完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

持って行ってしまう・・・      ~笑福亭仁鶴逝去~

2021年08月21日 | 落語





私は中老男である。






最近、別サイトにてブログを始めたためにこのブログも

 

 

 

少々滞っていた。

 

 

 

 

そうしているうちに

 

 

 

千葉真一が亡くなり







今度は「笑福亭仁鶴」が亡くなった。







享年84歳とのこと。








芸人にとって(話芸を生業にしている人は特に)







自分を表現する技に疑問を抱いたら







舞台には立てまい。

 

 

 

仁鶴師匠も高座に上がらなかった主たる原因は





それだっただろう(体調不良はもちろんあるだろうけれど)







私の一番のお気に入りの落語家「桂枝雀」の本当のライバルは




たぶんこの「笑福亭仁鶴」だったとおもう。






枝雀が「笑い」を極限まで求めたことで

 

 

 

「時代を感じさせない」落語家であったように

 

 

 

伝統的な「時代と笑い」の融合に成功し

 

 

 

良い意味で「時代を感じさせた」落語家だったように思う。

 

 

 

枝雀と仁鶴。

 

 

 

すでに比較するには「恐れ多い」二人である。

 

 

しかし、この仁鶴逝去に当たり禁を犯すことにする。

 

 

 

私のライブラリーにある二人が演じている同じネタ






        「青菜」を

 

 

 

今回聞き比べてみた。





好きな枝雀だが・・・・

 

 

 

この噺ににおいては仁鶴の「青菜」には数段及ばない。

 

 

 

特に植木屋の主人公を誘いに来る大工の対応においては

 

 

 

仁鶴の大工の方が圧倒的に生き生きとしている。

 

 

 

植木屋が大工のことを「植木屋さん」と呼ぶのに対しても




「それヤメ!」のツッコミが仁鶴の方がメリハリが効いている。

 

 

 

植木屋がいよいよ大工に青菜をすすめる時に

 

 

 

「時に植木屋さん、青菜を食べてか」に対して




枝雀は「いらんいらん」とそっけない

 

 

対して仁鶴は

 

 

「わい青菜キライやねん」

 

 

当然稽古をつけてもらった師匠の教え方や受け取り方にもよるだろう。

 

 

しかし、表現だけではなく

 

 

仕草からその場の雰囲気において

 

 

枝雀はなんとなく現代に近く

 

 

仁鶴のそれは江戸ないし明治の雰囲気に感じる。

 

 

 

それは「笑い」を突き詰めることで時代背景をわざと表現しない枝雀と

 

 

 

古典としての「落語」の部分をより深く残した仁鶴の芸風の違いに

 

 

直結している気がする。

 

 

互いにテレビ時代の寵児であったふたりは

 

 

 

「精神を病んだ上での自殺」と「体の衰えによる大往生」という

 

 

 

まったく別の形で人生を終えた。

 

 

 

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。

 

 

 

これを読んでいる皆さんも「同じ時代を生きたこと」を感謝できる人が居ますように。

 

 

 

         May

 

 

 

芸人の逝去というのは、残念ながら「その芸そのもの」を持って行ってしまう。

 

 

 

今の時代「過去の記録」として残っているものが少なくないのは

 

 

 

ありがたくはあるけれど

 

 

「生の彼らの芸」がいかに凄みがあったかを二度と味わうことができない・・・。

 

 

 

合 掌

 

 

 

 

 

 

大変僭越ですが最近始めた「別サイトのブログ」のアドレスを記しておきます。

 

興味のある方はアクセスをお願いします。

 

中老男「Ⅿay」のブログ | 60歳を節目にブログを始めました。 (may-blog1961.com)

 

 

 

 

 

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なぜこんなに笑えるのか・・・。     ~夜明けに聞いた「百川」~

