完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

週末の酒(番外編)

2006年04月30日 | 
私は中年である。
「残雪と桜」が同居する雪国の春である。
そんな中、ゴールデンウィークに突入するのが
あまりうれしくない中年である。

さて、先日のブログで予告したように
「週末の酒(番外編)」をUpしようと思う。

何故に「番外編」なのかといえば、実は金曜日に
職場の歓迎会があって、自分の思っていた酒を
飲む「週末の酒」にならなかったのだ。

そこで、週の真ん中水曜日に休みをもらった時の、
前日(つまり火曜の夜)の酒をUpしようと思う。

ブログの内容を「カテゴリー」で分けるのは、読む側と
すると、便利で読み易いのだろうが、Upするほうとしては
どちらに入れたらよいか迷うことが多々ある。

今回のこのUpも「週末の酒」のタイトルをつけなければ
(本)のカテゴリーに入っていただろう。
それも、おいおいあきらかにしていくが・・・。

火曜の夜にブログをUpしながら飲んでいたのは、

    ジム・ビームの「バーボン・ソーダ」

                  であった。

バーボンのことは、このシリーズの(1)でUpしたので
覚えている人もいると思うが、私のお気に入りは
「メーカーズ・マーク」だ。水割りで飲むには未だに
この酒が私にとっての「基本」になっている。

今回「ジム・ビーム」になったには理由がある。
先日、古い文庫本を読み返したのだが、その中に
バーボン・ソーダのことが詳しく載っていた。

本の名は「図解ミステリー読本・酒口風太郎著(桜井一・画)」
である。光文社の知恵の森文庫なので、今では簡単に
手に入らない。

内容は、著者の酒口氏(実は画の桜井一氏と同一人物)の
こだわりの品々をイラストと小文で纏め上げたものだ。
著者が「雑貨品店」を開店して、お客を相手にしてるという設定。

武器から金庫、トランプ、ジッポー、果ては死刑台なんて
物まで取り扱っている。こうした「雑学」的なことが
私は大好きだ。

そして、こうした雑学も単純な知識ではなく、歳を重ねることで
自分の中で発酵し「こだわり付きの知恵」みたいなものに
なっていけば楽しいではないか。(最近は「薀蓄」なんて
呼ぶのかもしれない)

ジム・ビームのHPにあった謳い文句は

「世界で最も親しまれているNo.1セラーのバーボン。
 時間と手間を惜しまない作業から生まれたその味わいは、
 たいへんマイルドで飲みやすくなっています。」

となっている。事実、バーボン入門には最適といって
よいと思う。しかし、個性派を求める私としては余りに
素直すぎる感がある。

この本の出版が2000年の12月15日初版となっている。
ということは最低5年は経っている訳だが、情け無いことに
重要な部分を読み落としていた。

著者の酒口氏が、この本の出版の前年1999年11月18日に
逝去されていたのだ。享年56歳。まだ早すぎるといえるだろう。
なんとはなしに著者の「想い」みたいな物に惹かれて
「ジム・ビームのバーボン・ソーダ」を飲る気になったのだ。

つまみは、ビーフジャーキー。あまり塩味の強くないものが良い。

ウィスキー・ソーダ共に冷蔵庫で冷やし、2:1で割る。
氷は入れないこと。(解けてくると味が薄くなってしまう、
これは水割りの時と同じ)

カップはアルミのコーヒーカップ。あまり大きなものだと
炭酸が抜けやすいので注意。

ジム・ビームの味わいは、そのクセのなさがソーダと良く合う。

メーカーズ・マークでも試してみたが、水割りで生きるその
「コク」がソーダ割では、ひっかかる感じでスムーズでない。

やはり、ビームの方がソーダに合うようだ。

この本を買って初めて読んだ時も、このバーボン・ソーダを
作って飲んだはずなのだが、あまりおいしいと思った記憶がない。
酒と同じで、男もそれを味わうための「時間」が必要なのだろう。

作家は死して「文」を残す。そして、その「文」から
「精神・想い」を読む側が受け取らなければ
失礼というものだろう。

こうして、時を紡いでいくことの重さをヒシヒシと感じる
「中年」のこのごろである。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなに幸福が訪れますように。   
最近、文が長くなりすぎている気がする・・・。   may




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固い話ばっかりじゃ・・・。(炒飯しっとり編)

