本日、「君が代」」不起立戒告処分取り消し共同訴訟の判決がある。判決がどうあれ、大阪の「君が代」条例が憲法違反であることをこれからも訴えていくつもりである。
さて、これを機会に私たちが憲法違反と訴えている「君が代」条例とはどのようなものであるのか、私の体験をもとにお知らせしておこうと思う。
( 1 )全国初の “君が代 ”条例
2 0 1 1年 6月 3日 、大阪府議会で全国初となる条例が成立した 。 「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例 」 、いわゆる “君が代 ”条例である。わずか 4条からなるこの条例は 、学校を含む大阪府の施設すべてにおいて毎日国旗を掲揚することと 、大阪公立学校における儀式の際に教職員が国歌を起立して斉唱することを義務付けた 。
ちょうどその日 、私はN高校で行われていた人権教育地域部会に参加していたが 、終わるとすぐに府議会に駆けつけた 。実のところ 、それより 2か月前に行われた大阪府議会選挙で大阪維新の会は過半数を獲得していたので 、条例成立は目に見えていたのだが 、なんとしてもその模様をこの目で見届けたかった。
案の定 、府議会では数名の議員意見を述べた後 、賛成 5 9票 、反対 4 8票で条例は難なく成立した 。時間にして 1時間もかからなかった。あまりのあっけなさに愕然とするほどであった。
これまで3 0数年間にわたって学校で話し合って来たことはいったいなんだったのだろうと思うと虚しくなった。と同時に 、おそらくこの条例によって学校がさらに 「君が代 」強制の波にさらされるだろうと考えると暗鬱な気分になった 。
( 2 )橋下府政誕生 “日本一の教育に ”
橋下徹氏は 、 2 0 0 8年 1月大阪府知事に就任以来 、 「子どもが笑う大阪 、日本一の教育 」をスロ ーガンとして掲げ教育改革に取り組むことを表明した 。確かに教育は多くの問題を抱えていたことを考えると 、このスロ ーガンは多くの人々に希望を抱かせたのかもしれない 。しかし 、大阪の教育がそんなに簡単に良くなるとは思えなかった 。教育というのは 、子ども 、保護者 、教職員 、行政そして市民、それぞれ立場が違うが課題を抱えている。その違いを超えて改革しようと思えばかなりの時間が必要だ 。そのプロセス抜きに教育改革はあり得ない。ところが橋下大阪府知事(当時)が目指すところの政治主導の教育は 、そのプロセスを軽視した一方的な変革になりかねないと思ったからだ。
それに教育はその背景にある生活実態と密接な関係があることも指摘されている。教育問題を解決するには教育だけの問題ではすまない 。私は橋下流の教育改革には疑問を抱かざるを得なかった。
当時、橋下徹府知事は、就任後何回か開催した教育府民集会で、教員、特に教職員組合との対立の構図を露わにした 。そして、それを支持する人も少なからずいた 。橋下流の政治主導による 「教育改革 」は、それまでの教育に対する人々のルサンチマンをうまく利用したものだったのかもしれない。彼から真っ先に狙われたのは 「日の丸 」 「君が代 」に抗する教員だった 。
( 3 ) 「君が代 」不起立とは ?