2020年11月19日 | 落語

私は初老男である。






様々な心乱れる事柄に流されている初老男である。






しかし、そうしたことをすべて飲み込んでの日常を過ごして行こうと思っている。








この歳になる睡眠が不安定になる。







変に目が冴えて眠れないのに、早くに目が覚めたり・・・・。








大きく朝寝坊してしまったり。








今週の初めに、朝方4時頃に目が覚めた。






真っ暗である。








眼を閉じるが・・・眠れない。








そうした時にはラジオのスイッチを入れる。







すると。








なつかしい声が聞こえてきた。









三遊亭圓生が「百川」を演っている。









実はこのCDは持っている。








最近は落語ディーパや落語会に行ったりで、CDを聴いていない。








噺は終盤。







田舎者の百兵衛が魚河岸の若い衆に使いに出されるところ。







なんとも「たまらく可笑しい」








百兵衛が若い衆に常磐津の師匠を呼びにやらされるシーン。







三遊亭圓生という人は、多人数の演じ分けが富にうまかった。







百兵衛は訛りがひどくて、簡単に演じ分けられると落語初心者は思うであろう。







しかし、その訛りが少しでも滞って聞こえると台無しなのである。







そのヒドイ訛りの百兵衛と相対する江戸っ子の河岸の若い衆を瞬時に演じ分けること。







これが「百川」の真骨頂だろう。







「ひ」が「し」と自然に発音してしまうくらいに圓生は江戸っ子を演じきっている。(実は大阪出身なんだな)






そこに大看板になるまでの彼の練られた芸の凄みを感じるのだ。







寝床の中でクスクス笑いながら、オチを聴く。







「全部じゃぁねぇたった一字だ」








もともと、この「百川」という話は一度くらい聴いても全く意味が分からない。








「四神剣」(しじんけん)がなんのことなのか?







それを百兵衛が「主人家」(しゅじんけ)を訛って言ってしまうことで、若い衆が聞き間違えるとか。






「今朝から魚河岸の若い衆が4、5人来てるから常磐津語りの女歌女文字(かめもじ)を呼んで来い」と言われたのを






「袈裟懸けに斬られた若い衆が4、5人いるから外科医の鴨池玄林(かもちげんりん)」を連れてくるとか







こうした言い回しや、言葉の意味はある程度聴き込んだり、調べたりしないと理解できないはずだ。








ただ、逆にそれらを調べると江戸時代から明治期かけての東京の風景・暮らし・人間の気質みたいなものが生き生きと感じられるのだ。








・・・・落語はいい・・・・。







今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも「楽しむ」ための努力を怠りませんように。








              May








落語で最初から「爆笑」したいなら・・・。まあ、やっぱり「桂枝雀の軽い噺(時うどん・八五郎坊主とか)」から始めることをおススメします。確実に笑えます。とにかく「笑わせる」ことを突き詰めた噺家さんですから。










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やっぱり、LIVEですね。その2     ~落語会はいい~!~

2020年11月07日 | 落語

私は初老男である。







初老を迎えたからだろうか?








寒さに鈍感になった。









これで冬も嫌いでなくなればよいのだが・・・・。











落語会の話。その2。












開場は大ホールだったが、ほぼ半分程度の定員なので400人くらいの入りだったろうか。










隙間なく入って400人位のホールは落語においては「大箱」の方だろう。









同じ人数でも「余白」が倍なのであるから、演じる方もある程度勝手が違っているはずだ。









それを踏まえて・・・。









まず三遊亭遊吉が「安兵衛狐」を演った。










実は彼のことを知らなかった。










プロフィールを見るとほぼ初老男と同世代。









落語家としては円熟に達する時期だ。











演目の「安兵衛狐」も、通して聴くのは初めて。(とおもったらどうやら内容は「天神山」と同じらしい)