2006年04月27日 | 料理
私は中年である。
世間は、次々に「事件」がおきるので
ゆっくりした内容のブログをUpしたいのだが
ついつい「時事ネタ」に走ってしまいがちの中年である。

さて、先日料理にことについてUpしたが、
内容は「かなり」大雑把だったことを確認しておきたい。
あの内容は基本的な部分であり、個々のやり方が
確立してくれば、全く基本を外れてしまってかまわない。

というか、そうした部分がある程度でてこないと
個性の無い「面白味のない」ただ「おいしい」だけの
料理になってしまう。

メチャクチャのことをやってみたり、失敗したつもりが
思わぬオイシさにつながり、ひいてはそれが「秘伝」に
なったりするのである。

さて、前のブログにもUpしておいたのだが「炒飯」の
話である。私のルーツ的な「単純炒飯」の作り方は、
(トラックバック参照)様々な炒飯の基本の中の
基本で、具を変えたり味付けを変えることによって様々な
バリエーションに広がっていく。是非試して欲しい。

そして、今回Upしようと思っているのは「もう一つの
炒飯」しっとりタイプの炒飯だ。

しっとりタイプの炒飯は、ある種「失敗した炒飯」から
生まれたといって過言でない。
野菜を入れすぎて、水っぽくなった中にご飯を入れた
なんていう時に偶然おいしく出来たりしたのが原型だ。

私が作る「しっとり炒飯」は、どちらかというと
あまりしつこくないものを好む。
肉類より魚介類を使ったりしたものがおいしいようだ。

海老・いか・アサリなどをざっと炒めていくと、魚介類
独特の旨みを持った肉汁が出てくる。そこにご飯を入れて
肉汁を吸わせていく。

問題なのは魚介類のおいしい火の通り具合が、とても
微妙だということ。ある時点から、魚介類は「縮み硬く」
なっていく。

その「縮み硬く」なる寸前で、肉汁を吸わせて仕上げないと
いけない。(まあ、お客さんに出すわけでなく、自分や
家族が食べるんなら、そこまで「いく」必要は無いけどネ)

様々試してみたが、そうした意味で魚介類に合わせる
野菜だが、これが私としては「無!」がbestと思う。
野菜は、いかにあっさりした野菜でも「甘味」が出る。
これが米自体の甘味を「助長」させてしまう気がするのだ。

ゆえに魚介類にさっと振るガーリックパウダーと生姜の
絞り汁くらいでどうだろう?(これは具とは言わないか)

そして、最大のポイントは「ご飯の量」だ。すくないと
「リゾット」になってしまうし、多いとご飯にマダラに
味がついてしまい、おいしくない。

速く決めないとご飯が肉汁を吸いすぎてしまい、ベストのものに
仕上がらない。手早く仕上げて上にパセリとか、三つ葉とか
散らすとグッとそれらしくなる。

それでは細かい部分を追加して整理しておこう。

①ご飯はジャーから出して、すこし水分を飛ばしておく。

②具は魚介類がお薦め。他に具を使わないので多めに
 入れた方が良い。(冷凍のシーフードMIXでよい)

③魚介類をざっと炒める。味付けは塩・コショー・酒・醤油
 オイスターソース等々

④具が硬くなる前で、充分肉汁がでたらご飯を投入。

⑤こびりつきやすいので、火を落とし、しかし手早く
 ざっと混ぜ合わせ仕上げる。

⑥最後に、上にパセリ・三つ葉等々振って出来上がり。

焦げ付きやすいといったが、少し焦げ付かせ気味にならないと
仕上がりにならないと思う。

そして、最大のポイント「ご飯の量」であるが・・・・。
これは今もって、どれくらいの具に、どれくらいのご飯かが
私にも「分らない」のだ。

最初に書いたように「偶然」見つけてもらうしかない。
何度か作っているうちに、大体の量はつかめると思うが、
bestにはなかなかならない。

かなり「少なめ」であることは間違いないのだ、
裏技で、わざと水分を足してご飯を多めに入れる方法も
あるが、旨みと味のバランスがさらにむずかしくなる。

また、その時の火の強さや鍋の煽り方などによっても
随分ちがってくる。
料理というのは、本当に「むずかしい物」だと思う。
だから、楽しくもあるんだけど・・・。

気が付いた人も多いと思うが、しっとり炒飯は、普通の
炒飯の数倍むずかしいのだ。余程でないと鉄のフライパンや
中華なべでなく、テフロンタイプのフライパン等を薦める。

