完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

どこに行こうとしているのか・・・。     ~春の農作業に思う~

2014年05月26日 | Weblog
私は初老男である。


・・・日本一の米処である我地域は、この時期は忙しない。


初老男としては、すっかり「うんざり」している。




どこかでUpしたことがあっただろうか?



日本の稲作は遠くない将来に、一度「クラッシュ」するであろうことを。



農業に関係ない皆さんも、何となく分かっているのではないだろうか。



ほかの産業以上に、日本の農業というのは「歪」な形をしている。



様々な要因はあるだろうけれど、驚異的な経済成長を遂げることにより立国としての基本である「農業」の発展をいい加減にしてしまった気配がある。


結局の所「政治が悪い」といってしまえばそれまでなのだが。



日本人は、特に「米」というモノに太古の昔から神聖な意識を持っていた。


その中で経済と農業(稲作)というモノが、現実には「共存しない」ことを知っていたはずである。



しかしながら、政治家も国民も「見て見ぬ振り」をしていた感がある。





しばらく、Upが滞った。・・・・まあ、いつものことだ。



実は「田植え」で忙しかったのだ。



今年の田植えも無事終わってホッとしている。



ホッとはするのだが・・・。



それは、これから9月半ばの収穫(稲刈り)までの「気の抜けない」期間を過ごさなければならないことを意味する。



今年から、稲作における「生産調整」(減反政策・・・つまりを稲を植えない田圃を一定量強要する政策)の補助金が「半額」になる。


これから5年をかけて補助金は「廃止」されるという。


これを私は


       「コシヒカリを好きなように作ってよい」

                      
                         と言う意味にとった。



しかし、そうではなかった。



生産調整を行い、米の自給に責任を持つのは「国の責任」だと思っていたのだが、どうやら様々な「面倒なこと」から手を引き、圧力団体である「JA」(農協)におっ被せてしまうつもりなのだ。


だから、今年のJAの地域懇談会で、担当の職員が「どうにもならない・・・」といった表情で私の質問に答えていたっけ。


こうした「バラマキ」を繰り返してきたのは、多分に「政治的」な意味が大きかった。


農民の票を繋ぎとめるための物であったといえる。


55年体制における「農民票」は、時の与党・自民党にとっては確実に「読める票」だった。


しかし、ついに安倍政権は集票システムとしての「農民票」を見捨てた。



日本の稲作農家が「クラッシュする」というのは米の生産量が減るとか、自給率が落ちるという意味ではない。



今日も、83になる親父と話をして思った。



彼の思っている「農家・農業」というものと、私の思っているそれとはあまりにかけ離れてしまった。



牛・馬を飼うことが稲作農業の始まりで、政府と言うものが「お上」であり、嫁や子どもに罵声を浴びせながら作業をすることが「百姓」であると思っている昭和一桁世代。


30m×100mの区画された田圃に、エンジンを積んだトラクター・田植え機を駆使して政治・経済状況の知識を備えねばならない「農業経営者」である戦後世代。



・・・さんざん時間と文字数をかけたが、結局まとまらない。



ただ、今日も一日中田圃の「草刈」をして、そのうちでも近くの親父さんに「文句」を言われ、腰や右腕の感覚がなくなってへとへとになる。



しかし、月曜日からの「勤務」は待ってはくれない。


なんでこんなことをやっているんだろう・・・?


ほぼ9月の半ばまで、土日はこんな風で終わる。


初老男の頭の中は、どうやってこの「稲作農家を止めるか」と言うことだけだ。



今回も最後までお付き合いいただきありがとう。こんな支離滅裂な話を最後まで読んでくださった方に、本当に感謝。



                 May




ブログと言うのは、やはりあまりに身近なことはUpしてはいけないんだな。





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特別なことではないんだね・・・       ~韓国の続く「事故(?)」~