三遊亭遊吉のプロフィールの続きに、コメントとして「どんなはなしも現代にわかりやすいように話す事、いろいろな落語をやってみたいと思います。」とある。












本人の言っている通り。非常に聴きやすい。マクラの振りから無理なく噺に入りスラスラと進む。










こうした古典落語は、当たり前であるがその当時のことを原体験している人が居るわけがない。









故に演じる方と聞く方とのイメージを共有できるかどうかがポイントになる。










そうした意味では少々軽すぎる気はする。










あとに出てくる小痴楽のためにサッと流した感もあるなぁ。










そして柳亭小痴楽。








演目は「佐々木裁き」










これは大ネタ。









この噺のポイントは当然、主役の白吉という小僧であろう。いかにこまっちゃくれてるて機転のきくところと、それに振り回される大人たち。








そして、佐々木信濃守。








ちょっと喰い足らなかったのは、この佐々木信濃守が「キキワケが良すぎる」感じだするのだ。







佐々木信濃守は何とか白吉を凹まそうとしながら、ヤキモキしながら逆にやられてしまう。









そんなところ「落語らしさ」があるのに・・・・。







以前の落語ディーパの時に彼のことを示したのだが、ちょっとイメージが変わった気がする。









ホールが大きいせいもあるだろう。声の通りがよく、若干話すスピードが遅くなっている。










もちろん、それは良いことだろう。







それが第二部のひざがわり(トリのすぐ前)でやった「一目上がり」(七福神)で際立っていた。







噺の中で掛け軸の目がどんどん上がっていくことで「縁起が良い」ということで、正月などに演じられる前座噺である。







彼はこうした話の方が、多分「練れている」のであろう。






与太郎と次々に現れる掛け軸自慢の大人たちが、見事に演じ分けられている。







これからも「江戸の粋」ってやつを益々磨いてほしいなぁ。







そして、トリが遊吉。







得意の「猫の災難」







酒好きの男が酒を全部飲んでしまったことの言い訳を猫のせいにするという話。







そうした意味で、やはり噺家にもいろんなタイプがいることを思い知らされた。







この三遊亭游吉という噺家は、ある意味「爆笑」をとるべきことを、はじめからあまり重要と思っていない気がするのだ。








語り部としての噺家に徹することに存在理由を見出しているように見える。











「爆笑を取る」だけが、落語家ではないのだ。という彼の心の声が聞こえてくるようだった。









今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、LIVEの面白さに感激しますように。








            May






落語の面白さは、やっぱりある程度「知識を持って」聞かないと楽しめない!特に今回思い知りました。

















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やっぱり「LIVE」ですな。その1     ~落語会に行ってきた~

2020年11月01日 | 落語






私は初老男である。









なんとLIVEの落語会に行けたのである。









こうした田舎では珍しい。










出演は








           できたくん(発泡スチロール切り絵)

             



                三遊亭美よし             




                 柳亭小痴楽




                 三遊亭游吉









当たり前であるが「芸能」というのは見る人あってのものである。











とくに落語などの場合、その場の客がどうした反応をするかによって出来がかなり変わってくる。












今回もそうだったのだが、演じている中でちょっとした「クスグリ」を入れたりするのがある意味落語家の真骨頂でもある。











まず、前座









                   三遊亭美よし








女流落語家の前座さん。










演目は「転失気」











みたところ20代後半から30代前半といったところか。










前座の噺家の典型的な出来である。











こうした前座話でも、弄り方によっては随分おもしろい出来にできるはずである。










しかし、当然それを師匠が許すはずがない。(ちなみに師匠は後出の三遊亭游吉)










女流落語家は残念ながら、私の知る限り大成した噺家はいない。










だからこそ挑戦する人が絶えないのであろうけれど。











落語家のむずかしいところは、どうあがいても持って生まれた「フラ」(おかしみ)に敵わない部分があるということ。









これはなかなか言葉では言い表せない。










三遊亭美よしは、まじめに修業しているし本人が言っているように充分に女性として整っている。









それが落語家としてやっていくのに、プラスにばかりなるかどうか・・・・。









頑張ってほしいものである。










色物としての「できたくん」切り紙でなく発泡スチロール切芸。










こうした状況の中では芸に生きていくのは大変だろうと思う。










お笑いやこうした芸能の世界に生きる人間にとって、こうした状況は「最悪」である。








そうした人たちの一番の補完職である「飲食店のアルバイト」がやりにくくなっているのだから。











こうした芸は、いかに話芸で「盛り上げるか」がポイントになるのであるが・・・・。










今のこの状況ではなかなかむずかしい。









頑張ってほしいものだ。










文字数が多くなりすぎた。









落語家の二人については、その2に続きます。









今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、ちょっとしたイベントで調子を取り戻しますように。








           May









普通の勤め人と違う世界のむずかしさをヒシヒシと感じるねぇ・・・・。









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やっぱり、私はエラかった。    ~落語ディーパ「長屋の花見」を聴いて~

2020年09月24日 | 落語





私は初老男である。





自分はひょっとしてエライのかもしれない・・・って、思っていたのだが。







本当に「エライ!」ということを思い知った。









その理由は後記。









毎度おなじみの「落語ディーパ」である。








通常収録が滞っているのかスペシャルが続く。








春風亭一之輔演じる「長屋の花見」








いい出来!








