このブログを始めた当初。
ここでは「面白いもの・楽しいもの・きれいなもの」を取り上げていこうと考えていた。
しかし、毎日更新を重ねていくことによって、
私の中でこのブログの主旨が変わってきたことを、最近感じる。
毎日、植物を育てながら、可愛い猫たちに癒されながら、
しかし、日々目にする暗いニュースや社会の流れから、目をそらすことが出来ない。
近年目につくのは、子供や老人、
小さな動物や弱い者に対する非道な行いばかりで、
この国から何かが失われていっているような気がしてならない。
日本人は、礼儀正しく心優しい民族ではなかったか。
植物や小さな動物を愛でて、何者にも宿る命を、
大切に思う民族ではなかったのか。
ここに1冊の本がある。1856年8月21日に日本の下田にやってきた、
日米修好通商条約調印の全権使節・タウンゼント・ハリスの通訳、
ヘンリー・ヒュースケンの日記である。
オランダ人であるヒュースケンは、単身ニューヨークに渡り、
職業を次々に変えた末、
オランダ語、英語の両方に堪能なことを買われて通訳となった。
日本へ向けて出発した1855年から、
日本で殺害される1週間前の1861年、1月8日までの日記を残している。
当初は日本の文化や慣習、人々に戸惑いを覚えていた彼だが、
次第に日本に惹かれ、愛情を持つまでになる。
なぜならそれは、日本の美しさを、日本人の心の美しさを見たからではないか。
私自身、我が身を、自国の文化を振り返るために、
それを描写している日記中のくだりを、少し抜粋してみようと思う。
「谷間におりて、天城の山頂に去来する雲から外に出ると、田畑がひらけてくる。
やわらかな陽ざしをうけて、うっとりするような美しい渓谷が
目の前に横たわっている。
とある山裾をひと巡りすると、立ち並ぶ松の枝間に太陽に輝く白い峰が見えた。
それは一目で富士ヤマであることがわかった。
今日はじめて見る山の姿ではあるが、一生忘れることはあるまい。
この美しさに匹敵するものが世の中にあろうとは思えない」
-中略
「ゆたかな作物におおわれた、はれやかな田園の只なかに、
大地と齢を競うかのような松の林や、楠の老木がミヤ、
すなわちこの帝国の古い神々の祠堂に深い影をさしかけており、
ゆったりと静まりかえったこの場景を背後から包み込むように...」
-中略
「私は感動のあまり思わず馬の手綱を引いた」
そして、世界を見てきた男からの、日本への次の言葉は、
今こそ私たちが胸に刻むべきものではないだろうか。
「しかしながら、いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ、
この進歩は本当に進歩なのか?
この文明はほんとうにお前のための文明なのか?
この国の人々の質僕な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。
この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている
子供たちの愉しい笑声を聞き、
そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には、
おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、
西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように
思われてならないのである」
これを読んで私は泣いた。
この、世界を見てきた男の、広い視野から生まれ出た愛の言葉に。
当時、「米国側の人間に汚いものは見せないように」という
日本の意図もあったかもしれないが、
それでも、やはり、ヒュースケンが見たものは真実だったと思う。
29歳間近の若さで、これほどまでに惹かれていた
日本の人間によって命を奪われたヒュースケン。
短期間で日本語をも習得し、身軽に行動し、
「食べること、飲むこと、眠ることだけは忘れないが、
そのほかのことはあまり気にしない」(ハリスによる言葉)男。
「恰幅のいい男で、通人すぎる男でもございましたよ」(領事館のボーイ)
と言われた男。
それから150年あまりが経った今、
私たち日本人自身が、そこから繋がっている未来を創ってゆくためにも...
見たくないもの。
でも、見なければならないものがある。