童話『アリとキリギリス』では、
キリギリスは歌を歌ってばかり、なんだから、
私はそれを感じるのが、日本人だけとも思わないんだけど...
あ、でも『音楽脳』だから『歌』なのか。
日本人は、虫の鳴声を、『言語』として捉えているという。
西洋の人々がそれを、
『音楽脳』と呼ばれる右脳で、機械音や雑音と同じく処理するのに対して、
日本人は『言語脳』と呼ばれる左脳で、『言葉』として処理すると。
また、同じように、波の音や風の音、
雨や川のせせらぎといった自然音も、
日本人(と、一部のポリネシア人)は、言語として処理するのだそうだ。
擬音語、擬声語が高度に発達した日本語を母国語として育つことで、
こういった、独特の捉え方が生まれると。
確かに、言われてみれば、
ゲコゲコ、ガヤガヤ、ザワザワ、ギーギー、
さらさら、ザーザー、びゅーびゅー、ゴロゴロ、ピカピカ...
私たちが使う『オノマトペ』はキリがなく、
それをさほど意識することもない。
しかし、例えば、日本文化の代表ともいえる、漫画の発展は、
この、オノマトペの豊富さに下支えされているのだという話もあって、
なかなかに面白い。
『パラパラ』ページをめくれば、
コマごとに文字で加えられた効果音の豊富さは、
確かにくどい説明よりは、
瞬時に視覚で状況を把握させるのに、役立っている。
ドカーン、ガチャン、スパッ、ダダダなどの『音』に留まらず、
逆に音のないことを表す『しーん』『ピタッ』まで。
パタパタ駆け寄り、ぎゅっと抱きしめれば、
衣装はハラリと落ちて、涙はポロポロこぼれるのである。
私たちは幼児期に、犬を、『ワンワンさん』だと教わり、
「ブーブーに乗って出かけ」、
パチャパチャ、プールで遊んで、チュルチュル、うどんを食べる。
中には、この
『幼児語』を嫌い、
はじめから子供には、『犬』や『鳥』と教えたほうがいいという人もいるが、
西洋の人々がそれを、
『音楽脳』と呼ばれる右脳で、機械音や雑音と同じく処理するのに対して、
日本人は『言語脳』と呼ばれる左脳で、『言葉』として処理すると。
また、同じように、波の音や風の音、
雨や川のせせらぎといった自然音も、
日本人(と、一部のポリネシア人)は、言語として処理するのだそうだ。
擬音語、擬声語が高度に発達した日本語を母国語として育つことで、
こういった、独特の捉え方が生まれると。
確かに、言われてみれば、
ゲコゲコ、ガヤガヤ、ザワザワ、ギーギー、
さらさら、ザーザー、びゅーびゅー、ゴロゴロ、ピカピカ...
私たちが使う『オノマトペ』はキリがなく、
それをさほど意識することもない。
しかし、例えば、日本文化の代表ともいえる、漫画の発展は、
この、オノマトペの豊富さに下支えされているのだという話もあって、
なかなかに面白い。
『パラパラ』ページをめくれば、
コマごとに文字で加えられた効果音の豊富さは、
確かにくどい説明よりは、
瞬時に視覚で状況を把握させるのに、役立っている。
ドカーン、ガチャン、スパッ、ダダダなどの『音』に留まらず、
逆に音のないことを表す『しーん』『ピタッ』まで。
パタパタ駆け寄り、ぎゅっと抱きしめれば、
衣装はハラリと落ちて、涙はポロポロこぼれるのである。
私たちは幼児期に、犬を、『ワンワンさん』だと教わり、
「ブーブーに乗って出かけ」、
パチャパチャ、プールで遊んで、チュルチュル、うどんを食べる。
中には、この
『幼児語』を嫌い、
はじめから子供には、『犬』や『鳥』と教えたほうがいいという人もいるが、
もしかすれば自国の文化を支えているものの根底が、
この擬音語、擬声語にあるのだとしたら、
それを失うべきではないのだろう。
...と、そんな話をしているときに、
目の前に『フランスの人』がいたので、
「あなたの国にはオノマトペがどれくらいあるか?」
と尋ねたら、
「少しはあるけど、日本語ほどには多くない」と。
そういえば彼は、漫画で日本に興味を持ち、
この国にやって来た人である。
怪談で有名な小泉八雲は、
「真の意味で虫を愛するのは、古代ギリシア人と日本人だけである」
と言ったそうだが、
この擬音語、擬声語にあるのだとしたら、
それを失うべきではないのだろう。
...と、そんな話をしているときに、
目の前に『フランスの人』がいたので、
「あなたの国にはオノマトペがどれくらいあるか?」
と尋ねたら、
「少しはあるけど、日本語ほどには多くない」と。
そういえば彼は、漫画で日本に興味を持ち、
この国にやって来た人である。
怪談で有名な小泉八雲は、
「真の意味で虫を愛するのは、古代ギリシア人と日本人だけである」
と言ったそうだが、
この、オノマトペに培われた、鳴き声を言葉として捉える感覚が、
日本人の、虫に対する眼差しを育てたのだろうか?
それとも、生きとし生けるもの、
皆、等しく命を持つという仏教的な考えが、
『音』を声と捉える、その性格を与えたのか?
近頃では、チリンチリンと鳴る風鈴や、
ゴーンと鳴る除夜の鐘を、
日本人の、虫に対する眼差しを育てたのだろうか?
それとも、生きとし生けるもの、
皆、等しく命を持つという仏教的な考えが、
『音』を声と捉える、その性格を与えたのか?
近頃では、チリンチリンと鳴る風鈴や、
ゴーンと鳴る除夜の鐘を、
『雑音』『騒音』と捉える日本人も増えているらしいが。
日本を著し、『虫の声』をこよなく愛したという小泉八雲もまた、
前述のフランス人同様、
日本を著し、『虫の声』をこよなく愛したという小泉八雲もまた、
前述のフランス人同様、
日本に惹かれ、異国の地からやってきた人である。
いくつもの、国と言葉を旅した果てに。
いくつもの、国と言葉を旅した果てに。
私の下手な文章ではわかりにくいので、興味のある方はこちらへ。
すごく面白いお話です。