この炒飯にも、色々バリエーションがあって肉のしつこさが
好き。なんて人は「モツ煮の残り汁」でつくったり「野菜炒め
の塩味の汁」なんてのもある。この場合、具を濾して汁だけで
味をつけて、最後に具を混ぜる方がよいと思うけど。

今回は説明が長くて、文も長くなってしまった。そのわりに
興味のない人には、内容が「おもしろくなーい!」とか
言われそうだ。まあ、こんなこともあるさ。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなに幸福が訪れますように。   
そして、みんなにおいしい炒飯が出来ますように。   may



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「共謀罪」は「凶暴だ~い」

2006年04月26日 | 時事ネタ
私は中年である。
休日前のバーボンソーダを飲みながら
ブログUpしている中年である。

今日は火曜日。「明日は休みじゃねーよ!」と
ツッコむ人もいそうだが、所用があって私は休みを
もらったのだ。(週末の酒《番外編》でバーボン
ソーダの話はUpします!)

とりあえず「共謀罪」の話である。
今この法律の成立に政府自民党が躍起になっている。
この法律を作ろうとする意味は、私にもある程度
分っている。(細かくは触れないので個人的に調べてね)

組織的な大規模犯罪を「防ぐ」には、先回りして
悪の芽を潰していくのがbestなのはよく分る。

事実、現在の刑法ではどれだけ怪しくとも犯罪を
実行した現行犯か、行動した証拠示さない限り
状況証拠だけ持っていても「立件」は出来ない。
(俗に言う「確保・逮捕」は出来るかもしれないけどネ)

この法律は随分前から何度も上程されては「廃案」に
なっている。この法案が曖昧な犯罪性を取り締まるのに
有効なら「何で反対する?」と思う人もいるだろう。

しかし、問題なのは権力機構がこうした「曖昧さ」の
多い法律を、その曖昧さゆえに「振りかざす」であろうことは、
目に見えているのである。

「よく切れる包丁」は誠に都合が良い。一人前の調理人が
握れば、肉・野菜・魚、どんな食材もきれいに上手に切れるし、
それが料理の最終的な「味」を決定するともいえる。

しかし、使う人が変わり半人前の調理人が使ったり、
料理の出来ない若い女性が使ったりすると、その包丁の
性能は半分も発揮されない。

それどころか、もし、ムシャクシャしてキレる寸前の
若いバカモノの手に渡れば間違いなく「凶器」になって
しまうのだ。

この法律が成立しても「一人前の調理人」や「名人」が
使っている分には問題は無いし、逆に能力以上のすばらしい
「料理」が出来るだろう。

だが、今の日本の権力構造の中にある「警察・検察」及び
「政府・政党」などという半人前や若い女の子、どころか
「切れる寸前のバカモノ」になりかねない者共に、この
「よく切れる包丁」(共謀罪法)を渡してはいけないのである。

冗談でも「今の政府をぶっ潰しちまおうぜ!」と友達と
話しただけでも「確保だ!確保だ!!青島~!!!」と
室井さんに叫ばれてしまうことだって、この法案が通ると
ありえるのだ。

「曖昧さ」が良い方向にむいていた私らの若い頃なら
イザ知らず、いまの日本はその「曖昧さ」を逆手にとって
物事を自分勝手に進める輩が多すぎる。

権力機構がその「物事を自分勝手に進める輩」でないと
思っている人が今の日本に何人いるだろうか・・・。

蛇足ながら先の千葉補選の結果に、自民党のこの法案への
「強行採決も辞さない」という態度が、少なからず影響したと
思うのだがどうだろう?

千葉7区有権者の良識が、そこで発揮された結果なのだと。

結局、酒のせいで寝てしまいUpが終わったのは、
26日朝8:12です・・・。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなに幸福が訪れますように。
                          may




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乱世の人々

2006年04月24日 | Weblog
私は中年である。
千葉の補選の結果に、少なからず
千葉7区有権者の「良識」に、本当に
鳥肌の立つ思いの「中年」である。

政治のことは、あまりUpしたくなかったのだが、
私の興味の中に「政治」は、かなり大きな位置を
占めている。今回の千葉補選で自民党の敗北を
記念してUpすることにした。

