて健康を害する事ばかりではないでしょう。原発事故ににもなるべく被ばくは少なくするという「リスク管理」にもかかわらず、100ミリシーベルトでも大丈夫と言われ、政府の基準値もいろいろ議論になり、食品はほ飛んで占領すらはっきりしない状態が続いていた。放射線被ばくではない原発事故そのものあるいはその後の対応の不十分さからの「健康被害」でしょう。
国民に安心を与えるため、これもまた上のような論理での「健康被害」から国民を守るということでしょうか。

【2013年】ツイッターつぶやき
喫煙者の肺がん死亡は非喫煙者の肺がん死亡者数の何倍かを見るとき、たとえばサンプル数が9万人で今の喫煙率からして3万人が喫煙者で6万人が非喫煙者とする。そして死亡者数が喫煙者で500人、非喫煙者で100人とする。このことばかりを見れば喫煙者の死亡率は5倍となる。
この時に「喫煙者は1万人当たり何人で、非喫煙者は何人か」という統計をとったとする。この時喫煙者は3万人だから500/30000で1万人当たりでは167人、非喫煙者は100/60000で1万人当たり17人となり、喫煙者の肺がん率は約10倍になる。
いくらなんでもこのような計算はしないでしょう。されたら大変な誤りです。なぜなら分母が違うものを対比しているのですから。
この場合分母を同じにしなければならない。喫煙者を500/60000として計算しなければならない。分子は実数ですから変わりがなく=の式ではなくて比の比較の問題です。そうすると83人となり喫煙者の死亡率は約5倍です。この5倍というのは初めの9万人中喫煙者は何人死んで。。。。その比は。。。。というものと一致をします。これは何を意味するかといえば、9万人中死亡した500人はたまたま喫煙者であったという事で、非喫煙者が100人だったという事だけです。それが5倍だったという事です。
ここで大切になるのは、たまたま煙草を吸っていた人なのですから、まず煙草で肺がん死亡が増えるという事から喫煙者の数から離れて非喫煙者がなぜ肺がんになったかを見なくてはいけません。その視点で見ると喫煙屋の500人の中の100人も非喫煙者と同じ原因で肺がんになったと見る必要があります。非喫煙者は煙草と無関係ですから喫煙者には含まれる人は0です。そうすると喫煙者の死亡人数は400人で非喫煙者は200人になります。そうすると比率は2倍となります。はじめの10倍や5倍という数字とは大変な違いとなります。
もちろんこの2倍という数字も大変な数字ですが、喫煙者でも非喫煙者と全く同じ原因で肺がんになったとして除外をして、残りの400人はといえば、やはり非喫煙者と同じ原因を受けているはずですから400人も全く煙草だけで肺がんになったという結論は出せないでしょう。もしかしたらほかの因子を取り除けば400人も死亡しなかったかもしれない。少なくとも減るでしょう。
ここから導かれる結論は、たしかにタバコあるいは添加物が肺がんの一つの因子である可能性があるが、少なくともそこから肺がん=煙草という結論を導き出してはならないという事です。そして肺がん予防=禁煙で済ませてはいけないという事です。
仮に煙草が一つの因子でしかないなら、非喫煙者への影響を減らすための肺がん予防には煙草という因子を減らすための分煙は効果があるものといえるでしょう。

(訂正)
昨日書いた部分で分母をそろえるのを6万人にしてしまいましたが、全体のサンプル数の実数で9万人ですね。それで喫煙者の肺がん死亡率は非喫煙者の5倍という事です。

【2014年】ツイッターつぶやき
       ブリシャブと若布の辛子味噌

刺身用のブリをさっと熱湯にくぐらして水で冷やします。中はレアです。
若芽は水で戻して適当な大きさに切っておきます。
小鉢に大葉を飾りに敷いてブリシャブと若布を盛り付けます。
上にかける辛子味噌は、味噌・砂糖・酢・辛子を混ぜたものです。

