完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

「セリフ」の力って凄いね。      ~「マスク」地上放送版~

2022年09月19日 | テレビ

 

 

 

私は中老男である。

 

 

先のUpでも記したのだが・・・。

 

 

情けないことに、本当に映画館で映画を見ていない。

 

 

 

そして、当たり前だが映画は映画館で見ないと本当の良さがわからない・・・。

 

 

 

暗い密閉された空間の中で、集中して銀幕を見ることには、ある種の「ストレス」がかかる。

 

 

 

だが、だからこそ体に感じる音響などが強烈な印象になる。

 

 

 

個人で設備を整えても、結局途中で止めることができるし、何より「料金」を払っていない。

 

 

 

 

やはり、人間ある程度のストレスを感じながらでないと物事に集中できないようにできているらしい。

 

 

 

 

だが、そうした中で私が映画をDVDやBLで購入する場合は、大体の法則がある。

 

 

 

「繰り返し観る」こと。

 

 

 

まあ、現実にそうでない場合も少なくないが・・・。

 

 

 

 

そうしたコレクションの中に「マスク」がある。

 

 

 

 

この映画も、ずいぶん古い作品になったなぁ・・・・。(調べたら1994年)

 

 

 

 

ジム・キャリーの若いこと!(なんと私より1歳下!)

 

 

 

 

その当時に、アニメを部分的に取り込んだシーンが話題になった。

 

 

 

以前にテレビ放送を観て「おもしろい!」と、感心してDVDで購入していた。

 

 

 

しかし・・・。

 

 

 

観て驚いた。

 

 

 

 

あきらかに面白みが「半減」している。

 

 

 

 

なぜか?

 

 

 

「吹き替えのセリフ」が違うのだ。

 

 

 

以前は特に「映画は字幕さ!」それが「本当の面白さだ!」と思っていた。

 

 

 

しかし、テレビ放送における「吹き替え版」には「傑作が多い!」と思うようになった。

 

 

 

 

今回の「マスク」は、最初に見たのが今回の「日本テレビ放送版」だったので、そのイメージがズッとあった。

 

 

 

DVD版も主役吹き替えは「ミスター声優・山寺宏一」だった。

 

 

 

しかし、極論すれば・・・「まったく別物」である。

 

 

 

今回日本テレビ放送版をと見比べてみた。

 

 

 

単純に「意訳」の違いというより「ノリの良さ」を重視した吹き替えのセリフが、日本テレビ版の方が格段にいい!

 

 

 

マスクに変身したイプキスが、アパートの二階から道路に落ちて一言。

 

 

 

DVDでは「見て、こんなペチャンコ~~!」

 

 

 

テレビ放送では「見て、ママ~、おせんべいになっちゃた~~~!」

 

 

 

こんなちょっとしたシーンだけでも、山寺宏一のノリの違いが確認できる。

 

 

 

しかも、デジタルになったテレビ放送はDVDの画質より「かなりいい」のである。

 

 

 

地上波の映画放送は衰退の一歩、仕方のないこととは思うのだが・・・。

 

 

 

 

吹き替えによって映画が格段に面白くなることも少なくないって思わされた作品だった。

 

 

 

 

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、ほんのちょっとした違いが大きな違いになることに気が付きますように。

 

 

 

 

              May

 

 

「沈黙の戦艦」とか「ダーティハリー1~3」なんかも、字幕版・DVD版とかなり違うよ~~~。

 

 

 

 

 

 

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因果は巡る・・・。(その2)          ~政治不信は安倍氏から?~

2022年09月18日 | 時事ネタ

 

 

私は中老男である。

 

 

 

その2である。

 

 

 

とりあえず確認するが、自民党が政権を維持し続けてこれたのは。

 

 

 

 

「主流派」「反主流派」という名の党内派閥が「ミニ政党」よろしく、政策や派閥の領袖のパーソナリティをアピールすることで、博打の胴元(親)を回すがごとく党総裁を選び、

 

 

 

政権を維持し続けた。

 

 

 

 

その構図が一時的に壊れたのが、小沢一郎氏による脱党による政界再編。

 

 

 

そして、他政党による政権維持が混乱しているうちに政権を取り戻した自民党は、それ以前の派閥政治が微妙に変化していく。

 

 

 

その派閥政治にくさびを打ち込んだのが「小泉純一郎」である。

 

 

 

 

小泉内閣で「拉致問題解決」で表舞台に出てきた安倍晋三が、その直後の総理大臣に就任する。

 

 

 

