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出版社と決裂。ピアノ五重奏曲

2023-06-25 21:00:00 | 国民楽派
金曜日は長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生のレッスン室で、合奏練習でした。
ヴィオラ金重美代さんのお誘いです。

8月6日(日)の発表会のための練習です。
曲はモーツァルトのフルート四重奏K285 Ddur。
牧野からピアノの坂田さんも一緒に行って、モーツァルトピアノカルテットト短調の第一楽章も練習。私は譜めくり。
先生方の音に包まれて本当に幸せな時間です。

マンゴーケーキ

アールグレイケーキなどなど持参したケーキでお茶して帰るのもお楽しみ。

この発表会が終わったらドボルザークのピアノ五重奏曲を第一ヴァイオリンパートをフルートで演奏して見ていただくつもりです。

5人で合奏てきるものね。
1stヴァイオリンをフルートで。

アントニン ドボルザーク(1841-1904年)オーストリア帝国ネラフォゼヴェス生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国プラハ没

1870年ドボルザーク
宿屋と肉屋を営んでいた両親の元に生まれます。

父はツィターの名人で評判でした。伯父もトランペットの名手として知られていました。

6歳で小学校の校長ヨゼフ スピッツにバイオリンの手ほどきを受けると上達し8歳で村の教会の聖歌隊員。9歳でアマチュア楽団のバイオリン奏者となりました。

父は肉屋を継がせるつもりだったため、小学校を中退させ30km も離れた母方の伯父が住む街に修行に行かせました。ところが、職業専門学校の校長は肉屋の技術と共にドイツ語、指揮者も務めていて、ドヴォルザークにバイオリン、ビオラ、オルガンの演奏のみならず、和声学を始めとする音楽理論の基礎も教えました。

1855年ゼロチェに移って飲食店を始めた一家ですが、経済状況が悪化してアントニンに勉強を辞めさせようという時になって伯父が反対し、両親を説得。この伯父が経済的負担をするからと1857年にプラハのオルガン学校へ入学しました。

卒業後はゴムザーク1世の楽団にヴィオラ奏者として入団。ホテルやレストランで演奏を行っていました。

プラハ国民劇場
1862年国民劇場建設が始まり、そこの仮劇場のオーケストラのヴィオラ奏者となりました。

1866年指揮者にベトルジハ スメタナ

が迎えられ、その教えを直接受ける機会も出ます。

1865年金属細工商チェルマーク家の2人の娘の音楽教師となります。

チェルマーク姉妹立っているのがヨゼファ
女優でもあった姉ヨゼファに恋心を抱くも失恋します。

この頃から多くの作曲を行います。

1871年作曲に大きくの時間を当てるために、オーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにしました。
結局チェルマーク家の妹、アンナ チェルマーコヴァと再会し、1873年秋に結婚しました。

アンナ チェルマーコヴァ
プラハの聖ボイジェフ協会のオルガニストに就任します。楽団員よりも地位が向上し、年俸も保証され、新婚生活の経済状態を安定させることができました。

1874年交響曲第3番第4番他数曲をオーストリア政府の国家奨学金の審査に提出し認められました。その額は年収の2倍以上400グルテンでした。5年間受け取っています。

翌年には弦楽五重奏曲ト長調で芸術家協会賞を獲得しています。

審査員を務めていたブラームス

1866年ブラームス
はこの曲に目を留め、懇意にしていた出版社ジムロックに紹介します。

1877年次女ルジェナが、翌年9月に長女オタカルが相次いでこの世を去りました。彼女らの冥福を祈り、作曲されたのが「スターバトマーテル」でした。

一方、ジムロック社はブラームスの「ハンガリー舞曲集」に匹敵するような「スラブ舞曲集」の作曲をドボルザークに依頼します。
この曲集は大成功し、ドヴォルザークの名はヨーロッパ中に知れ渡りました。

1878年にはドレスデンで「いたずら農夫」というオペラを上演しますが、不評でした。
1884年ロンドンフィルハーモニック協会の招きでイギリスを訪問し、ロイヤルアルバートホール

で「スターバトマーテル」などの演奏を行いました。これは大成功でした。

イギリスとの関係は厚く生涯続き、9回も訪れています。

しかし、ジムロック社との関係は良くなく、交響曲7番には愛国的な感情を伺わせる作品でしたので、ドイツ語の「Anton」ではなく、チェコ語「Antonin」を想わせることができるように「Ant.」するようよう要求しています。しかし、ジムロック社はこれを取り上げませんでした。

1871年フリッツ ジムロック
1887年には「今は新作の構想はない」と言いながら、室内楽曲「ピアノ五重奏曲 第2番」を携えてベルリンのジムロックを訪れ、この作品を購入すること。そのスコアの表紙の作者の名前は「Ant.」とすることを要求し、承諾させました。

その後、ジムロック社には何曲か作品を購入させましたが、1890年交響曲第8番をジムロック社が買いたたこうとしたことで、ついに決裂。
ロンドンの出版社ノヴェロ社にこの新作交響曲を渡しました。

調度、国際的名声が高まりつつありながら、国内での扱いはまだそれには追いついていない時期の作品が「ピアノ五重奏曲 第2番」でした。

ドイツ風の構成にボヘミアの民族色を取り入れた作品です。

第1楽章 Allegro ma non tant
第2楽章 Dumka Andante con moto
第3楽章 Scherzo furiant.Molto vivace
第4楽章 Finale Allegro