私は教員になるまでは国旗国歌問題にさほど関心はなかった。しかし、 1 9 7 5年に府立高校教員となって以来 、私にとってこの問題は、教員という仕事をしていく上で重要な位置を占めていくようになった。
1 9 3 0年生まれの私の母は 、いわゆる軍国主義教育の洗礼を受け 、それは見事な軍国少女だったという。戦地にいる兄にどうぞお国の為に死んでくださいと何の疑問もなく手紙を書いた話など 、私には到底信じ難いものだったが 、母は 、 「天皇陛下は神様だったのよ 。お国のために死ぬことが自分の勤めだとこれっぽっちも疑わなかったんだから 。あの時代はみんなそうで仕方がなかったんだよ 。教育っていうのは恐ろしいね 。 」と当時のことを振り返り私に聞かせてくれた 。戦争中よく歌われた 「君が代 」だが 、それが果たした役割を振り返り、戦後、学校で 「君が代 」は斉唱されなくなる 。 「天皇讃歌 」と教えられ戦争遂行のシンボルであった 「君が代 」は 、国民主権を原則とする 「日本国憲法 」の精神と合わないと考えられたこともある 。
しかし、 1 9 5 0年文部大臣に就任した天野貞祐は 、学校行事で 「国歌を斉唱することもまた望ましい 」とする談話を発表し 、それを契機として 5 0年以上の年月を費やして再び 「日の丸 」 「君が代 」は学校に入って来ることになった 。
1 9 7 5年 、私は南寝屋川高校に新任教員として赴任したが 、その頃は、学校には 「日の丸 」も 「君が代 」もなかった 。しかし 、文部省が告示する学習指導要領は時代を追うごとに学校での実施を迫る文言になって行った 。校長はできれば実施したいと言い 、多くの教職員は反対する、そんな議論が毎年続いた 。私は多くの同僚と同じように 、かつて子どもたちを戦争に駆り立てることに大きな役割を果たした 「日の丸 」や 「君が代 」を再び学校に持ち込むことには反対した 。また 、卒業式や入学式で国家のシンボルとも言える 「日の丸 」を掲揚し 「君が代 」を斉唱することは 、大阪の人権教育が目指して来た一人ひとりを大切にしようとする理念とは相いれないとも考えていた 。世間では 、オリンピックやワ ールドカップを通して浸透して来た 「日の丸 」 「君が代 」だが 、学校で実施することには多くの教員が反対してきたのだ 。
1 9 8 5年 、文部省は 、 「日の丸 」 「君が代 」実施について学校で徹底するよう通知を出した 。さらに 、 1 9 8 9年 「学習指導要領 」を改訂し 、 「国歌を斉唱するよう指導するものとする 」と 、それまでの文言からさらに実施を迫る表現にした 。この頃から 、校長は教育委員会の指導のもとで 、より 「日の丸 」 「君が代 」の実施を求めるようになっていく 。だが 、多くの学校で議論の結果 、やはり実施は見送られることが多かった 。ただ 、その時の議論は教員だけに終始し 、生徒や保護者を交えて直接議論をすることはほとんどなかった 。今考えるとそれが悔やまれる 。
1 9 9 9年、卒業式における「日の丸 」「君が代 」の取り扱いをめぐって広島県立世羅高校校長が自殺したことが大きなニュースとなった。そして、それをきっかけに、その年の8月に「国旗国歌法 」が成立する。同法は 「国歌は 、君が代とする 」と定めているが 、当時、政府高官は学校において斉唱を強制することはないと繰り返し答弁した。
当時、私は東寝屋川高校の教員だったが、卒業式や入学式で 「君が代 」をどうすればいいのか、かなり時間をかけて話し合った。教育委員会は、卒業式や入学式の 「君が代 」 斉唱は、教育課程であるゆえ職務命令にはなじまないという姿勢であった 。それが変わったのは橋下徹府政のもとだった。
( 4 )橋下徹氏の怒り
「君が代 」不起立というだけで大阪で初めて処分が出たのは 2 0 1 0年 3月のことだった。東寝屋川高校卒業式で 4名の教員が戒告処分を受けた。それに対し橋下徹府知事(当時)は、「府教委の毅然たる態度に感謝 」と讃え、以降繰り返し 「君が代 」を歌うのは公務員として当然のこと、ル ールを守らせるのが組織マネジメント、従えないなら辞めてもらうとの発言を繰り返した。そして、その翌年全国で初めて “君が代 ”条例が制定されることになったわけである 。条例には罰則規定はなかったが、橋下徹府知事はマスメディアを通して、「それでも歌わない教員はクビにしてやる」と豪語して憚らなかった 。
その夏大阪維新の会が公表した教育基本条例案を見て驚いた 。それは 「君が代 」不起立の問題だけではなく大阪の教育の方向性を根本的に変えてしまうほどの内容であった。ここでは全体には触れずに、そのうちの職員基本条例についてのみ記す。そこには、同一職務命令に3回違反すれば免職との規定が盛り込まれていたが、明らかに 「君が代 」不起立を続ける教員に対して制裁を加えるためのものであることは明らかであった。