アベノミクスは物価の上昇をデフレからの脱却と位置づけている。
しかしこの物価の上昇については、円安誘導による輸入品の値上げや今度消費増税が行われるときの消費者への最終転化という値上げも含めてその上昇率を計算するか、国内消費の増加という中でのインフレとしての物価上昇率を計算するかでだいぶその中身は違ってくる。
経済の発展から国民の消費が爆発的に伸びて企業の設備投資も増えてその中でインフレとなっていくことが物価上昇率でしょう。このような経済の発展がない中で円安誘導や消費増税による物価上昇は人為的な悪性の物価上昇となります。これは本来の物価上昇とは分けてとらえるべきでしょう。
このように分けて考えれば本来の景気の回復によるインフレ傾向としての物価上昇では2%は難しいとなるのではないか。そもそも円安による物価上昇を除いたインフレというものが今の経済の中において存在しているのだろうか?
アベノミクスははじめはインフレ目標(インフレターゲット)といっていたが後には物価上昇目標となった。
最近ではインフレターゲットとはほとんど聞かなくなったと思います。やはりインフレ目標と単なる物価上昇目標とは違うわけです。経済の発展の過熱からのインフレではなくて、経済の発展に向けた物価上昇の違いです。これをデフレからの脱却として位置づけてしまった。物価だけからのデフレの理解から物価が上がればそれはインフレだというやはり間違ったインフレの理解。ここに逆立ちをした経済学がある。
もう一度書きますが、アベノミクスの物価上昇率は円安や消費増税でも何でも有りの脱デフレ論とその現実的な政策です。
このようなアベノミクスの実態を国民生活の視点で見ればどうなるでしょうか?
企業は悪性であっても物価が上がれば売上額は伸びるわけですから好調となる。(実際には便乗値上げをしなければ利益はそうは増えない。国内全体では貿易赤字の拡大)しかし国民の生活から見れば見かけ上の物価上昇であっても見かけ上の賃金さえもあがらないわけですからこの悪性の物価上昇により生活は苦しくなります。ですからアベノミクスは国民生活の切り下げ、貧困化、格差の拡大へとつながるだけでしょう。