2014年05月06日 | 時事ネタ
私は初老男である。


東アジアの近隣国の話は以前からも何度かUpしている。


そして、続けてそれらについて調べている。



数回前にも日本滞在の韓国人を集めてのテレビ番組を、やめた方がいいってUpしたところだ。



その韓国での「海難事故」は、もう説明の必要はない。


今回のことで、一般の人たちは「憤慨」を隠さないであろう。


それは私も同じである。




しかし、それなりに東アジアの事を調べた者としては・・・。


      
         「やっぱりね・・・」


と言う感じである。




         「三つ子の魂百までも」


と言うことわざ(?)がある。


これは「双子」と同じ意味の「三つ子」ではなく「三歳児」と言う意味で、三歳児の時の意識は「百歳」になっても変わらない、と言う意味だ。


今回のことのには、このことわざの意味が2つの意味で証明されている。



まず、その1


韓国は「儒教」の国である。


儒教とは・・・。とても簡単に説明できないが、この場合「上下関係」が徹底している程の意味。


目上の人と一緒に酒を飲むなんてのも、基本的にはNG。脇を向いてそっと飲まなければならないって聞いたことがある。


基本的に親や目上の人、上司、教師などから言われたことに逆らってはいけないである。


そう、船内で「その場を絶対動かないでください」ってアナウンスを守ったのはこの意識のせいであるのは容易に想像できる。



その2


韓国においては、その儒教精神とまったく逆の精神。


他人を蹴落とすこと。自分の事しか考えないこと。利己主義(エゴイズム)の蔓延。


そう、今回の事故で一番最初に「救助」された船長。



この非常に矛盾する意識が韓国国民全体に共存しているから、われわれ日本人には理解できないことが多い。



自分のことは「棚」にあげて、日本に対して「謝罪しろ!」「賠償しろ!」のオンパレードである。


それも、根拠があやふやなものも少なくない。(と私には思える)




かなり前の話だが、韓国の有名デパート「三豊百貨店の崩落事故」は衝撃だった。


当時私は24歳(1995年)、少なくとも日本ではありえない人災だということだけは分かった。



ちょっと考えてみて欲しい。


日本において松坂屋・伊勢丹クラスのデパートが、ある日突然「営業中に崩壊」するのである。


それは、われわれ日本人においては「宇宙人が攻めてくる」くらいにありえないことだ。


しかし、韓国においてはちょっと大きな「台風」くらいの感覚で起こりうる。(デパート崩落と言う意味でなく、今回の海難事故・地下鉄事故などの人的災害と言う意味で)



思うに、日本における「地震」に近い感覚でなかろうか・・・・?


ただ、それが「自然現象」であるか、分かりやすい「人災」であるかの違いだろう。



「自然現象」であれば、世界中の人々は同情もしてくれるし援助もしれくれる。


だが、人災。しかも自国の「政・官・経」の癒着と、国民性が原因となれば、同情はするが、どこかに「自業自得だろ・・・」という雰囲気が漂う。


しかも、日本ほかの国々が支援(救援)を申し出ているのを朴オバサンは・・・・断っちゃうし。



日本の海難救急は「海猿」と呼ばれる。


映画で有名になったから、分かっている人も多いと思う。


しかし、あの映画は現実の海難救助隊の訓練から見れば、ずいぶん甘いのだそうだ。


現実の救助隊は「あんなもんじゃ無い」らしい。


その海猿が出動していたら・・・・。佐世保港では完全に出動態勢が整っていたっていうのに。



・・・文字数も多くなってきたので先を急ごう。


そろそろ賢明な貴兄は、気が付いてきていると思う。



今回の韓国で起きている「人災」は、結局すべて「韓国の文化・国民性」が引き起こしているものだ。


東アジアで隣国であるから、親近感やアジアの仲間意識を欧米諸国より持っていても仕方は無い。


しかし、日本人のような「利他主義」(利己主義の逆、他人のために自分を犠牲にする感覚)を持っているのは、アジアではどころか世界的にも「まれ」だということを自覚してい良いし、そのことを誇ってよい。


そして、他国との付き合いにおいては民間レベル・個人レベルでは「利他主義」を貫くべきだろう。


だが、外交レベルでは、そうした「他国のいい加減さ」を認識・考慮して付き合わないとトンデモナイことになる。


残念ながら、韓国と言う国の「安全性」が日本並みになるには、全国民が本気で取り組んで100年はかかるだろう。


この結論は決して彼の国をバカにして導き出したものではない。


初老男が経験から「人間の性」を考えての結果だ。


今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんは、日本と言う国に生まれたことを限りなく「幸福」と感じますように。