( 5 ) “君が代 ”条例下の卒業式
2 0 1 2年初春、「君が代 」条例制定後初めての卒業式、府立高校・府立支援学校の教職員全員に 「君が代 」起立斉唱の職務命令が出た 。むろんそんなことは大阪では初めてのことであり、前代未聞のことであった 。また、それだけにとどまらず 、式場内勤務と式場外勤務、つまり 「君が代 」起立斉唱を見届けるため教員には居場所まで指定する職務命令までもが出された。教員を呼び出し「君が代 」起立の言質を取る校長もいた 。それは、およそ卒業の祝福とは相いれないものだった。
何の議論もなく、条例ができたから、命令だから従えと言われてもおずおずとそれに従うことはできない。そう考えた教員がいた。私もそのひとりである。一方 、命令が出たからには仕方がないと考える教員もいた。「クビになりたくなかったら立て 」と恫喝されたも同然であるから、生活や周囲との軋轢を考えるとそう考える教員がいたのもそれこそ仕方がないことなのかもしれない 。
この年の卒業式 ・入学式で 、「君が代 」起立斉唱の命令に違反したことで 3 6名もの教員が懲戒処分を受けた。
( 6 ) 「君が代 」条例を訴える
2 0 1 2年処分を受けた教員のうち 7名が人事委員会に不服申立を行った。大阪には、1 9 9 9年国旗国歌法制定以来、「日の丸 」「君が代 」の強制が人権侵害を引き起こすことはあってはならないと、弁護士や教員、市民らによって 「日の丸 」 「君が代 」強制ホットラインという組織が立ち上がっていた 。今では、「日の丸 ・君が代 」強制反対 ・不起立処分を撤回させる大阪ネットワークとして、私たち被処分者を支援し、広く 「日の丸 ・君が代 」問題に取り組んでいる。私たち被処分者はもル ープ Z A Z Aを結成し連帯している。因みに Z A Z Aとは、「座座 」から来ている。座るイコール不起立という意味である。
条例下 2年目の 2 0 1 3年の卒業式はさらに緊迫感があった 。学校にはますます 「君が代 」問題を語るのはタブ ーと言う空気が蔓延していたように思う。私自身は定年前最後の卒業式であり、また3年間かかわってきたこともあり、是非とも参列しようと思っていた。しかし何度かけあっても、校長は 「君が代 」を歌わない教員を式場に入れるわけにはいかないというばかりだった。
「歌ったふりをしたらええやん 」と言う生徒もいたが、「先生らがみんな歌うようになったら、次は生徒が歌わなあかんようになるんと違う」と言うと解かってくれたようだった。橋下徹市長(当時)は 、マスメディアを通して、どうしても嫌な教員は卒業式に出なければよい、逃げ道は与えている、大人の判断をすればよい、式場内さえうまくやってくれればよいという趣旨の発言をしました 。これこそが 、橋下徹氏が 「君が代 」条例を制定した狙いではないか。服務の問題、ル ールの問題と言いながら、彼が目指したものは、ひとつには 「上 」の言うことを黙ってきく教員。たとえおかしいと内心考えていても 「上 」からの指示なら従う教員なのだ。そして、もうひとつ、こちらが究極の目的かもしれないが、「君が代 」に抗する教員を排除した後 、学校の儀式において参列者全員が 「君が代 」を起立斉唱する体制を作ることにある。 “君が代 ”条例第一条に、その目的として 「府民 、とりわけ次代を担う子どもが伝統と文化を尊重し 、それらを育んできた我が国と郷土を愛する意識の高揚に資する … 」とあるが、まさに「愛国心 」を学校で育むことにある。小学校 、中学校 、高校の節目とも言える入学式 ・卒業式で繰り返し歌わされる 「君が代 」が子どもたちの心身に刻印され、それがどのような効果を持つかは歴史を見ればわかる。
今、新たに「ニッポンのため 」「平和のため 」と称して、戦争を肯定し戦争に赴く 「ニッポンジン 」作りが 、教育すなわち学校に求められつつあるのではないだろうか。その時、国家のシンボルとして 「日の丸 」 「君が代 」は、簡素でありながらこれほど重要な役割を果たすものはない。ウタやハタを通して国民をひとつに束ねることができれば 、為政者にとってこれほどやりやすいことはない。
さて 、条例下 2度目の 2 0 1 3年卒業式では1 3名が処分された。うち3名は減給処分を受けた。私もその 1人である。これまでにのべ 6 0名の教員が処分されている 。また、定年後の再任用を拒否された者は 7名になる。私たちグル ープ Z A Z Aのメンバ ーは大阪ネットの支援を受け、 2つの減給取消裁判、戒告取消共同裁判、解雇撤回裁判に取り組んでいる。憲法で保障された人権は教育公務員として例外ではないはずである。 “君が代 ”条例が憲法に違反していることを広く訴えていくつもりである。