不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

L'ultima Dimora di Michelangelo

2007-02-14 08:20:08 | アート・文化

ミケランジェロの生涯最後の大仕事は
ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂建立。
このために彼はフィレンツェを離れて、
人生最後の17年間をローマで過ごしています。

ミケランジェロは生涯の中で何度かローマを訪れていて
最初のローマ訪問は1496年21歳の時。
この時に有名な「ピエタ」の作成(1498-1499)を行っています。
その次は1508年。
この時にはシスティーナ礼拝堂の天井のフレスコ画
(預言者、創世記、地上の楽園)を手がけ
その後1541年に同じくシスティーナ礼拝堂の壁画
「最後の審判」を完成。
1542年にパオリーナ礼拝堂の「サウロの改宗」と「ペテロの磔刑」。
そしてサンピエトロ寺院のクーポラ建設のために
1547年に再度ローマへ。

この最後の滞在となる1547年1月1日から
1564年2月18日までの彼の住処については
これまでもいろいろと言われてきていますが
ヴァチカンの古文書の調査が進み、
彼がサン・ピエトロ寺院の一角に
暮らしていた形跡が確認されました。
ヴァチカンの近くに暮らしていたと推測されてはいましたが、
建築現場に一番近い、
まさに寺院の一角に暮らしていたようです。

あまり大きな部屋ではなく、
非常にコンパクトにまとまった部屋だったようですが
元々自分の空間を大事にする芸術家であったミケランジェロらしく
外部の人間を一切近づけないようにしていたようです。
その部屋からは小さな螺旋階段を使って
建築現場に出向くことができたと言われています。
小さな部屋にこもって人知れず設計図を描き、模索して
そこから直接現場に向かっていた晩年のミケランジェロ。
非常に仕事熱心だったことが想像されます。

この部屋の存在が明らかになったのは
ヴァチカンが保管している
何千何万という古文書のなかにある
一枚の変哲もない「出納覚書」の一行から。
この書類は1557年3月のもので
様々な支払いの記録が記されています。
「サン・ピエトロのミケランジェロの部屋の引き出しの鍵」
という項目があり
その部屋に取り付けられていた引き出しの鍵の製作料として
10スクードを支払うと記されているのです。
このことから、当時寺院の中には
ミケランジェロが使っていた部屋が存在し
現場に出入りする人々には
よく知られていたらしいことがわかります。

では現在のサン・ピエトロ寺院の
どの部分に当たるのかという点ですが
これはまだ研究・調査が必要とされていますが、
一説にはクーポラの左手のサン・レオネ・マーニョの礼拝堂
(Cappella di San Leone Magno)周辺といわれています。
現在ファブリカ・ディ・サン・ピエトロの
書類庫として使われている部分の一部が
その部屋にあたるのではないかと推測されています。

いずれにしてもミケランジェロは建築中の寺院の一角に
自分の部屋を持っていたらしいことは間違いがないようです。
そこで暮らしていたかどうかは別として、
書斎があったのは確かなのです。