以下今日の連続ツイートの転載。

アベノミクス、広がる懐疑的評価とデフレ待望論~増えない輸出、物価上昇で生活打撃 http://biz-journal.jp/2014/03/post_406.html… @tocanailandさんから デフレ期待やデフレ待望というのもまた間違った提起で「デフレ不況待望」ととらえられかねない。物価が下がる法則性に従った経済
夕螺の一言日記: 2014年 3月 5日(水)2「国民生活視点で」 http://pub.ne.jp/yuura2/?entry_d=5219716… 最近ではインフレターゲットとはほとんど聞かなくなったと思います。やはりインフレと単なる物価上昇目標とは違うわけです。その中に国民生活の低下、貧困化、格差の拡大が。
先ほどツイートした「アベノミクス、広がる懐疑的評価とデフレ待望論」への返信と、昨日書いたものの中身↑とは相対する間違った論理という点で共通している。
インフレとは景気の過熱による需要の急激な増大により物価が上昇することでしょう。ですから景気の回復があって始めてインフレ傾向が起きる。アベノミクスは逆立ちをして景気回復のために物価を上げるとしたインフレターゲットを設けた。景気の回復が伴わない物価上昇は悪性である。
景気回復は株や高級品の売上額で見ようとされる。しかし国民の多数は賃金労働者でありこの労働者の消費が生活の場から高まらない中で円安誘導による物価高と4月からは消費増税による物価高が生じる。これこそが悪性の物価上昇でありこれをデフレからの脱却とはどうしても説明が不可能
悪性の物価上昇の中に労働者の消費の減退が生じる政策ですからそれは物価が上昇した物価の中でのさらに強烈なデフレ圧力を作り出す。悪性の物価上昇=デフレ圧力の深刻化となるでしょう。この中で一部の人々は更なる量的金融緩和を求める。
このアベノミクスへの疑問は貿易赤字の拡大や経常収支の赤字化など経済全体の矛盾からも批判は高まっている。この批判の中に「デフレ待望蝋」的なものも出る。物価は低いほうがよいのだと。
やはりアベノミクスがインフレを物価という側面だけで判断をして逆立ちをしてしまったのと同じようにデフレ待望論も物価が下落することだけを見たデフレ論となりかねない。
労働者の賃金が下げ続けられている日本の特殊性(国民生活全般の生活の低下や困窮化なども含めて)に必然的に商品市場に出回る貨幣量は減少をする。当然国内の設備投資も減退して企業活動内の必要とされる貨幣量も減少をする。一方では企業そして投資や富裕層に貨幣は集まる。
貨幣量は豊富にあるが商品市場の貨幣量は減少し続ける。ここにデフレ圧力は高まるでしょう。結果物価の下落が継続をする。このような状態を維持するためのデフレ待望論は間違いとなるでしょう。
デフレ待望論が間違って金融引き締めと貨幣量の減少からデフレをつくろうなどというのもまた逆立ちの論理となる。
実は貨幣量は世界中にだぶついているはずなのです。企業や投資そして富裕層に。一方では世界中の国民生活には相対的に貨幣量が減少している。この貨幣量の再配分なくしてインフレ待望論もデフレ待望論も間違った政策を行わざるを得ない。
この再配分の必要性と再配分をどのように行うかの政策化が必要なわけです。しかしこのような政策や経済理論は出てこない。もちろん100年以上も昔(日本では江戸時代!)にマルクスは書いていたのですが。。。でも、今は社会民主主義経済でしょう。その経済からの社会の発展。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
以下、ツイッターからの転載です。
「待機児童解消へ、安倍首相「6月に新プランを決定」 (TBS)
保育園は福祉から切り離すべきです。幼稚園と一緒にして教育の場にすべきでしょう。
保育園を幼稚園と同じ教育の場とすることにより、親が教育の場としてどちらを選ぶかの選択となります。経済的理由の家庭も社会に積極的に出ていこうとする女性も保育園を同じ教育の場としてとらえられるでしょう。そして子育ては家庭でという女性は幼稚園を選べばいい。
でもこうなれば、幼稚園・保育園という名称もわける必要がなくなり、例えばどちらもの幼稚園でよいわけです。幼稚園をこれまでの保育園の役割を兼ね備えればよいのです。この幼稚園と保育園の垣根を取り払うことにより福祉という「保育園の子」といった偏見もなくなっていくでしょう。
女性の社会進出(輝く女性)は、議員や会社役員などの数の問題ではない。働かざるを得ない女性も含めて社会の中で労働する一般的な女性が輝かなければならないのです。同時にそれは家事や育児の分担面での男性が輝くことでもあります。
男性も今の労働実態から見て仕事して家事や子育てはできない状態もわかります。しかしそれは家事や子育てから男性が社会システムにおいて排除されているということです。保育園に迎えに行って子供の満面のうれしそうな顔を見ることができない状態なのです。
しかし国は逆方向に向かっていますね。
公助社会から自助社会へ。思想的にはこの自助から子育ても親の介護も自己責任となっていきます。これが待機児童問題にも子育て全般にも社会的な後退が出てきてしまいます。こういった国の思想を打開するためにも保育園の教育の場という考え方が広まらなければなりません。
教育の場というと、今問題になっているような教育勅語を唱える場のようなものが「素晴らしい」と言われはじめる社会ですが、そのような無条件的に国や総理大臣をほめたたえる精神論ではなく、考える力を持つ子供を育てる子教育が前提であることは当たり前です。
教育というのは次世代の優れた労働力を再生産数る場です。物事をよく考える優れた労働者。労働者は労働することですから健康な人ならばすべての人間を前提します。その人々は生活者であり、優れた社会を形成する力となります。
話を元に戻しますが、女性が動機が生活のためにしろ社会に出て働きたいからにしろ、これは無条件に正しいことですし必要なことです。そのためには男性の働く条件の改善なども必要です。同時に働かない女性への差別化は良くありません。しかしその女性も働く女性を差別化してはいけない
子供の教育と家庭生活は密着しています。国は教育の場を保証しなければならない。それは親の労働条件や収入を保証するということです。ここで初めて各家庭での自助がはじまるでしょう。
この国による公助や企業責任という面で現在の緊急な課題は、子供の貧困問題と保育行政・介護行政などの解決から女性が安心して働ける環境の整備です。残業100時間などという労基法の改悪どころではないはずです。
自助社会と国家主義を支えるための精神論では何の解決にもなっていかないでしょう。子育てや労働条件そして生活苦など、労働力の再生産ができなくなる社会に向かうということは将来的には日本を衰退させるだけです。今、この危険性が増しています。
「美しい国」とは。。。。。
労働力の再生産もままならず、国民の財産を博打や無駄遣いそしてばらまき(国の内外の各方面に)に投入していけば、「美しい国」にはぺんぺん草も生えない。