大体、私の好きな「歴史」とは、その時々の「政治」の
積み重ねの別名なのだ。

歴史の中で一番面白いのは、やはり「戦国時代」であろう。
「群雄割拠」日本中に様々な小大将(?)が並び立ち、
「天下統一」を目指してしのぎを削る・・・。
壮大な浪漫といえる。

それから見れば、「天下泰平」における「小さな反乱」は
あまりにせせこましい。それが、時に「屋台骨を揺るがす」
などと言いたがるが、完成させれシステムの中では、「夢」
でしかない。

しかし、そうした「天下泰平」が少しずつシステムの硬直化を
引き起こし、幻に近かった「夢」が時として「群雄割拠」の
時代への引き金になったりする。

つまり

     「混沌」→「群雄割拠」→「下克上」
      ↑               ↓
     「爛熟」←「天下泰平」←「天下統一」

という図式が繰り返されて、歴史が成り立ってきたのだ。
ただ、「混沌」の部分が現代においては「無秩序」まで
には、なかなかなっていかない。

そこが「無秩序」までいけば、それは「革命」にまで
突き進むことになる。

話が回りくどくなったが、何が言いたいかというと・・・。

上の段の「混沌」「群雄割拠」「下克上」の時点で
必要とされる人物、乱世で力を発揮する人物と、
下の段「爛熟」「天下泰平」「天下統一」で必要と
される人物、平時に力を発揮する人物と、
おのずと人間はこの二種類に分類される、ということだ。

「55年体制」というものが、確立していた時代に
存在していた政治家達は、いかにコワモテであって
大声を出していたにせよ「平時の人」でしかなかった。

わずかに田中角栄なる人物が、そうでなかったかも
しれない。(そうした意味で彼は早過ぎた)

そして「55年体制」が爛熟を迎え、バブル経済が
はじけた時、日本は「混沌」の時代となった。

そして、今は「群雄割拠」時代目前の時。
私はそう分析している。

私の記憶にある総理大臣の中の誰からが「平時の人」
であり、誰からが「乱世の人」か・・・・。

そのラインは、やはり「森喜朗」と「小泉純一郎」の
間に引かれるだろう。

そして、その「乱世の人・小泉純一郎」が呼び込んだ
「混沌」を「群雄割拠」に進めるのは、もう一人の
「乱世の人・小沢一郎」だ。

平時の人が100万に対して乱世の人は1人いるか
どうかだと私は思う。

まして、そうした人物が複数現れて「天下統一」を
争うのは「時代がそれを求めた」からとしか
いいようが・・・ない。

様々な「矛盾」と「欲望・野望」が絡み合う中で
今回の千葉補選が、その決戦の第1ラウンドだったと
私は見ている。

小泉氏の任期は、あと5ヶ月その間にあと何ラウンドの
決戦が見られるだろう。

ここ1~2年は、間違いなく
  
     「歴史のターニングポイント」
                 
                     になる。

これを読んでいる皆が、いかに政治に興味がなくても、
ぜひ、その「歴史の体現者」であることを「自覚」して
注目していて欲しい。「中年」のお願いである。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなに幸福が訪れますように。   may


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極、当たり前のことをする

2006年04月23日 | 料理
わたしは中年である。
日曜の夜を「まったり」と過している
「中年」である。

さて、このところ職場だけでなく、家でも包丁を
握ることが多くなっているのだが、女性達がいまさら
「料理のコツはなにか」などと質問をしてくる。

そんなことを聞くとは・・・。と絶句したのだが、
最近は「調理以前の料理の常識」といったような本が
よく売れているという。

内容は「塩少々と塩ひとつまみが、どう違うか」とか
「タカの爪って何?」とか「オトシブタは、肉屋で買えば
よいのか」など、ちょっと信じられないが、ほんとうに
そうした内容らしい。

先の文が分らなかった人は、このブログを読むより
「調理以前の料理の常識」を買って読んでもらわないと
ブログの意味が理解できないだろう。

☆はい!買ってきて全部読んで理解した!☆

ということで、核心の部分の「料理のコツとは?」だが・・・

 それは
    「当たり前のことを、当たり前にやる」
                    ということだ。

人間の味覚は、個人的な差があるとはいえ根本的に
「おいしい」と感じることに大きな差はない。
自分自身がおいしいと感じたのであれば、まず間違いなく
おいしいのだ。そのことには自信を持って良い。