            May



人間の命が「軽い」国は、本当に怖いね。「命」より「金」の方が大事なんだもん、あの国は。
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どこまでも曖昧になる「境界線」       ~教師における「入学式」~

2014年05月03日 | 時事ネタ
私は初老男である。


関東地方の「桜」は、もう散ってしまっただろうね。


豪雪地帯のわが地域は、今日つぼみが膨らみ始めたところでね。


それでも、わたしの子どもの頃はGW(ゴールデンウィーク)の頃が桜の見ごろだった。


これも温暖化の影響だろうか?



さて、少し前の話。



学校の先生が、自分の子どもの入学式に出席するために、勤務している学校の入学式を「欠席」したことがニュースで報じられていた。



・・・ついに、こうした問題が「表面化」したかと、初老男は感慨深い。




私が「初老男」を名乗っていることを認識している読者の皆さんは、もう想像がつくだろうけれど・・・。



私は「そのこと」を非難するつもりはない。


わたしの周りの人に聞いても「賛否両論」であり、当然どちらが正解でどちらが不正解などと言えるものではない。


実際こうした問題は、思うにかなり昔からあったはずだ。


ただ「表」に出てこなかっただけだろう。


つまり、あったにせよ、それほどの「数」ではなかったと推察する。



逆に言えば「大した数」でないものは、あまり表に出すべきではないのだ。


そんな風に初老男は思う。






・・・・気が付けば2週間近くも間が開いてしまった。


ちょっとしたことで、人間というのは「逸脱」してしまう。


まあ、それほどのものではないがキーボードを叩くことをやらない日はない。


しかし、個人的なことではマウスを動かしクリックするだけという日が続いていたのである。



こうして間が空いた時の「定番の言い訳」・・・言いたいこと、Upしたいことはたくさんあったのだ。


ただ、緊迫感も切迫感もない。


アクセス数は、ありがたいことに毎日変わらないどころかUPを続けている時より多いくらいだ。(読者貴兄に感謝)



まあ、そんな言い訳は終わりにしてUpを続けよう。



先生が自分の子供の入学式に出席して、自分の勤務する学校の入学式に出席しないという行為。



「教師」という職業の位置が今の日本において言えば10年どころか、5年前とさえずいぶん変わってきている。


だから、私がここに記することは当然わたしの感覚だから、今の一般の人たちと違うかもしれない。


そのことを前提に、これ以降は読んでほしい。


私はその職業において、地位において「仕事」より「プライベート」を優先した場合、そうした「家族の絆」のようなものを手にした代わりに「同等の何かを失う」と思った方がよい。


初老男になってからの一番の教訓がこれである。


人生においての、自分が気が付かない部分で「失っているもの」は少ないない。


ただ、教師という職業の人はプライベートを優先した場合「親からの信頼」を少なからず失ったと考えるべきだろう。


わたしは、自分の担任するクラスの親と初めて会う機会をプライベートのことで逃す先生を「信頼する」ことはできない。


残念ながら、そのクラスを担任する1年ないしそれ以上の間には、様々なことが起きるであろう。


緊迫した状況にならなければ幸い。


かなり緊迫した状況に遭遇したすることもあるだろう。



そうしたときに、こどもはともかく、親は「この先生は自分のクラスの入学式にもいなかったくせに」と思わないだろうか?


私は真っ先にそう思うタイプである。





時代は変わっている。


私のような古い感覚の親は「多くない」かもしれない。


しかし、人間なんて悲しいかな「感情」で生きている。


だから、自分のことは棚に上げて「この先生は、自分のクラスの入学式に出なかった」ってことに拘るだろう。



私の世代の人間は、そう考える人の方が多い。





「先生」という職業は「聖職」であるといわれ尊敬(?)されるのは、そうした部分があるからだと私は思う。


・・・あくまで初老男の感覚です。




今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、世の中は理不尽な「感情」というものでできていることを理解しますように。



        May



まあ、私の知っている教師という職業のイメージからは、今の教師たちはズレまくってしまってるだろうけれど。





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