去年一つだけもらった黄水仙の球根をビオラの間に植えておいたのですが、先日小さな花の芽が出たと思ったら今日はだいぶ黄色くなってそのうちに咲きそうです。
同じくビオラの間にフリージアの球根も植えておきましたが、こちらも花芽がだいぶ膨らんできました。
ビオラの株はだいぶ大きくなり花をたくさんつけています。黄色、黄色に近いオレンジ、ワインレッド、薄い赤、紫。。。。色とりどりできれいです。そこに一輪の黄水仙が咲きフリージアも咲けばだいぶにぎやかになると思います。

【2018年】ツイッターつぶやき
gooお題「あなたは花粉症ですか?」
花粉症とは30年以上の付き合いです。
はじめて花粉症になった時は鼻炎というのかひどい鼻づまりが後遺症に残り苦しみましたが、最近では程よくお付き合いをしています。
以前からこのブログに書いたことがあるかと思うのですが、梅の花が咲くころに始まり、桜が散るころに終わることから風流でもあります。僕の中では完璧に花粉症は季語となっております。
対策は、薬を飲むのもいやですから鼻水やくしゃみはこんなもんだとほっておきます。目のかゆみだけはどうしようもないのでひどいときだけ目薬を。
抜本的な解決には、東京でいえば千葉県の杉の木を全部切り倒さねばならないという事を聞いたことがあります。でも杉には何の罪もないはずで、手間や費用がかからない杉を山に植えるという人間の仕業らしいですからなぁ。。。。漁業のためには山を大切にしなければならないそうですが、国土のほとんどを山にしめられる日本ですから山の管理は大切ですね。この考え方の延長線上に花粉症対策の抜本的解決がある。

先日書いた「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とはなにか(3)」の続きです。
俳句のユネスコ無形文化財登録に向けての俳句と自由を考える場合、福田若之さんの「有馬朗人氏に反対する
ー俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐってー」【週刊俳句】を見てみましょう。
これは有馬朗人さんのインタビュー記事「そこが聞きたい!世界のHAIKU」への批判として書かれています。
結論から先に書くと、福田若之さんの「俳句とは?」の考え方が見えておらず、「近代に読み返された俳諧の発句から、ジョン・ケージの五七五拍子のピアノの小品にいたるまで、僕たちはそのつど、僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた。」(引用)と、書いていますが、ここでは俳句とは「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた。」という事だけです。これでは有馬さんへの批判としては成り立たないでしょう。
「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とは。(3)」でも引用した有馬さんのお考えでえある
「俳句の大衆性……短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです。 当協会の俳句コンテストへの海外からの応募は49か国に及びます。」
「一方俳句が短いことによって、一般の人々が俳句を作る楽しみを知り始めました。 こうして俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます。」
と、福田さんの
「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた」
とは違いがないのです。
俳句の自由さを求める中で、自由が大衆迎合的になし崩し的な拡大解釈がされはじめてしまいます。
僕たちは自然に働きかけながらも自然の法則の中で規制されて生きています。ここには観念論的なまったくの自由はありません。自然の法則にその都度従う中で自由は貫徹されています。自由になりたいなら、自然に対して自由に働きかけたいならば、自然法則をしっかり見つめなければその自由を手に取ることができないでしょう。
それと同じように俳句には一つの法則のような決まりごとがあります。ここからはみ出せばすでに俳句ではなくなります。同じ5・75でも川柳とよばれる表現形態が独立しました。俳句から影響された絵画では俳画が生まれました。これらは俳句ではありません。福田さんがおかきの俳句から影響された音楽も俳句ではなくてひとつの表現方法であり「俳楽」ととでも呼ぶ新しい表現方法として広まればよいのです。
「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた」というだけでは誤りです。
同時に俳句をみじかい詩あるいは誰でも簡単に作ることができるとだけ規定をしてしまうと、それは季語さえ入れれば交通安全標語も俳句となります。これを俳句ではないと切り離して俳句的言葉遊びあるいは俳句的標語などという分野に置くべきでしょう。
次は俳句の世界で規制されている中での自由を書きたいと思います。

【2019年】ツイッターつぶやき
ブルームバグによると、日銀が景気の下方修正を議論する方向にあるという。
海外経済はべ中米中の経済摩擦があり低迷をしている。また輸出面では貿易収支の赤字化ともなっている。
個人消費や設備投資については語っていないが、個人消費についてはアベノミクスの好景気というものは実感のないもといわれていたし、この間の不正統計により政府の景気判断自体が揺らいでいる。
日銀は政府統計については独自に統計を見るといっていましたが、こういったものも含めて日銀の景気判断はなされたのでしょうか。
日銀が景気判断を実際下方修正するかしないかはわかりませんが、下方修正を議論せざるを得ないというだけでも日本の景気の実態が見えていることになります。
景気判断を下方修正するとすれば、消費増税を控えている政府にとっては痛手でしょう。日銀はこれを忖度するか。。。。。消費増税後は経済は落ち込むので、そこで下方修正か?

