不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

Fontana di Trevi

2008-09-09 21:43:11 | アート・文化

ローマといえばの、トレビの泉。

噴水のとても多いローマでも最も大きな噴水です。
1998年に修復され、清掃が行われたのと同時に、
流水システムも最新のものが導入されています。 

Trevi01
1700年代に
Nicolo Salvi(ニッコロ・サルヴィ)によって設計され
クラシック建築様式とバロック建築様式が
混在するデザインとなっています。
Palazzo Poli(ポーリ宮殿)の裏手に
張り付くようにして作られている噴水の
彫刻群のテーマは「海」。

半身半漁のトリトンが扱う2頭の馬が引く
貝殻の上に悠然と立つのは
Pietro Bracci(ピエトロ・ブラッチ)作の
Oceano(オチェアーノ:大洋)。
両脇のニッチにはそれぞれ
「健全」と「豊穣」の像が置かれています。
どちらもFilippo della Valle
(フィリッポ・デッラ・ヴァッレ)の作品。
Trevi02
噴水の作られた経緯ですが、
アウグスティヌス帝の時代に遡るといわれます。
アウグスティヌス帝の娘婿であるAgrippa(アグリッパ)が
パンテオンやその周辺の浴場施設まで
水を引くために水道橋を建設します。
その水道システムは
acquedotto Vergine(ヴェルジネ水道橋)と呼ばれています。
この水道橋の名前の由来は伝説化していますが、
当時水源を探して近郊を歩いていた兵士たちに
源泉を指し示した少女がいて
その少女を称えて、
ラテン語の「少女」を意味するVirgoを元に
アグリッパ自身が命名したといわれています。

Trevi03
この水道システムは537年のゴート族の侵略などによって
危機に晒され縮小しましたが
中世の時代を通して常に利用され
8世紀に最初の修復が施されています。
その後は自治体によって12世紀に、
15世紀には教皇庁によって修復されています。
15世の修復により流水量も増え、
噴水への水の供給も大きくなりました。

1997年の修復時にはこの水道橋の後も含む遺跡群が
トレヴィの泉周辺から発掘されていて、
水道橋との関わりも確証されています。 

Trevi04
バルベリーニ家出身の教皇Papa Urbano VIII
(ウルバーノ八世:1623-1644)によって
広場の整備と噴水の設置が計画され、
Giovan Lorenzo Bernini(ベルニーニ)が設計をしていますが
教皇の死とともに立ち消えとなります。
その後コンティ家出身の教皇Papa Innocenzo XIII
(イノチェンツォ13世:1721-1724)が
ポーリ公爵の所有であった宮殿周辺の土地家屋を買い上げ
未完となっていた噴水の完成に着手しようと試みます。

18世紀のはじめには
この噴水のテーマをなににするかというのは
ローマを訪れる建築家にとっては最も重要な課題であり
数々のコンクールが行われました。
イタリア内外から建築家がデッサンを寄せていて
なかにはNicola Michetti(ニコラ・ミケッティ)、
Luigi Vanvitelli(ルイジ・ヴァンヴィテッリ)、
Ferdinando Fuga(フェルディナンド・フーガ)などの
設計も含まれています。

コルシーニ家出身の教皇
Papa Clemente XII(クレメンテ12世:1730-1740)が
1731年に最終完成へ向けて決定し、改めてコンクールを行います。
このコンクールに勝ったのがニッコロ・サルヴィで
1732年に工事着工。
彼は基本的に
ウルバーノ八世とベルニーニのプロジェクトを引き継ぎ
バロック様式とクラシック様式を融合させた
一大建築物の完成を目指します。

クレメンテ12世がまだ工事中であるにもかかわらず
祝賀を上げたのが1735年、
その後1740年に工事は再度中止され、2年後に工事再開。
1751年にサルヴィが他界すると、
Giuseppe Panini(ジュゼッペ・パニーニ)がプロジェクトを引き継ぎ
ようやく1762年に教皇クレメンテ13世の治世で完成に至ります。

約30年の工事期間中にサルヴィ、パニーニを含め
少なくとも10人の彫刻家が携わったといわれています。

Trevi05
こうして完成した噴水は非常に華やかで動性のある彫刻群と
豊富な水量でローマのシンボルとしてどの時代にも愛されています。