自分が「おいしいものを食べたい!」と思えば、おのずと
答えは出てくるはずなのだ。

自分の知らない料理に向かうときは、下調べをする。
     当たり前のことである。
必要な食材や調味料が無ければ、買ってくる。
     当たり前のことである。
やるべき下ごしらえは、しっかりやる。
     当たり前のことである・・・・・。

・・・(やってない)と心当たりの女性も、多いのでは
無いだろうか。

そして後は「経験あるのみ!」

いかな天才でも、料理に近道は無い。包丁を握る時間。
フライパンを振る時間。台所に立つ時間。それらを
増やさない限り「おいしい」物は出来ない。
天才でなければ、尚更である。

そして、経験が増えてくると「いかに手を抜くか」が
分ってくる。そうなればしめたものである。

ここまでUpして気が付いた。これは女性に限った
ことではない。「おいしいものを食べたい!」という
感覚に性別は関係ない。男性もドンドン台所に立つべし!

おいしいものを女性が作ってくれないのであれば、
自分でつくろうじゃないか。
私はそう感じて、ついには調理人になったのだ。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなに幸福が訪れますように。
男も女も、料理の楽しさに目覚めますように。   may
















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黄長著(萩原遼訳)「金正日への宣戦布告」読み終わりました

2006年04月23日 | 
私は中年である。
何気に忙しく、初めてブログUpを
二日間開けてしまった中年である。

さて、世は韓国との「竹島問題」で
騒然としている。(そうでもないか)
領土問題は、日本においてある種「タブー視」
されている感があるから、日本vs韓国・日本vsロシア
とかでも、随分国民に「温度差」がある。

この話はどんどんむずかしくなっていくし、
今回のUp内容と若干ズレるので、別の回に譲る。
まあ、韓国と同一民族の「例の」北朝鮮の本の話なので
あながちズレも大きくないのだが・・・。

「黄長」(ファン・ジャン・ヨプ)という人を
知っているとすれば、あなたはかなり東アジアのこと、
もしくは「北朝鮮」に興味がある人だろう。

北朝鮮が唯一の「個人崇拝国家」でありえていることの
一つの要素が、「主体思想」(チュチェ思想)にある。

北朝鮮の「金日成」(キム・イル・スン、金正日の父)の
時代から、世界の社会主義の根本を成してきた世界的論理
「マルクス・レーニン主義」を、北朝鮮において発展させた
思想・哲学。それが「主体思想・主体主義」だ。

私もこの黄長氏のことを知るまでは、金親子の個人崇拝の
道具のための、自分勝手の理屈だろうと思っていた。

しかし、この思想の根本はもっと奥が深く、世界的に
評価がされている「主体哲学」なのだ。

そのことが黄長氏のインタビュー等(テレビ朝日等々で
何度か放送されている)で分ってくると、もし社会主義が
現在も生き残っていくことにおいては、画期的な「主義」
だったのではないかと思い始めた。

残念ながら、今の時点でマルクス・レーニン主義なるものでさえ
私は手に取ったこともない。
ただ、その種の国家がことごとく瓦解したことにおいて、
実験的な「理想主義」だったことと理解している。

だから、それさえ知らずに「主体主義」を知ろうと言うのは
意味が無いのかもしれない。しかし、この本を読んでみると、
徐々に興味が沸いてくるばかりだ。

「中国」のことはまだUpしたことが無かったろうか?
中国の内情は「共産主義」を名乗りながら実質的な
「商業主義」になりつつある。
そうした中では「中華人民共和国」成立から現在までの
「混乱から発展」を知る術は、かなりの部分で可能に
なった。

かの「毛沢東」とは、「小平」とは、「文化大革命」とは、
「黒猫・白猫理論」とは、「台湾問題」とはなんであったか、
を知ろうとするなら、その資料を集めることは、それほど
むずかしくない。(核心部分を集めることが出来るかどうかは
怪しいが)

しかし、北朝鮮問題の内部の「政治の中心部分」を
知ろうとすると、途端にむずかしくなる。
「脱北者」は随分の数に上ってきているが、その中で
権力の中心にいた人はほとんどいないからだ。

