音楽の喜び フルートとともに

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熊の愛称を持つ交響曲

2023-03-13 21:01:00 | 古典
土曜日はギターの川原久美子さんと合わせ練習をしました。
かわいいパッケージの紅茶を頂きました。

テディベアのビスケットも!

川原さん、可愛いもの好きです。私も好きです。

曲はフェルディナンド カルッリのフルートとギターの二重奏op158
のNo1とNo2
カルッリのこの曲は初めて合わせます。

みっちりやってくずはモールで餅入り野菜たっぷりグラタン食べて解散しました。

フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)神聖ローマ帝国下オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

ハルハ伯爵に使える車大工の父、伯爵に仕える料理女の母の元に生まれましたハイドン。
6歳で叔父の音楽学校の校長に音楽を学びます。
8歳でウィーンのシュテファン大聖堂

の聖歌隊の一員となり、9年間働きました。
16歳で変声期が来て解雇されます。

フリーでオルガンやバイオリンを演奏し、教会の歌手を務めたりして生計を立てていました。

1757年頃ボヘミアのモルツィン伯爵の宮廷楽長の職に着きます。ここで最初の交響曲第1番が書かれました。

モルツィン宮殿
1760年マリア アンナ ケラー
ルートヴィヒ グッテンブルゲン作ハイドン夫人未認証
と結婚しました。ただ、結婚生活は幸福ではなく子どももできませんでした。
最後の10年間はほとんど別居状態でした。

彼はエステルハージのお抱えの歌手ルイザ ボルチェッリ夫人と

一人もしくは多くの子を設けたのではないかと言われています。

1761年モルツィン伯爵は経済的に苦しくなり、ハイドンは解雇されました。が、すぐに エステルハージ家のニコラウス侯爵の依頼で副楽長という仕事を得ました。

エステルハージ ニコラウス侯爵

1766年には楽長に昇進し、30年を過ごし、ハイドンはここで多くの曲を作曲しました。

1785年から1786年の間には名声が高まり、外国からの依頼に答えて作曲するようになります。
パリで新たに創設されたオーケストラ団体、コンセール ド ラ オランピックからの依頼で交響曲を6曲作曲しました。
これはパリ交響曲と呼ばれています。

この交響曲は聴衆と批評家から絶大な支持を得て、たちまち人気になったため、パリで出版された他にウィーンやロンドンでも出版されています。

第83番ト短調 めんどり
第85番変ロ長調 王妃
第87番イ長調
第82番ハ長調 熊
第84番変ホ長調
第86番ニ長調

交響曲第82番 

熊という愛称はハイドン自身によるものではありませんが、第4楽章冒頭の前打音を伴う低音が熊使い(大道芸で熊を音楽に合わせて踊らせたりしながら街を回っていました。)
1865年の August Jernberg の作品

の音楽を思わせることからこの愛称で呼ばれるようになりました。