いよいよ明日です。
2018グループZAZA連続講座
メディアの現場からー歴史を振り返り、今を考える
第4回中村尚徳記者(朝日新聞)講演
「反骨の記録」から考える憲法問題ー改憲に抗うために
◆10月8日午後2時から
◆エルおおさか南館南734号室
中村記者からはすでにレジュメ資料も送っていただきました。
ここでは、その一部を紹介します。どんなお話がうかがえるか、乞うご期待!
没後70年美濃部達吉の伝言4
「学問の自由」を常に力説
歴史学者の家永三郎は、32年間教科書の内容に国が介入することの是非を裁判で問い続けた。
1997年、最後の第3次訴訟最終弁論。その場面を当時の朝日新聞が伝えている。最高裁の本人陳述で、家永は変色した新聞記事を裁判官に向かって示した。戦時下の39年に美濃部達吉が帝国大学新聞に書いたものだった。
司法の独立は、政府の圧迫に屈しないだけでなく、政治勢力に迎合しないことで保たれる、とつづった随筆。感銘し保存していたと言う。
中学時代、美濃部の著書「憲法撮要」を愛読した。「神がかりの天皇崇拝でもない立憲君主制への道をあることを学んだ」と朝日新聞に寄稿もしている。
64年には「美濃部達吉の方思想史研究」を出版。美濃部憲法学の特徴の一つとして、学問や芸術など精神文化の世界に国が介入することに強く反対した主張を紹介した。それは長い教科書訴訟を支えた自身の信念と相通じるものだったに違いない。その著書で実例にあげたのが戸水事件。日露戦争の際、東京帝大教授の戸水寛人らが対露強硬外交、即時開戦論を主張。日露講和条約にも反対したことから。政府は0 5年8月に戸水を休職処分にした。集会禁止や新聞の発行停止、戒厳令発令といった政府の強権発動も重なり、美濃部は強く反発した。
同年10月、「国家学会雑誌」編集主任として多くの学者らの反論を集め、戸水事件特集号を出した。美濃部自身は小引((短いはしがき)と「権力の乱用とこれに対する反抗」と題した論文で政府をこき下ろした
「立憲政治は民意の尊重が基礎。みだりに権力を用いて民意の発表を抑圧するのは権力の乱用で、立憲政治の基礎を危うくする」
家永は評した。「学問の自由を力説する整然とした論理は、美濃部の生涯の内でも最も精彩に富む文章」だった、と。
軍国主義の足音が忍び寄っていた33年。京都帝大教授の滝川幸辰が講演内容を国会で咎められた。政府から無期限の休職処分を受け、著書も白発禁となった。
法学部の全教員が辞表を出し、21人が大学を去った。学問の自由や大学自治を破壊した「京大滝川事件」と呼ばれる。
この時も美濃部は「権力者に迎合する御用学説のみを教授するならもはや大学の名に値しない」とする論文を発表。「学問の自由」擁護の精神を示したと家永はその著書に記している。
写真は前回の講演時の中村尚徳記者。
2018グループZAZA連続講座
メディアの現場からー歴史を振り返り、今を考える
第4回中村尚徳記者(朝日新聞)講演
「反骨の記録」から考える憲法問題ー改憲に抗うために
◆10月8日午後2時から
◆エルおおさか南館南734号室
中村記者からはすでにレジュメ資料も送っていただきました。
ここでは、その一部を紹介します。どんなお話がうかがえるか、乞うご期待!
没後70年美濃部達吉の伝言4
「学問の自由」を常に力説
歴史学者の家永三郎は、32年間教科書の内容に国が介入することの是非を裁判で問い続けた。
1997年、最後の第3次訴訟最終弁論。その場面を当時の朝日新聞が伝えている。最高裁の本人陳述で、家永は変色した新聞記事を裁判官に向かって示した。戦時下の39年に美濃部達吉が帝国大学新聞に書いたものだった。
司法の独立は、政府の圧迫に屈しないだけでなく、政治勢力に迎合しないことで保たれる、とつづった随筆。感銘し保存していたと言う。
中学時代、美濃部の著書「憲法撮要」を愛読した。「神がかりの天皇崇拝でもない立憲君主制への道をあることを学んだ」と朝日新聞に寄稿もしている。
64年には「美濃部達吉の方思想史研究」を出版。美濃部憲法学の特徴の一つとして、学問や芸術など精神文化の世界に国が介入することに強く反対した主張を紹介した。それは長い教科書訴訟を支えた自身の信念と相通じるものだったに違いない。その著書で実例にあげたのが戸水事件。日露戦争の際、東京帝大教授の戸水寛人らが対露強硬外交、即時開戦論を主張。日露講和条約にも反対したことから。政府は0 5年8月に戸水を休職処分にした。集会禁止や新聞の発行停止、戒厳令発令といった政府の強権発動も重なり、美濃部は強く反発した。
同年10月、「国家学会雑誌」編集主任として多くの学者らの反論を集め、戸水事件特集号を出した。美濃部自身は小引((短いはしがき)と「権力の乱用とこれに対する反抗」と題した論文で政府をこき下ろした
「立憲政治は民意の尊重が基礎。みだりに権力を用いて民意の発表を抑圧するのは権力の乱用で、立憲政治の基礎を危うくする」
家永は評した。「学問の自由を力説する整然とした論理は、美濃部の生涯の内でも最も精彩に富む文章」だった、と。
軍国主義の足音が忍び寄っていた33年。京都帝大教授の滝川幸辰が講演内容を国会で咎められた。政府から無期限の休職処分を受け、著書も白発禁となった。
法学部の全教員が辞表を出し、21人が大学を去った。学問の自由や大学自治を破壊した「京大滝川事件」と呼ばれる。
この時も美濃部は「権力者に迎合する御用学説のみを教授するならもはや大学の名に値しない」とする論文を発表。「学問の自由」擁護の精神を示したと家永はその著書に記している。
写真は前回の講演時の中村尚徳記者。