猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

虫の声。

2016年12月15日 13時00分22秒 | つぶやき

 

童話『アリとキリギリス』では、
キリギリスは歌を歌ってばかり、なんだから、
私はそれを感じるのが、日本人だけとも思わないんだけど...
あ、でも『音楽脳』だから『歌』なのか。

 

日本人は、虫の鳴声を、『言語』として捉えているという。

西洋の人々がそれを、
『音楽脳』と呼ばれる右脳で、機械音や雑音と同じく処理するのに対して、
日本人は『言語脳』と呼ばれる左脳で、『言葉』として処理すると。

また、同じように、波の音や風の音、
雨や川のせせらぎといった自然音も、
日本人(と、一部のポリネシア人)は、言語として処理するのだそうだ。

擬音語、擬声語が高度に発達した日本語を母国語として育つことで、
こういった、独特の捉え方が生まれると。

確かに、言われてみれば、
ゲコゲコ、ガヤガヤ、ザワザワ、ギーギー、
さらさら、ザーザー、びゅーびゅー、ゴロゴロ、ピカピカ...

私たちが使う『オノマトペ』はキリがなく、
それをさほど意識することもない。

しかし、例えば、日本文化の代表ともいえる、漫画の発展は、
この、オノマトペの豊富さに下支えされているのだという話もあって、
なかなかに面白い。

『パラパラ』ページをめくれば、
コマごとに文字で加えられた効果音の豊富さは、
確かにくどい説明よりは、
瞬時に視覚で状況を把握させるのに、役立っている。

ドカーン、ガチャン、スパッ、ダダダなどの『音』に留まらず、
逆に音のないことを表す『しーん』『ピタッ』まで。

パタパタ駆け寄り、ぎゅっと抱きしめれば、
衣装はハラリと落ちて、涙はポロポロこぼれるのである。

私たちは幼児期に、犬を、『ワンワンさん』だと教わり、
「ブーブーに乗って出かけ」、
パチャパチャ、プールで遊んで、チュルチュル、うどんを食べる。

中には、この
『幼児語』を嫌い、
はじめから子供には、『犬』や『鳥』と教えたほうがいいという人もいるが、
もしかすれば自国の文化を支えているものの根底が、
この擬音語、擬声語にあるのだとしたら、
それを失うべきではないのだろう。

...と、そんな話をしているときに、
目の前に『フランスの人』がいたので、
「あなたの国にはオノマトペがどれくらいあるか?」
と尋ねたら、
「少しはあるけど、日本語ほどには多くない」と。

そういえば彼は、漫画で日本に興味を持ち、
この国にやって来た人である。

怪談で有名な小泉八雲は、
「真の意味で虫を愛するのは、古代ギリシア人と日本人だけである」
と言ったそうだが、
この、オノマトペに培われた、鳴き声を言葉として捉える感覚が、
日本人の、虫に対する眼差しを育てたのだろうか?

それとも、生きとし生けるもの、
皆、等しく命を持つという仏教的な考えが、
『音』を声と捉える、その性格を与えたのか?

近頃では、チリンチリンと鳴る風鈴や、
ゴーンと鳴る除夜の鐘を、
『雑音』『騒音』と捉える日本人も増えているらしいが。

日本を著し、『虫の声』をこよなく愛したという小泉八雲もまた、
前述のフランス人同様、
日本に惹かれ、異国の地からやってきた人である。

いくつもの、国と言葉を旅した果てに。
 
 
 

私の下手な文章ではわかりにくいので、興味のある方はこちらへ。
すごく面白いお話です。