その数少ない「権力の中心」にいた「脱北者」が、
この黄長氏なのだ。

金親子の名で発表された論文のほとんどは、彼の
執筆であり、図らずもそれを「個人崇拝」の道具に
使われたことの無念がこの本には滲んでいる。

彼は「脱北者」となったことで、家族はもちろん
ほとんど顔を合わせたことのない親類縁者まで完全に
粛清された。

その家族・身内の迫害より「北の民族」のために、
あえて脱北したのだということに、わたしはある時まで
懐疑的だった。しかし、この本を読んでみて、わたしの
ような人間には、それを疑う資格など微塵も無い、と思わざるを
得なかった。

何冊か「北朝鮮」の本を読んできたが、ここまでガツンと
来た本は無かった。
むずかしいのにスラスラと読み進めることができ、理解する
ことできて、恐怖してしまい、怒りがこみ上げる。という
希に見る本であった。

皆さんに一読をお薦めする。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなに幸福が訪れますように。
国際問題・外交問題にしっかり立場を取れない日本に
不安を抱き続ける今日この頃の中年男である。
                              may





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人間の「顔」

2006年04月20日 | 
私は中年である。
私の住んでいる地方は「豪雪」地帯だ。
自他共に認めている。

しかし、4月の下旬に差し掛かろうとしている今頃、
「みぞれ」が降るのを見たのは記憶が無い。
何かに一抹の不安を抱かずには居られない「中年」である。

さて世の中には凄い話が、後から後から出てくるものだ。
元日本兵の上野石之助さん(83)が63年ぶりに
帰国したと聞く。

日本名の「石之助」という名前から「イシノスキー」
と呼ばれていたとか・・・。

60年以上ウクライナで生活していたという。
まずその「長さ」に驚き、そしてその「若さ」に驚いた。
とても83歳には見えない。

帰国した彼に兄弟姉妹たちが、抱き合って涙を流していたが、
すでに日本語を話さなくなって「60年」以上を過していた彼は、
兄弟達に日本語で語りかけることが出来なくなっていた。

「運命です。・・・運命なのです。」その記者会見での言葉は
本当に重みがあった。「中年」を自負する私でさえ、彼が
ウクライナに暮らした年月の3/4しか生きていないのだから。

ウクライナといえばソ連から独立し、「例の」チェルノブイリ
原発があるところではないか。公用語はロシア語であろう。

石之助さんはやはり日本人だが、どこかにある種の違和感を
私は感じていた。

よくそう思うのだが、日本人が日本人の「顔」を
しているのは「日本語」を喋っているからではないかと。

20歳で日本語を話さなくなって「ロシア語」を話すことに
なった石之助さん。
彼は日本語の発音をしなくなることで、日本語に使う顔の
筋肉が削げ落ち、ロシア語で使う筋肉が発達していく。
つまり、それがその「ロシア人・ウクライナ人」らしい
顔を作っていった気がするのだ。

そして、石之助からイシノスキーへ人格も変わって行った。
悲しくも、純然たる「事実」しかし「死」よりも
ずっと素晴らしいことのように思う。

中国残留孤児の人たちは、やはり中国人の顔をしているし
日本に長く居るデーブ・スペクターやクリス・ぺプラー
パックンなどの顔が日本人に近くなり、彼らは本国に
帰ると周りの人から「英語がヘタになった」と、何度も
言われるという。

極細かいことを言えば、日本の中でも、その地域の方言を
使っていると、その地方の「顔」になっていくのだろう。

だから「秋田美人」や「新潟美人」なんて女性が、
できるのだろうか・・・。

ただ、石之助さんは話さねばならなかったロシア語以上に
「運命」に翻弄され「運命」に殉じた「苦悩と潔さ」が
その顔・風貌を創り出したに違いない。

しかし、その顔、表情には「悲愴感」は微塵も見当たらない。
男たるもの、そうした「顔」でありたいものだ。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなに幸福が訪れますように。
                             may





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そういえば・・・・

2006年04月19日 | 料理
私は中年である。
今日は風が強い。
風の吹く日は大嫌いである。
子供の頃や若い時は、全く気にならなかった
のに・・・。歳を取ると何事にも臆病になる。
今夜も良く眠れないであろう「中年」である。

さて、よく考えたらブログに「料理」のことを
全くUpしていなかった。
別に意識していたわけではないのだが、あまりに
Upしなければならないことが、後から後から
溢れ出てきて、そこまで気が回らなかったのだ。

先々回のブログで「炒飯」のことをUpして包丁を
持って仕事をしている自分から見た「家庭料理」と
いうか、ちょっとしたコツみたいなものをUpするのも
良いか、という気になってきた。