やはり、一之輔の本領はコッチにあるのだろう。









真に「古典落語」の落とし噺の方に彼の軸がある気がする。








後半の柳家わさびとの対談でも「コッチ側」と認めている。







小痴楽の時に話した通りなのだが、一之輔の与太郎はとても際立っている。










それは「ゆっくり」しゃべっているからだ。













残念ながら他のキャラクターの演じ分けが少々荒いですけどね・・・。








一之輔はすでに当代では「人気者」であり、それに見合っただけに実力は備わっているだろう。








しかし、これから「大看板」になるにはこの「キャラクターの演じ分け」がもう少しって感じ。









こうしてみると、落語家のピークはやはり50代ではないかと思う。










悪い癖と思いながら引き合いに出してしまう。








「五人回し」という廓噺がある。








三遊亭圓生がこの噺を得意としていたのだが、廓の客5人を見事に演じ分けている。










一之輔ならやれるだろう。楽しみだ。










さて、私が「エラクなったこと」の理由であるが。









先に出した柳家わさびと一之輔のショート対談が番組の後半であった。









その時に少々驚かされたのだ。










柳家わさびが一之輔に「それなりのお金が入ってきたら、貧乏噺がやりにくいのでは」とか。








「結婚してない自分が夫婦噺をしては?」とか。









「歯科矯正していては古典落語の信憑性が薄くなるのでは?」とか・・・・。









尋ねていたのだ。










いかになったばかりとは言え「真打」である。










そんなことは当然知っている(覚悟している)ものだと思っていた。












しかし、さすが一之輔が「それを感じさせないのが『腕』」と答えていた。











お客と自分(落語家)両方の想像力が同じ景色を見せるのだと。













あぁ。だからわさびは「八人芸」みたいな「死神」になったんだ・・・。








そんな風に思ってしまったのは、私がそのことを知っているからだと。








つまり「落語」に関してはそのことを知っている私は「エライ」ってことを自覚したんだよね。











今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、落語においては見た目や姿は大したファクターではないことを知りますように。






             May






当たり前だけれど、わさびのやった八人芸と圓生の五人の演じ分けは「全く」違うモノですからね。それは聴いて見なければ分からない。いや、聴き分ける力がないと分からないだろうなぁ。
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すいません。エラソウです。    ~落語ディーパ「ぞおん」を聴いて~

2020年09月20日 | 落語



私は初老男である。





こうなるとやっぱりUpせねばならない気になってきた。






落語ディーパである。







通常放送を見逃してしまい今日の再放送で立川吉笑の「ぞおん」を聴いた。










そうしてみると落語ディーパのレギュラーの若手3人はたしかに毛色が全く違う。








この「立川」を名乗る若手は、新作落語を得意として以前の二人と違う道を行っている。












今回の「ぞおん」は・・・・。









良い出来だったと思う。








普段は標準語で話す吉笑が関西弁になっている。








彼自身が京都の出身だし、舞台が江戸時代の大店である。








こんな噺のときは関西弁の方がハマっている。









サゲも悪くない。









ただ。







ただ・・・・。









噺を演じる「力」が足りない。










だいたい、落語家の「キャリアの差」が一番出るのはどこだろうか?










