CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

NHKラジオ きょうは何の日 1月12日

2024年01月12日 17時56分56秒 | Weblog
NHKラジオ5時台の放送より「今日は何の日」1月12日をお送りします。

■スキーの日

■1928年(昭和3年) 大相撲のラジオ中継始まる

■1954年(昭和29年) 奈良・平城宮跡の発掘が始まる
    国立奈良文化財研究所が発掘を担当

■2010年(平成22年) ハイチ大地震
      M7.7 20万人超える犠牲者が出た

日刊スポーツの「今日はどんな日」1月12日では下記話題を取り上げています。
大相撲の魁皇が幕内通算808勝。千代の富士を抜いて単独1位に 

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建設中の「神戸アリーナ(仮称)」の写真を撮ってきました 副題:海軍操練所跡発掘現場 on 2014-1-9

2024年01月12日 03時42分55秒 | 神戸情報
2014年1月9日、建設中の「神戸アリーナ(仮称)」の写真を撮ってきましたので紹介します

「神戸アリーナ(仮称)」は2025年4月に開業予定で工事が進められています。
神戸アリーナの建設が進められている場所は新港第2突堤です。
完成すれば関西地区最大級の規模 「収容人数10,000人」 の大型アリーナとなります。


上の写真は当日のメインの訪問先:フェリシモチョコレート博物館の2階のベランダから撮影
撮影:2024年1月9日
上の写真はフェリシモチョコレート博物館の1階部分屋外から撮った「神戸アリーナ」
撮影:2024-1-9

上の写真は工事中の「神戸アリーナ」正面入口部。右側は解体工事中の住友倉庫の建物
撮影:2024年1月9日

完成後の姿などは公式サイトで紹介されていますのでリンクしておきます。

これだけだとあまりにも内容が無いので当日に撮った写真を何枚か添付しておきます。
上の写真は解体工事中の住友倉庫(神戸市中央区新港町7)の建物 撮影:2024-1-9
住友倉庫の建物は大正15年(1926)に作られた建物で、今は神戸市所有となり、
再開発のため解体されることになってます。 




上の4枚の写真は発掘調査が進められている神戸海軍操練所跡 撮影:2024-1-9

発掘調査の現場説明会は下記の予定ですが、申し込みをしようとしてサイトを覗いたら
既に満杯で申し込みできませんでした。(1月9日に確認)
 2024年1月13日(土曜)13時00分から15時00分
 2024年1月14日(日曜)11時00分から15時00分 
しかし、ダメもとと思い神戸市文化財課に1月10日に電話したら予約がとれたので
現地説明会で疑問事項を聞いてこようと思っています。

現地説明会に関する詳しい情報は下記リンク

尚、現地説明会の資料は後日、神戸市埋蔵文化財センターのサイトで公開されるそうです。

神戸海軍操練所について概要を記載しておきます。

神戸海軍操練所と付属の寄宿舎工事は文久3年(1863)「海軍操練所」建設掛の
辞令を受けた軍艦奉行並の勝海舟の指揮のもと建設が進められ元治元年(1864)
5月、開校とともに幕府から、年経費3,000両と長崎伝習所の所属であった観光丸
と新たに米国製の練習蒸気船「黒龍丸」が配備され原料の石炭は鷹取山から採鉱
さらに長崎造船所施設を神戸に移すという約束が結ばれました。
操練所には公募により幕臣のみならず諸藩の家士や浪士、さらに勝の私塾生らも
含めて総勢200名以上が集まった。航海術習得の厳しい訓練を通じて海外に目を
向けようとの目論見の方が大きかったが一部の塾生が長州藩の起こした「禁門の変」
の関係者がいたことなどから幕府の当局者に嫌われ、勝海舟は免職、操練所は
元治2年(1865)3月12日(9日、18日の説もあり)に廃止された。
操練所からは幕末の英雄坂本龍馬をはじめ、陸奥宗光、伊東祐享(すけゆき)ら
多数の俊才を輩出した。




落合重信著「神戸の歴史 通史編」(1975)のPage133に掲載された
神戸海軍操練所の平面図を添付しておきます。(上の写真)
また、神戸市立中央図書館のアーカイブで神戸海軍操練所平面図が掲載されて
いますのでリンクさせていただきました。

上の写真は神戸市立博物館の田井玲子さんの著書「外国人居留地と神戸」Page22
着色加工された神戸海軍操練所の平面図

今回の発掘場所がどの位置なのか現地調査説明会の資料などで特定したいと考えています。

上の写真は1870年 J.W.ハートが設計した神戸旧居留地地図の東南方向
船入場付近が海軍操練所跡付近です。
初代のイギリス領事館は旧海軍操練所の建物に開設されています。

関連として明治15年期の地図も添付しておきます。赤丸が海軍操練所跡の周辺


発掘現場の住所は神戸市中央区新港町16番地Googleマップを添付
最新の地図ではなく現在は高層マンションなどが建ちだいぶ変化しています。
但しストリートビューでみると最近のものになっています。
阪神高速道路株式会社管理本部神戸の建物の西側になります


上の写真は海軍操練所跡の碑  撮影:2016-6-6
神戸海軍操練所について現地の碑文から引用紹介します。

 万延元年〈1860)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸
〈300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいなが ら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果した
のである。日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
文久三年(1863)4月攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防 備のため阪神海岸を巡視した。
当時海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随 行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港で
あることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。
勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした.
その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の
人材が輩出したのである。
 元治元年=1864年〉海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の
嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに
至ったのである。 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を
望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路
の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない
 今はただ遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの
救いである。


詳細は下記ブログを参照してください。

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