小泉純一郎の政策手法を側近として支えてきた安倍氏が、政権を維持するに何らかの影響を受けたと考えるのが自然だろう。

 

 

 

 

そして、突然体調不良を原因に政権を投げで出した総理の椅子は、一時的に「派閥政治」に戻ることになる。

 

 

 

 

第一次安倍内閣後の自民党の政権運営は、不安定なまま「派閥政治の最後の象徴・麻生太郎」という人物によってふたたび下野することになる。

 

 

 

民主党が政権を持っていた時のことは、いずれこのブログにUpすることもあるだろうから割愛する。【この時の民主党の政権運営とアクシデント(東日本大震災・原発事故等)が、その後の政権交代にかなりの影響を及ぼすんだけどね】

 

 

 

 

そして、民主党最後の総理・野田氏との党首討論~解散総選挙で政権を取り戻し総理になったのが・・・。

 

 

 

 

             安倍晋三である。

 

 

 

 

第1次安倍内閣の時を覚えている貴兄も多いと思う。

 

 

 

あなたは「第2次安倍内閣」が、その時とどこが違うがわかりますか?

 

 

 

 

私から見ると・・・。

 

 

 

 

彼は以前の「派閥政治」と「第一次安倍内閣」「民主党政権時代」において「なぜ政権が安定しなかったか?」を考え続けたのであろう。

 

 

 

 

そうした中で、必要なものは「小泉流の派閥に頼らぬ、個人権力・人気の獲得」という結論になったのだろう。

 

 

 

 

もしかしたら、あまり知られていないのかもしれないが、安倍総理は「内閣人事局」という伝家の宝刀を手に入れたのだ。(2014年5月30日 第2次安倍内閣時制定)

 

 

 

 

「役人の人事権」を手に入れたのだ。

 

 

 

 

第一次安倍内閣・民主党政権はおろか派閥政治の時でさえ、手にできなかった「役人の首のすげ替え」ができるようになった。

 

 

 

一見関係ないようだが、このことが「第一歩」だったと思う。

 

 

 

反抗的で慇懃無礼・服従背面の役人が思い通りになることで、もともと持っていた「鈍感さ」も相まって自分自身のタガが外れたのだろう。

 

 

 

政治家に「完全な清廉さ」などを求める気は「サラサラない」のであるが、国会の答弁で100回を超える「ウソをつくこと」は、私にとっては許せない。

 

 

 

そりゃあ、それ以前にも同じことをした政治家もいただろう。

 

 

 

 

しかし「総理大臣」という人が「平気で」重ねた。

 

 

 

彼は「責任は私にあります」といいながら、その責任を取ったことがあるだろうか?

 

 

 

過去の自民党の政治家たちは、このセリフを吐いた場合、他の派閥の追及により「本当に責任」を取らされていた。

 

 

 

国民がいかに騒ごうが「自民党内の自分への影響」が少なければ「対応する必要がない」とかんがえていたように見える。

 

 

 

しかも自民党内では選挙においてほぼ負け知らず。その中で安倍氏に逆らえる人はいなかっただろう。そう・・・

 

 

 

 

             「安倍一強」である。

 

 

 

 

この状態は、逆に言えば彼以外の自民党議員も同じ感覚を持つようになる。「プチ安倍晋三」みたいな「責任は私にあります」と言いながらスルーする政治家ばっかりって思いません?

 

 

 

 

今、さまざまなことで「政治不信」が、私に「安倍晋三」から始まっているように見える。

 

 

 

 

彼以前から「政治不信」は、もちろんあったのだが彼自身のパーソナリティを含めて「ある一線」を超えてしまった気がするのだ。

 

 

 

 

おそらくだが、この政治不信は結局「自民党不信」につながり、どれくらいかかるか分からないが、政権を手放すことになるだろう。

 

 

 

「自民党の終焉」の引き鉄を引いたのが彼であることを、証明する時が私が生きているうちに来るのだろうか・・・。

 

 

 

 

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、信じられる政治を手にしますように。

 

 

 

 

                 May

 

 

 

 

政治が人間である限り「完全な清廉」を求めることができないことなど、よ~~~くわかっているけど「ある一線」を超えてほしくないと思うのは「無いものねだり」なのだろうか?