私には「声の大きさ」と「しゃべるスピード」だと思えるのだ。










若手はどうしても声が「必要以上に」大きくなる。









それによって「抑揚」が効きにくくなる。










不安なのか「早口」にもなる。











そのため「滑舌」も悪くなる。















だから、なお噺の芯が伝わりにくくなってしまう。










この噺をもう少しキャリアのある中堅、ないし大名跡が演じればもっとウケたはずだ。









特に終盤。









サゲの時に「定吉、それな。・・・ぴぁ・ぴぁゆうてなにいってるか ぜんぜん ききとれ へんわ」くらいゆっくりでないとオチない。









ゆっくりサゲて、お客の笑い声をしっかり聞きながら一拍置いて下げた頭を上げてちょうどよい。









さらに、サゲの後「ヤレヤレ」って顔をしてはいけない。








舞台を降りて姿がお客から見えなくなるまで「演じ」なければ・・・・。










お客はそれをちゃんと見ている。











結局、前の若手二人と同じことを言うことになってしまう。












彼の20年後の「ぞおん」を聴いてみたい。









今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、落語家の成長を楽しみにしますように。









              May






番組終盤で出ていた新作落語「万引き」であろうとも、枝雀レベルになれば少しも「違和感なく」笑えるようになるのが落語というものだ。それにはとてつもない「精進」が必要だろうけれど・・・・。











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ついに本当にエラソウに・・・?     ~落語ディーパ「居残り佐平次」を聴いて~

2020年09月15日 | 落語



私は初老男である。






順番が逆になってしまったのだが。







落語ディーパの特別編の最初は「居残り佐平次」だった。








演じたのは春風亭一之輔。








「居残り佐平次」と言えば、廓噺の名作にして代表作。








先回のUpでも記した通り、廓のことなど本当に知っている人間はほぼ生きていない。










だから、演じる人間も聴いている人間も、本当のことなど分かるはずがない。










そうした中で互いのイメージが共有でき瞬間があるのが落語の醍醐味だ。











春風亭一之輔という落語家は、王道の落語家になりつつある。








メディアへの露出もとみに目立つ。










結局のところ落語家というのは、そのパーソナリティーをいかに多くの人に知らしめることが仕事の半分であろう。(自己プロデュースってやつね)












余程のモノ好きでもない限り、知りもしない落語家の噺をわざわざ聴きに行ったりはしないのだから。











王道の噺家の証拠に、自分の子どもを持ったことでの原体験としての「初天神」などのとても良い出来だし。








そのことを踏まえて・・・・。








今回もかなりいい出来だったと思うのだが・・・。









一之輔の実力から言えばってことで「エラソウ」に言っちゃいます。









彼のイメージしている「佐平次」という男が、まだ固まっていないのではないだろうか?











というか、今の一之輔はこういう佐平次を演じるのが正解とおもっている?











だとするならば彼にもまだまだ先がある。











もちろん、噺家には師匠が居て稽古をつけてもらい噺を確立させていく。









そこに何かを付けたしたり、削ってみたり。









そんなことの繰り返しが続いているはずだ。








落語を聴いている人には「そんなことは気にしない」って人もいるかもしれないが、彼の「佐平次」での仲間から集めるお金が「1円」と言っていたと思う。










そうした金額を集めた時代の男が「拳銃で若い衆を打つマネ」をするだろうか?









このクスグリで私は一気に冷めてしまった。








もしかしたら、おかしくないのかもしれない。









しかし、遊郭(たぶん吉原)で花魁がいた時代に「バンバン」はないだろうって思ってしまった。










それさえもおかしく感じさせない位引き込んでくれればいいのだけれど。(あれ、どこかで同じようなことを書いたような・・・・)








この噺の芯の部分は「佐平次」という男の「したたかさ」をいかに描くかにあると思う。








前半は「情けなさ」や「ひょうきんさ・如才なさ」が前面に出る。










しかし、佐平次の最終盤の「したたかさ」によってオチで生かされることになる。









一之輔の終盤にはその「したたかさ」が薄かった気がするのだ。









一之輔の持っている「洒脱さ」が良い方向に作用して、ストンと「あなたの頭がゴマ塩でございます」のセリフが聞けるようになることを期待している。








今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも「廓」があった時代の空気感を味わいますように。









                 May






やっぱり、オチにつながる廓の主人のセリフ「どこまで私をおこわにかける」の意味が分からないと噺を楽しむことができないだろうなぁ。










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さらにエラソウになっちゃった?     ~落語ディーパ「死神」を聴いて~