私の母は、隣町の畑どころの村から昭和30年頃
嫁ついで来た。
昭和一桁生まれの父と共に、いわゆる「戦中派」である。
そうした母は家業の農業をはじめ、外に勤めにも出ていた。

母にとっての「家事」は苦痛であったろう。一通りのことは
もちろん間に合わせていたが、今の家庭では考えられない程
忙しく、疲れもしただろう。ボイラーも無ければ、掃除機も
無い時代だ。もちろん炊飯器もレンジも無い・・・。

そして、彼女は「料理」が大の苦手だった・・・。

私が料理を作り始めたのは、その反動だったかもしれない。
いまだに私は「人に作ってもらう」事を期待していない。
自分で作ることを、すくなくとも普通の男ほどイヤだとは
思っていない。

そんな私の得意料理が「炒飯」なのだ。

「炒飯」は私が初めて作った料理だ。
今でもはっきり覚えている。子供雑誌の片隅に
炒飯の作り方が出ていて、それをやってみる気になった。
小学5年の時の話だ。

本当に簡単な炒飯で

 「長ネギ(青い部分)」「ハム(1センチ角)」「卵」

                  具はこれだけである。

味付けも「塩・コショー・化学調味料・醤油」これだけである。
初めて作った炒飯は、なにか不思議な味がした。

つまり・・・とても「おいしかった」のだ。

今このレシピで作るとすると、以下のような手順になる。

①長ネギ・ハム共に荒ミジン切り。
②フライパン(使い込んで油がなじんだもの、もしくは
 テフロン加工)を、充分熱して煙が出る位になったら
 油を入れる(テフロンはもっと低い温度で)
③荒ミジンの長ネギ・ハムを入れ、さっと火を通し軽く
 塩コショー。
④よくかき混ぜた卵を入れる。
⑤半熟のうちに、ジャーで保温して、ある程度水分の
 抜けたご飯を入れる。(このごはんが炒飯にはベスト。
 量を多くし過ぎない方がパラリと仕上がる)
⑥ご飯に卵がまとわりついてくるので、フライパンを煽り、
 具とご飯 を充分混ぜ合わせながら炒りつける。
⑦化学調味料を振り入れる。(炒飯の素・味の素等々お好きな
 物を、ただし最小限に)
⑧最後に、鍋肌に醤油を回しいれて香りをつける。仕上げは
 あくまで パラリと。

炒飯は「中華料理」の基本。いかに手際よく短時間で
仕上げるかが勝負どころ。慣れてくれば、5分で出来る
はずだ。また、出来なければおいしい炒飯にはなっていない。
もちろん、火をつける前にすべての下ごしらえ、調味料は
揃えて置くこと。

私の仕事の原点が「ここ」にある気がする。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなに幸福が訪れますように。
                        may








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本の片付けと「高年」

2006年04月18日 | 
私は中年である。
結局、部屋の片付けに一日かかってしまった
「中年」である。

さて、先回は部屋の片付けの途中から書庫と
CDラックの中身を整理する話をUpするつもり
だった。しかし、文が長くなりすぎて断念した。

今日も余計なことを書いていると、また本題に
たどり着かないかもしれない。早速だが本題に
入ることとしよう。

皆さんは、本をいかにして買っているだろうか。
「手当たり次第」?「インターネット販売」?
「作家主義」?「買わずに図書館派」?

少し、私の本の買い方・貯め方などをUpしよう。

様々な人がいるだろうが、私は基本的に
「ハードカバー」は買わない。
理由は簡単「値段が高い」からである。しかも
「持ち歩く」には不便である。

もし、ハードカバーで買うとすれば「文庫本に
なりそうに無いもの」が主流になる。
しかし「意味のある古本」は例外である。

片付けで本棚を見ると約250冊の本がストック
されていた。(ストックと言うくらいで「未読」の
本の数である)

前に年間に「50冊」を目標にしている私としては、
5年分の本が溜まっていることになる。

そんなに買い込んで「バカじゃね~の」といわれそう
だが、本というのは余程売れる本で無い限り、すぐに
絶版になってしまう。手元の金が無くても、欲しい本は
「その場で買え!」というのが、私の主義だ。
(買いそびれると、見事にどこにも売っていないのだこれが)