 

 

 

 

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因果は巡る・・・。(その1)        ~政治不信のおおもとは?~

2022年09月16日 | 時事ネタ

 

 

私は中老男である。

 

 

 

いかなることも、つい自分の若い時と比べてしまうのは

 

 

 

中老男の「弊害」である。

 

 

 

しかし「政治」に対する感覚は必ずしも「弊害」ではあるまい。

 

 

 

「歴史」というのは「政治の積み重ね」であるからだ。

 

 

 

大河ドラマがいまだにある種の根強い人気があるのは、そのドラマが脈々と「現在」につながっているからだろう。

 

 

 

 

「政治不信」などという言葉は、たぶん江戸時代にもあったのだろう。

 

 

 

行政を執行する側に対する「不信」は、結局「人間不信」と同義であるから。

 

 

 

しかし、そうした中でもに日本人には「強い正義心」と「利他主義」(利己主義の対義)的な意識があり

 

 

 

それによって「ある程度」の信頼が保たれていた。

 

 

 

だが何事も「人間のやること」だから、徐々に境界線が「曖昧」になる。

 

 

 

私の子供の頃の信号機の「黄色」は、ほぼ「とまれ」の意識だった。

 

 

 

今は「赤」の最初数秒まで「進んで」いる車も少なくない。(私の気のせい?)

 

 

 

これらがその代表的な例だろう。

 

 

 

今の政治における「不信」は、結局「安倍晋三」なる人に象徴されていると私には思える。

 

 

 

先に「自民党」の話をしておこう。

 

 

 

自民党という政党が、なぜこれほど長く政権を維持し続けているのか?

 

 

 

それは自民党内に「派閥」という「政党内政党」が存在したからだ。

 

 

 

総理大臣がその地位を守るためには「野党」よりも「党内派閥」を重視する必要があった。

 

 

 

それにはもちろん「政策」「人事」「お金」がついて回ったのだが。

 

 

 

自民党が政権を野党に渡さず、党内の派閥が「国民の声」の代表となり

 

 

 

「疑似政権交代」といえる派閥の領袖による「総理大臣交代」を繰り返す。

 

 

 

これが自民党が長く政権を握っていた現実だ。

 

 

 

いかに政策が違い、嫌いな人間であろうと「政権を手放すくらいない我慢する」ってこと。

 

 

 

だから以前の派閥というのは、今の野党などよりとてつもなく結束が固かった。

 

 

 

私から見れば今の派閥など、ただの「人数合わせ」にしか思えない。

 

 

 

そうした中でKeyになった人物が「小沢一郎」と「小泉純一郎」の二人。

 

 

 

 

小沢一郎は「自民党を脱党」し、初めて自民党の屋台骨を揺すった人物。

 

 

 

剛腕といわれた政治姿勢は、田中角栄流の意識・手法をもって以後の「政界再編」の火種となっていく。

 

 

 

小泉純一郎は自民党内に残り、派閥というものを持たずに「国民の人気」というもので総理大臣になった。

 

 

 

党内の「派閥の原理」をぶち壊した政治家である。

 

 

 

「私が自民党をぶっ壊します!」とか「郵政民営化に反対する人は、すべて抵抗勢力です!」とか言った人。

 

 

 

(こうした発言で国民の人気を得て「1強」体制を作った。のちの安倍氏は彼を手本にしたのではないだろうか・・・?)

 

 

 

覚えている人も多いだろう。

 

 

 

安倍晋三は小泉内閣の時の官房副長官で「拉致問題解決」の時に脚光を浴びて世に出てきた。

 

 

 

 

話が長くなってしまった。今回は「安倍晋三」の表舞台への登場までということで。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、政治に絶望しませんように。

 

 

 

 

            May

 

 

 

 

本当は安倍氏の父親・祖父まで辿らないと今の宗教団体への関与は分からないんだけど。私もそこまで詳しくないしね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小泉純一郎という人はそうした派閥というものを

 

 

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「時分の華」って知ってます?        ~映画「梟の城」~

2022年09月15日 | テレビ

 

 

私は中老男である。

 

 

 

「梟の城」が放送された。

 

 

 

ここ数年、司馬遼太郎原作の映画を続けてみている。

 

 

 

「関ケ原」「燃えよ剣」「峠」

 

 

 

そのすべての映画の感想には共通したものがある。

 

 

 

「司馬物は映画に向かない」ということ。

 

 

 

正確に言えば、その原作の本質的なことは映画では無理だと私には思えるのだ。

 

 

 

そうした中でこの「梟の城」は例外といえる。

 

 

 

と言いながら・・・。

 

 

 

実はこの原作を読んでいない。

 

 

 

 

そうした意味では、それまでの映画と違った方向性の感想を記すことになる。

 

 

 

 

「映画」の魅力などと語ることできるほど、どっころか恥ずかしいほど映画を見ていない私であるが。

 

 

 

 