2020年09月13日 | 落語



私は初老男である。







やはり、人間には「波」があるようだ。






今の私には「落語の波」がきている。








気が付くとまた、落語ディーパを見ている。








特別編としての「死神」







演じるは柳家わさび。







一之輔が、この「死神」を演じるには彼がピッタリと言っていたが・・・・。







ちょっと何を言っているのかわからない。








落語は「面白おかしい」ものである。







それは間違いはない。






しかし、逆に「良くわからない噺」も少なくない。







「死神」も笑えるタイプの噺とは思えない。







故に「むずかしい噺」とも言える。








実は今「死神」は、私が初めて買った落語カセットである。








演じたのは三遊亭圓生。








高校生くらいの時だった。








落語の醍醐味でもあるのだが・・・・。








その噺を最初に聞いたのが「いつ・どこの・だれが演じたモノであるか」が非常に大事になる。








なぜなら、それを基準として同じ噺を聴くことになるからだ。








高校生の時に聞いた圓生の「死神」は、それほど「おもしろい」とは思わなかった。








しかし、おもしろいとあまり思わないのに「ひきつける力」は半端なかった。









そうした意味において、柳家わさびには酷だったかもしれない。









当たり前であるが、古典落語の世界は江戸時代から明治あたりが舞台になる。








当然、時が経てば経つほどその当時のことは「想像」になる。







演じる方も聴く方も。








その想像による解釈に、私のような初老男はついつい違和感を感じる時がある。






それが「落語」であるって思えればいいのだけれど。








その違和感さえ、力尽くで抑え込んでくれるような落語を聞かせてもらえないと・・・・許せないなぁ。









話が飛んでしまって申し訳ないが「寄席芸人伝」(古谷満敏著)という古いマンガがある。









その中に「八人芸」という芸があったことが書かれている。







マンガの中で「つまらない芸」と称されているのだが、私は見たことがない。







柳家わさびの「死神」は、その見たことのない「八人芸」に見えた。








そんな八人芸もどきをやらなくても、噺のおもしろさを伝えることはできるはずだ。








それができるようにならねば真打の名が泣くというモノだ。







彼はまだ若い。昨年真打になったばかりだ。








本人が言っていたように、この噺は「笑い」を求めるものでは無く「人間の生き死に」を際立たせることが噺の主であろう。







彼の今の若さで演じた「死神」は、やはりまだまだ「完成された」とは思えない。








20年後の彼の「死神」を楽しみにしよう。







今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、落語家がいかに成長していくかを目の当たりにしますように。










                May








「死神」のハイライトは、ラストであろう。最後の「倒れ方」にある。それまでの流れの中がどうであるかも当然大切なのだが・・・・。彼の倒れ方は、やはりちょっと勢いがありすぎるんじゃないかなぁ。








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エラソウになっちゃったかなぁ・・・。   ~落語ディーパ「大工調べ」を聴いて~

2020年09月08日 | 落語







私は初老男である。






この歳になって、自分が「エラソウ」になってしまったのかなぁ・・・・。







って思うことが多い。









そう思いながら記すのだが・・・。









先日、不定期に放送される某国営放送局の「落語ディーパ」なる番組で特別編が放送された。









一席まるまるを放送するという。









「大工調べ」である。









演じるのは柳亭小痴楽。










私から見ればかなりの「若手」に見える。











調べると31歳。昨年真打になったばかりとのこと。











まずはとにかく聴いて見ることに。










早い。









喋りが早すぎて、よく聞き取れない。










私の歳のせいはあるのだろうが、この速さで江戸っ子のセリフをしゃべられると細かいところは聞き取れなかった。











収録時間の関係もあるのだろうか?