【2020年】ツイッターつぶやき
品不足が続くマスクの転売価格が異常な値段になっているようです。
やっと政府も規制に乗り出したりネット販売も自主規制に動くようですが、異常な値段をつけて荒稼ぎを考えている人が多くいるということでしょう。みんなが苦しんでいるのを利用するかのようなものは火事場泥棒のようなものです。
もちろん資本主義は需要と供給で経済が成り立っているといわれればそのとおりですが、それでも資本主義の経済倫理というものはあるでしょう。
それにしても転売できるようにマスクをため込んでいる人がいるということで、そういう人も買いだめをしていた可能性がある。家族のために買いだめした人ばかりが悪いわけではない。
トイレットペーパなどはデマだとされていますが、もしかして転売目的の人もいるのかと勘ぐってしまいます。
まぁ、以上のような火事場泥棒ではないとしても輸入大国日本ですからどこでどう品不足が生じるかわかりません。この時に火事場泥棒でなくても便乗値上げとかも心配です。
政治がしっかりしないと国民生活が混乱するばかりです。
そんな時、特措法だなどと言っているのは火事場泥棒的なものにならないかと心配します。

【2021年】ツイッターつぶやき
参院予算委員会で分科会尾身さんがコロナはワクチン接種がはじまっても年内の終息は見込めないと語ったようです。
何か含みのある話にも聞こえますが、立憲民主党の「ゼロコロナ」への反論というのか批判のようにも聞こえます。
しかし現実は年末までにもコロナウイルスの終息は無いという見方は当たっているかもしれません。
ゼロコロナはなにもコロナ感染をゼロにするということではないでしょう。
中国が数人の感染者を見つけた時にその都市の全市民に検査を行いすぐに感染防止を行う体制がゼロコロナであると思います。
しかし現在の日本の検査体制は、検査数も足りないですし今後は陽性の定義まで変わってしまい陽性者を隠しながらオリンピックに向かうと思われますので、イクラワクチン接種が進んだとしても下げ止まりのままで年末までこのままということになるでしょう。

【2022年】ツイッターつぶやき
以下ツイッターから
ロシアによるウクライナ攻撃に対して日本でも反戦の動きが活発です。
一方ロシアや北朝鮮そして中国が攻めてきたらどうするということから核保有や敵基地先制攻撃という戦争を許してしまうことがある。
平和主義はあらゆる戦争に対して反対し行動する。
しかし真の平和主義は、「敵が攻めてきたらどうするんだ」という議論の前にどうしたら敵をつくらず攻めてこない外交や経済そして友好関係を築くかにある。
憲法9条が必要なんです。
その意味においてウクライナは平和主義だったのか?
ウクライナも日本も東西関係の中での最前線です。日本は同盟化を強くした安保体制にある。ここに危険性があるのです。
どうにか、まだ日本は平和主義に踏みとどまっている。
平和主義者ならここを守らねばならないでしょう。

【2023年】ツイッターつぶやき
二十四節季 啓蟄
七十二候  蟄虫啓戸(ちっちゅうこをひらく)
虫がもぞもぞと出てくる季節。
昨日公園の木に目白のつがいを見ました。土から出る虫はまだ見ませんが、まだ裸の木の枝にも虫が出てくるのでしょうか?鳴きながら梢を突っついていました。
あまり虫は好きではないし困る存在でもあります。
もう少し暖かくなると、ツバキの葉っぱの裏にきれいに行列をつくる茶毒蛾が。。。。
かぶれるのでツバキには近づきません。花をたくさんつけて奇麗なのに。。。。。。
人間社会では虫ちゃん🐛を食おうと。。。。。
虫がもぞもぞ出るしそのうちにバッタなども出てきますから食虫がさらに流行るでしょうなぁ。

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