この「梟の城」を観て思った。






ストーリーは司馬物としてはごく初期の作品(どころかほぼ初作品)であるので、

 

 

 

最近の3本と違い娯楽性の高いものとなっているので、映像にはしやすいし、そうした場合に見栄えがする内容だ。

 

 

 

 

そうした中での一番の見どころは「小萩(鶴田真由)」と「木さる(葉月里緒奈)」だろう。

 

 

 

 

主演の中井貴一・助演上川隆也の二人にはほぼ過不足ない。

 

 

 

 

二人とも強烈なカリスマ性のある男優ではない。

 

 

 

 

その代わりにとても「安定感」がある。

 

 

 

 

それに対しての「鶴田真由」と「葉月里緒奈」の女優二人。

 

 

 

「女優というのはたいへんだなぁ・・」とつくずく思う。

 

 

 

後から後から「新人女優」が現れる。

 

 

 

それも私から見れば宇宙人にも見えるようなプロポーションの新人たちが。

 

 

 

 

その中で「自分の立ち位置」をしっかり持った女優でなければ生き残れない。

 

 

 

しかし、女優には「時分の華」という言葉が一番似合う時がある。

 

 

 

失礼な表現になるが、今の鶴田真由と葉月里緒奈は華々しい活躍をしているとは言い難いだろう。

 

 

 

だが、どんな女優にも「時分の華」の時がある。





この時の二人がそうだ。

 

 

 

鶴田真由という女優には「上品さ」と「憂い」がある。

 

 

 

葉月里緒奈には逆に「天真爛漫さ」と「娘から女に代わる時」が役と相まってとても良い。

 

 

 

二人が対比され映画がより素晴らしいものになっている。

 

 

 

逆に言えば「映画の見方」というのは、私のように「原作に忠実であるか」という見方が正しいわけではないということ。

 

 

 

そうでなければ主演俳優が誰であるかなんてことが、映画においてこれほど大きなファクターになったりしないやね。

 

 

 

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、自分にも「時分の華」があることを思い知りますように。

 

 

 

        May

 

 

 

「君の膵臓を食べたい」という映画の「浜辺美波」などは、その典型じゃないかなぁ。あの時の彼女は今の彼女と別人。

 

 

 

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結局は「感情」の問題?       ~「国葬」&「宗教と政治」~

2022年09月03日 | 時事ネタ

 

 

 

私は中老男である。

 

 

 

 

某宗教団体と政治家の関係が取り出さされている。

 

 

 

 

本質的には政治家が教団体と関係を持つことは、法律的に問題があるわけではない。

 

 

 

非常にデリケートな問題ではあるが・・・・。

 

 

 

問題なのは某宗教団体が「霊感商法」や「マインドコントロールによる多額の寄付」を行っていた疑いが強いことだ。

 

 

 

だから、その疑いのある事柄を是正したなら問題はない・・・・はずなのだが・・・・。

 

 

 

そして、不思議なのはその某宗教団体の「問題視されている事柄」を政治的になんとかしようという話が、あまり聞こえてこない。

 

 

 

それより政治家と宗教団体の関係ばかりがクローズアップされている。

 

 

 

一人ぐらい、開き直る政治家がいてもいいんじゃないかなぁ。

 

 

 

と言いながらなんなんだが。

 

 

 

もし某宗教団体が本当に疑惑の件を解消したとする。

 

 

 

 

そうしたら日本国民が納得するだろうか?

 

 

 

まず無理であろう。

 

 

 

「疑念」という感情はそう簡単に収まらない。

 

 

 

本当にその関係を断つことができたかなどということを証明することは至難の業だし。

 

 

 

ロジック(論理)よりも感情が優先する。

 

 

 

それが人間の性なのだろう。

 

 

 

結局例の「国葬」の問題も、もし安倍氏を襲撃した理由が「某宗教団体のこと」でなかったら今ほどの騒ぎにはなっていないのではないだろうか。

 

 

 

私は安倍氏のパーソナリティ自体が、どこまでも怪しいと思っていたし、これも以前に記したように政治家として「品性にかけている」という認識だ。

 

 

 

先のことは分からない。

 

 

 

しかし、このことがもしかしたら自民党の終焉の始まりになるかもしれない・・・。

 

 

 

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、ものごとの本質を「感情」に流されませんように。

 

 

 

         May

 

 

それにしても。

 

某宗教団体はあの集金システムを、これだけ長い間維持し続けているのは驚愕である。

 

それを維持するために政治家とも結びついていたんじゃないかなぁ。

 

 

 

 

 

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