他の噺家のモノを聴き込んでいるので、たぶんそういっているのだろうと思って聞いたが。










落語も時代によって変化するのは当然のこと。










今の時代においては、このペースが正解なのかもしれない。









ただ、この速さでしゃべると与太郎が与太郎っぽくない。










与太郎ってゆっくりしゃべってボケないと。











そして、やっぱり演じている小痴楽自身が若い。










良い意味でも悪い意味でも「若い落語家のエネルギッシュさ」が溢れた落語だった。










小痴楽も最後に言っていたが







          「大工調べ『序』でございます」






                              と。









この噺は、この後棟梁が奉行所へ訴え出て大家との白黒をつけるところまで行く。











その間の奉行と与太郎のやり取り、そして棟梁のヤキモキからサゲの奉行の裁き。












私はその最後までの噺を「古今亭志ん朝版」で聞き込んでいる。












生まれながらの江戸っ子であり、その聞き取りやすいしゃべり口は「絶品」である。











そうした意味で、小痴楽の20年後の「大工調べ」を聴いてみたい。













落語はたのしい!












今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも「比べること」の楽しさを知りますように。









                   May








落語には最後まで行かず、途中で切るのが当たり前になっている噺も少ないくない。「替り目」なんて最後まで聴かないとなぜその題名になったかが分からない。

これは桂枝雀のモノが絶品。酔っぱらいをやらせると枝雀はすごい。









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こんな時は「落語」を聴こう。     ~江戸落語と上方落語~

2020年03月20日 | 落語


私は初老男である。



こんなご時世である。




書きたいことは山ほどあるのだが、ひねくれ者を自認する初老男はあえて申すまい。





一息ついたら思い切りUpしようと思っている。







前回に続き落語の話。






先日の予告の通り「あの」落語ディーパが放送された。






そう「あの」東出昌大がMCである。






演目は「愛宕山」








番組では、関西の若手桂吉坊を迎えての「江戸落語と上方落語」の比較をしていた。






だいたい「愛宕山」とは京都にあるという。





上方落語の演目を江戸に移植したもので、良く聞けば江戸落語の話の方に無理が多い。





しかし、落語である。




無理も無茶もありはしない。





実は私が三遊亭志ん朝の落語を初めて聞いたのが、この「愛宕山」なのである。






番組でもその映像が流れていた。





落語という芸能は、予備知識を持たずに聴いてももちろん楽しめるのだが基本となるモノを持っていた方が数倍面白く楽しめる。





演目によっては「オチの意味」が分からなかったりする。





そうした意味で基本となる「志ん朝の愛宕山」を知っていたのは幸運だった。





この番組でほかに流された映像は「桂枝雀」「桂文枝(五代目)」話としては米朝・文楽のことが出てくる。




一之輔と吉坊の「仕草比べ」もでてくる。




やっぱり、この番組は落語好きにはたまらない。





そうこうしているうちに数日後の話。




Eテレ日曜日午後に「日本の話芸」なる番組に桂南光の「三枚起請」が放送された。






この話も「大ネタ」である。





同じく志ん朝のこのネタを、私は「飽きるほど」聞いている。






桂南光といえば、上方落語の伝説桂米朝の弟子、枝雀の弟子である。





本格的に彼の落語を聞くのは初めてと言っていい。






その語り口は師匠の枝雀より、大師匠の米朝に似ている。






聞き終わって思う。






そうか。そういうことだったのか。







南光の「三枚起請」は、本人の歳のせいか米朝ほどの重みがまだない。






落語のことだから「ネタバレ」になってもかまわないだろうけれど。






志ん朝というより、江戸落語ではサゲは花魁の喜瀬川のタンカで終わる。










         「勤めの身だもの、朝寝がしたいよ」






しかも、不世出の江戸っ子落語家という志ん朝のこのサゲは見事である。





南光のそれと比べて志ん朝の落語は抑揚が利いて、いかにの江戸っ子たちの心意気が現れている。





そして、南光のサゲ





           「俺だけは、小照を信じてる」



このサゲは初めて聞いた。





同じ話でありながら、全く違う話に聞こえた。





落語というモノのあり方が、上方と江戸だいぶ違っていたのだろう。





大坂は庶民の街、江戸は武士の街って言うからなぁ。





今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、落語の楽しさを理解しますように。





          May




しかし、今更ながら桂枝雀という人の「笑い」を突き詰めた芸の凄みを再確認させられましたな。

上方・江戸の土地の違いなど吹き飛ばすほど「笑い」だけを追求していたんだなぁと何度聞いても思うもの・・・。










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