音楽の喜び フルートとともに

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古都の作曲家

2023-08-25 21:00:00 | ルネッサンス
木曜日は京都今出川大宮の富久田治彦先生のレッスンでした。
近くには町家を改装した家がたくさん残っています。
曲はペリローのバラード。
9月9日〜10日の伊藤公一セミナーのマスタークラスをこの曲で受講するので、また引張り出して来てブラッシュアップ。
絞られた後、プティ ル メックでパンを買って帰りました。
出町柳駅近くのお店
かわいい

出町の柳

そして葵橋からみた出町橋。
ここで終わるかと思ったら、牧野着いて、しばらく歩いたところで、また大雨!
今回はスーツケースを濡らさないように傘をさして歩いたので、楽譜は大丈夫。
代わりに上着、スカートずぶ濡れ。
脱いで乾かそうかと椅子にかけたら大きな水たまりができた!
諦めて服着替えました。
1週間に2度も豪雨に会うなんて…
やっぱりニューノーマルか?!

ジョバンニ ダ パレストリーナ(1525-1594年)イタリア パレストリーナ生まれ、イタリア ローマ没
パレストリーナに生まれ、1537年サンタ マリア マジョーレ大聖堂


の聖歌隊に名前が載っています。
ピエルルイジが本名ですが、生まれた土地にちなんでパレストリーナと呼ばれています。

この時にローマに来たと思われます。
1544-1551年サンタ ガービタ大聖堂のオルガン奏者を務めます。
ミサ曲を出版します。イタリア半島初の出版となります。

1550年パレストリーナ教区の司教は後のローマ教皇ユリウス3世

となった人物でミサ曲集に良い印象を持っていて、教皇になった時にパレストリーナをジュリア聖歌隊の楽長を指す「マエストロ ディ カペッラ」に任命しました。

パウルス4世


の時代になると状況が変化します。
カトリック教会の改革を目指し、妻帯者であったパレストリーナは教義上の理由で解雇されました。
その後、15年ほど他の教会で楽長を務めました。
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂

サンタ マッジョーレ大聖堂

パウルス4世が亡くなると、1571年、サン・ピエトロ大聖堂

に呼び戻され、生涯そこで務めました。
1570年代の10年間に、身内に不幸が続きました。
1572年弟、1575年音楽家として成長していた2人の息子、そして、1580年妻をベストの大流行で失いました,
パルストリーナは落ち込み、一時は僧侶になることを考えました。

しかし、その後裕福な毛皮商人の未亡人と再婚しました。そのため、経済的な自立を得ることができ、亡くなるまで生活に困ることなく作曲し続けることができました。
1577年当時の教皇からグレゴリオ聖歌の改革を命じられます。
ローマで1594年に胸膜炎で亡くなりました。

「泉の水を求める鹿のように」(Sicut servus desiderat)
1564年に出版されたパレストリーナの最も人気のあるモテットです。
聖書の詩篇42 1-3

泉の水を求める鹿のように
わが魂は神なる御身を慕い求める