不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

Girolamo Maria Francesco Matteo Savonarola 2

2009-06-02 07:31:00 | アート・文化

サヴォナローラの人生前半はこちら

1490年ロレンツォ・ディ・メディチに請われて
フィレンツェに戻ったサヴォナローラは、
8月1日より精力的に
サン・マルコでの説法を再開しますが
聴衆には以前にも増して
「真の預言説法」と受け取られるようになります。
一刻も早い教会の改革の必要性を説き、
時には現職の教会幹部や
高位聖職者を非難することもありました。
教会内部には底辺から頂点まで
誰一人として善人がいないとまで言い
また歴代そして現役の哲学者や文学者へも
批判の矛先を向けていきます。
この結果、庶民や貧民、
メディチ家の政策に不満を持つものや
反メディチ勢力には受け入れられるようになり
逆に反サヴォナローラの人々からは
絶望者の救いの預言者と呼ばれるようになります。

1491年2月16日には
初めてドゥオーモの説教壇から説法を行い、
4月6日には伝統に則り
フィレンツェ共和制の高官を前に
復活祭の説法を行います。
このとき一都市の善悪は
すべて支配する君主たちによって決まるものであると説き
しかし、君主はみな傲慢で腐敗しており、
弱者搾取を止めず、重税を課し、
さらに貨幣偽造などを平気で行うと強く批判もしています。

こうしたサヴォナローラの極端な予言的説法を聞いた
ロレンツォ・イル・マニフィコは
本人に対して度々忠告を行い
「神の本当の意図はこのような形での
説法だと思っているのか、
説教壇に登り、このようなおぞましい預言を行うことは
神の意図に反しているので注意するように」
という内容の手紙を送ったりもしています。
忠告の中でこのまま同様の説法を続けるのであれば
流刑も厭わないとほのめかしていますが、
ロレンツォの意思に反してサヴォナローラは反発し
ロレンツォの死を預言するまでになります。

ロレンツォは当時雄弁で知られていた
アゴスティアーノ会派の修道士マリアーノ
(Mariano della Barba da Genazzano)を召還し
5月12日に12使徒伝をテーマにサヴォナローラの預言が
いかに間違っているかを証明するために
説法会を行いますが、
その3日後にサヴォナローラは同一テーマで反撃を行い
見事に自分の正当性を説いてみせたといわれています。

こうして徐々に力をつけていったサヴォナローラは
やがてサン・マルコ修道院の修道院長となり
修道院が所属していた
ロンバルディアの宗教集会から脱退し
トスカーナ州での宗教集会を結集してトップに立ちます。

その間、1492年4月5日には嵐がフィレンツェを襲い
落雷がドゥオーモの頂塔を破壊しましたが、
それをフィレンツェ人はサヴォナローラの預言の
実現の始まりであると解釈します。
その3日後にロレンツォ・イル・マニフィコがこの世を去り
ますます市民の間に不安が広まっていきます。
この年7月25日には教皇イノチェンツォ8世も他界し
8月11日に新たに
ボルジア家からアレッサンドロ6世が就任します。
これをもってサヴォナローラは勢いづき、
今こそ教会改革の時と精力的な活動を開始します。
修道士個人の所有する財産を売り、
その収益を貧しい人に分け与えるように指導し
その結果修道院は常に物乞いで溢れ、
改宗者も増加したといわれます。

その頃、
イタリアを取り巻く世界情勢は大きく動いており
フランスのカルロ8世(Carlo VIII:シャルル8世)が
ナポリ王国の継承権を主張して
イタリア半島を南下するイタリア戦争が勃発(1494年)。
この世界的な事件も
サヴォナローラの預言に含まれていたとして
フィレンツェ市民の中では
サヴォナローラ支持派が急速に増えていきます。
当時のフィレンツェはロレンツォ亡き後政治的に不安定で
ピエロ・ディ・メディチ(Piero de' Medici)の
優柔不断な政策によって
フィレンツェ市民の反メディチ感情を強める結果となりました。

