不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

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2005-07-10 02:46:00 | 日記・エッセイ・コラム
ロンドンが標的となったのは
オリンピック開催が決定した翌日。
それを因果とちょっと感じた私。
あの時、会場がパリに決まっていたら、
もしかしてパリが標的となった?
どうなんだろう。

ロンドンがオリンピック開催場として選ばれるのは
1908年1948年に続いて3回目。
実は1908年はローマで開催予定だったのですが
1906年のヴェスヴィオの噴火のため
開催が難しいと見て急遽ロンドンに変更になったもの。
この1908年オリンピックの話題となったのが
マラソン競技に出場したイタリア人。
Dorando Petri(ドーランド・ペトゥリ)。
今でもイタリアでは
「オリンピックの歴史に残るエピソード」
として扱われています。
彼は堂々一位でスタジアムに戻ってきたのですが
スタジアムのトラックを走行中に
あまりの暑さで5回ほど意識を喪失し、救助を受け
それが原因で、優勝資格を剥奪されたのでした。
「参加することに意義がある」
という言葉が生まれたのもこの1908年大会。
この大会にまつわるエピソードのそこここに
イタリアらしさが垣間見られる気がします。

イタリアらしさといえば。

9・11のときのアメリカのパニックぶりに比べると、
今回の事故に際してのイギリス人の冷静さに感服。
これはきっと全世界で感じたことでしょう。
もちろん被害の大きさも関係しているとは思うけれど
民族性ってこういうところに表れるのですね。

もし日本で同じことが起きたら、
大変なパニック状態になり
それをさらにメディアが煽りそうな気がします。


ロンドン市内テロを受けて
私がイタリアにいることを気にかけてくれる友人から
何通かメールが届いています。
イタリアもテロの標的であるというのは
9・11以降誰もが承知していることなのですが
あまり緊迫した空気でないのが、
またイタリアらしい気も。

実際イタリアが標的になるとして
問題になるのはミラノかローマ。
政治的にも商業的に、いろいろな点から見て
フィレンツェがその標的となる可能性は
非常に低いと思うのですが、
イタリアという国の特性から考えると
どこかひとつ大都市が被害を受けた場合、
すべてのものが機能しなくなるので
そういう意味では
どの街にいても、被害の余波はやってくる。
まず郵便は届かなくなるだろう(爆)。

先日のコンサート会場での
市長の言葉にも表れていたように
フィレンツェももちろん全都市挙げて反テロリズモ。
こういうことを世界的に情勢が不安定であるときに
公できちんと発言するのは大切なことであると同時に
非常に勇気のいることだと思うけれど、
なにか、こう潔さを感じたのでした。


ローマをはじめ大都市では
徐々に厳戒態勢での警備が始まっています。



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