そして、裏の本棚には再読するであろう本が100冊前後の
本がきれいに並んでいる。

ここが問題なのだが、私は頭が良くないから、読んだ本は
ほとんど片っ端から忘れていく。(まあ、何がしかの知識が
残ってはいるが・・・)また、忘れてもいい本がほとんどだ。
そのため、狭い住宅事情を考えてもほとんど「古本屋」ゆき
となる。

そして「どの本を残し、どの本を手放すか」であるが・・・。

最近は、ほとんど悩まない。これは本を買う時と同じなのだが
数ページをめくり、数行を読むと「残すか、残さないか」が
判断できるようになった。

もちろんこれは、私個人のことなので私の基準としてである。
着る物・音楽(CD)・本などは「中年」になると、こうした
「選択基準」がとてもはっきりしてくる。

若い時は、どれもこれももったいなくて捨てられず、部屋が
もので今以上に溢れかえったものだ。

ちなみに本・音楽・着る物は非常に似ていて、流行で
読むべき(聞くべき・着るべき)物とそうでない物と
頑なに時代に左右されないもの。とに分けられる。

「中年」になると、後者のもののほうが多くなるが、
流行物に何の興味もなくなると・・・・。それは
「中年」ではなく「高年」になるのだろう。

私ももうすぐなのだろうか~~~。
「中年」ブログを立ち上げたばかりなのに、「高年」の
影に怯える今日この頃である。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなに幸福が訪れますように。
                        may


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屋根裏部屋にて

2006年04月17日 | Weblog
私は中年である。
土曜日にアルビレックスvsグランパスの
試合を見に行って、私の予想通りにアルビが
2-1で勝利して、自分の「波理論」が間違って
いなかったとに、ご満悦の「中年」である。

ということで冬中「寒さ」にかまけ「遊び」にかまけて
部屋の片づけをほとんどしなかったのである。
見事に私の居間は、足の踏み場も無くなった。

・・・この寒さが悪いのだ。
「中年」は寒いのが大嫌いなのだ。
・・・この天気が悪いのだ。
雨や雪ばかり降って、たまに晴れるとその日しか
ないイベントばかり有りやがって・・・。

色々言い訳してみても、部屋は片付かないのである。
まず、やっとの思いで衣装の冬物と春物を入れ替えた。
朝9時から始めて・・・すでに90分・・・10時半か。

次に居間の片付けだ。ここもとても「人が居た場所」とは
思えない・・・。特にタグの貼っていないビデオの山に
なす術がない。とりあえずは盛り上げておこう・・・。

投げ出しておいた本・CDを棚から下ろし、パソコンを
コタツから下ろし、ついでにパンツを下ろす。
そんなことはしないが、とりあえず部屋の中を
「からっぽ」にする。・・・すでに始めて150分
・・・11時半ではないか。ハラが減ってきた・・・。

昼にしっとりタイプのチャーハンを作って、
家族と食べる。チャーハンのコツは炒め油に
ラードを使うこと。今日は鶏肉を大きめにして炒め、
それから出る肉汁を利用したしっとりチャーハンに
仕上げる。具は他には卵と長ネギ、その他に
具を多くすると、家庭の火では仕上がりが遅くなる。

食後に何も無い部屋で、横になったら眠ってしまった。
「ハタ」と気が付くとすでに、3時・・・。

まず~い。このままでは部屋の片付けさえ
終わらないうちに一日が終わってしまう・・・。

コタツを真ん中に置き、他のものはとりあえず
廊下から部屋に戻す。片付けているのか、ちらかして
いるのかだんだん分らなくなってきた・・・・。

そして、やっと廊下に物がなくなると・・・5時。
片付けを終わらせて買い物に行くはずが、すでに・・・夕方。

こうなれば腹を決めるしかない。「寝るまで」に
何とかする・・・。

ということで、本当はこの後のCDと本を片付ける時の
ことをUpしようと思っていたのに、前置きの部分で
文字数が多くなってしまった。

ちなみに私は、文字数1200文字以内のブログを
心掛けている。それ以上になると、余程の内容と
文章力がないと、人に読んでもらえないからだ。

いま1060文字を過ぎた、読んでいる皆さんも
イヤになってきたでしょう?しかも、ほとんど
意味の無いことばっかり書いて・・・。

申し訳ない!パンツを下ろすから許してくれ!
次回をお楽しみに・・・。

今日は本当に申し訳ない・・・。
皆さん怒っちゃや~よ。 
                may




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