カルロ8世が南下してきてメディチ領に侵入したとき、
市民は実情を知らされることなく、
またピエロは数々のアドヴァイスに耳を貸さず、
フィレンツェ侵攻を防ぐためという名目で
フランス王の要求以上の領地をフランス軍に譲渡しています。
これを知ったフィレンツェ市民は
ピエロがフィレンツェに戻ると即座に追放し、
11月8日共和国宣誓が行われました。

まだフィレンツェ市民の間には
サヴォナローラ信仰が強かったこの頃から
教会内部では彼がメディチ家の遺産や
教会の財産を隠し持っているという批判も生まれ、
サヴォナローラから離れていく流れも
出来上がっていましたが、
実際には根拠もない噂であったため
社会を巻き込む大きな動きにはなっていません。

1495年にはスペイン、教皇庁、
ヴェネツィア、ミラノが同盟軍を作り
カルロ8世のフランス帰還を妨げる動きが起こり
フィレンツェもそれに参戦するように依頼がありましたが、
元々親フランス派であったフィレンツェは
サヴォナローラの意向も強く、
またサヴォナローラとフランス王との絆に
市民が希望を抱いていたことから
この動きに賛同しませんでした。

ナポリを難なく占拠したカルロ8世は6月ローマに侵攻し、
教皇アレッサンドロ6世は
オルヴィエート、ペルージャに避難します。
サヴォナローラはポッジボンシでカルロ8世と謁見し
フランスに帰ることしか考えていなかった王を相手に
熱弁をふるい
フィレンツェを攻め込まないこと、
メディチ家の復活を認めないことなどの
約束を取り付けています。

フランス王は同盟軍を突破してフランスに戻り、
フランス王不在となったナポリでは
アラゴン王朝フェルディナンドが復権、
サヴォナローラもフィレンツェ共和国も
基盤が崩れ力を失っていきます。

サヴォナローラと教皇アレッサンドロ6世との間には
何度もやり取りが重ねられ
教会批判の預言などを責め、
すべての権力の剥奪を言い渡されますが、
サヴォナローラはそのたびに反発を続けます。
教皇は預言説法を一時休止することを命じ、
一旦サヴォナローラ批判を緩め、
サヴォナローラもそれに応じる姿勢を見せますが
説法を行わずに書物の発行に力を入れ、
その主張自体を曲げることはありませんでした。

華美を嫌い、清貧に暮らすことを良しとした
サヴォナローラは遂に極論に行き着き
1497年2月7日にはフィレンツェで「虚栄の焼却」が実施され
フィレンツェが誇るルネッサンスの
文化・芸術の多くが炎の中に消え去りました。
これによる文化的な被害は計り知れないといわれています。

彼はローマ教会の腐敗を批判し、
人々がシンプルに正直に暮らすことが第一だ
と説き続けていますが、
教皇からは異端として扱われ、
最終的には1497年5月12日に破門されています。
破門後は更に自身の信念に傾倒していったため
フィレンツェ市内でも反感が生まれ、
次第にサヴォナローラ信仰が崩れていきます。

フランス王の後ろ盾もなくなったサヴォナローラは
1498年には異端の罪で逮捕され、拷問を受け、
投石刑、絞首刑の末に
シニョリア広場で火刑に処されて5月23日殉教。

サヴォナローラの死後かなり経ってから
彼の名は、モラル的堕落を極端に激しく批判する人を指す
軽蔑もしくは批判をこめた形容詞となりました。

現在もフィレンツェのサン・マルコ美術館には
サヴォナローラにまつわる遺品が数多く残されており、
宗教改革の先駆者としても評価されています。

首尾一貫して唱え続けたこと自体には
間違いがなかったのですが
その実現のために選んだ手法が極端すぎたので、
時代に受け入れられなかったのですね。