完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

そろそろ、先が見えた。。。     ~安倍総理の「驕り」~

2015年11月29日 | 時事ネタ
私は初老男である。


いよいよ今年もあと1ヵ月となった。


山の中腹まで雪が見える。


毎年のことながら・・・なんでこんなところに住んでいるんだろう?




ということで、先日阿部総理が、経団連との会合で



   「住宅の省エネを促進していく。来年度にトップランナー制度を白熱灯へ適用する」


と、発言したという。



この頃の彼は、いよいよ「迷走」している気がするのは私だけだろうか?


先回のUpで「ちょっとだけ、偉い人の感覚がわかった」と書いた。



しかし、そのUpでも記しておいたが 「見通せる結果」というのは、往々にして「思い込み」である可能性もあるのだ。


小泉純一郎という人が「郵政民営化」という「夢」を、青天の霹靂のような総理大臣就任で叶えた。


これは彼にとって「見通せる結果」だったかもしれないが、いまだにこれは私にとって国民にとって「正しい結果」であったかは怪しいと思う。


何度か記しているが「郵政民営化に反対するものは、すべて『抵抗勢力』です!」と彼は言っていたが、反対していた議員の中には「このやり方」が間違っていると言っていた人も少なくなかった。


私もそう思う。


郵政民営化は、もっと違う形で行えば今までにもっと効率的に事業展開が行われたと思えて仕方がない。

彼の「恋しい、恋しい」の思いが、早計な民営化を招き、様々な混乱を招いた気がしてならない。


その小泉氏の弟子(ではないのか・・・。ただ、この人のやり方をまねているようにみえる)の安倍晋三という人は、いよいよ驕りが見え始めている。



それが、冒頭の発言に表れている。



「LED」を使うことを経済界に要請しているらしいが、一国の総理・政治家の長が「電球の使用」を「財界」に要請するのである。



もちろん、強制力があるわけではないが小泉以前の総理が言ったのと、今の安倍総理が言ったのではその発言の意味は小さくない。


もっとも財界がそんなことで動くほどチャチではないだろうけれど・・・。




毛沢東という人物が「スズメは稲を食べる悪い鳥だ。みんなで駆逐しよう」と言った。


どうなったか知ってます?


ほぼ国民のすべてが「寄って集って」スズメを捕って殺してしまった。


すると、スズメが駆逐してた「昆虫たち」がこれ幸いと繁殖して田畑を荒らしまわって「大飢饉」がやってきて餓死する農民が現れた。


少々うろ覚えで申し訳ないが、これが毛沢東の最初の失敗であったらしい。


このことと、今の「白熱球」問題は同一視するほどのことはないかもしれない。


しかし、一国の首相たるものが「電気全般」のことを話すのはわかる。


が、こうした具体的な品目について発言するのは、その影響力よりも発言した「本人の意識」みたいなものに違和感を覚える。



それ以前に、わけのわからない「一億総活躍担当大臣」なる役職を作ったのも解せない。


今の「白熱球」発言と全く逆に「何をするための・やらせるための役職」なのかわからないし、いったいどんな権限を持っているのかも不明な役職手当をもらえる人を増やすのも、本人の「驕り」につながっているんじゃないだろうか・・・?


こうしたことは、政権における「衰退のキッカケ」である。


私の知っている政権争いの流れは、驚くほど緩くなってしまっているが、だからこそ「劇的」な何かが起こる予感がするなぁ。



今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、安倍総理のちょっとした「ヘンな感じ」を見逃しませんように。



           May


この人が政権に「執着」する人かどうかが、もうすぐ分かるよ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょっとわかった気がする・・・。      ~偉い人の「感覚」~

2015年11月22日 | Weblog
私は初老男である。


このブログを始めてほぼ10年が経とうとしている。


その頃は「完全無欠の中年日記」という名前だった。


実はいつ今の「完全無欠かもしれない初老男日記」に変えたか、失念してしまった。


まあ、それが大したことでないからほとんど意味はないのだけれど、自分がいつ「初老」を自覚したかを
確認するには、覚えておけばよかったと思う。




初老になると、本当にちょっとしたことで「先」が見通せるようなる。


まあ、多分に「勘違い」なのかもしれないが。



先日、会議があって同職の10数名とちょっとした議論になった。


「見通せる結果」というのがあると思うのだが、それが私以外の同輩たちにはわからないらしい。


仕事というのは、目にみえる結果を今よりも「ほんの少しの前進」のためには、目に見えない努力が「かなりの量」必要である。


大概の人は「努力」を少なく「成果」を多くと考えるだろう。


それ自体は間違っていないが、こと職人の世界はそうしたことは「ありえない」のである。


近道はない。


だが。。。

逆に言えば、できる近道・・・というか、効率的なことは積極的にやるべきだ。それをやらないと逆に「回り道」になってしまうのだ。


その近道を、同輩たちは「いやだ」という。



それは多分に「見通すこと」ができないからである。


そして、仕事に対しての情熱が少なくとも私とは違うからだ。


真剣でないとは言わない。


劇的な変化には拒否反応をするのは仕方のないことだ。



しかし、そのある程度の変化を受け入れないと、前進はない。


責任のある立場の人なら「権力」を使って、それをやらせることができる。


逆言えば、自分のやりたことをやろうと思えば、その「権力」を手に入れるしかない。


そして、それは多分にやりたいことが大きければ大きいほど「大きな権力」を手にしないとだめだ。




だが今の私は、そうした権力を仕事上に手に入れられる立場にない。



こうなると。。。


つまりは、あきらめるしかない。



まあ、今の仕事のクオリティが「下がる」わけではない。(正確には、現状維持というのは緩やかな「下落」を意味するのだけれどね)



こんな経験をすると、ちょっとだけ今の政治家たちもこんな気持ちなのであり、それを強行突破しようとすると今回の「安保法案」みたいなかたちになるだろうと思う。


しかも、その「見通している形」が「日本の未来」であるならば、今私が感じているような「焦燥感」はもっともっと大きいであろう。


なるほど、政治家としての資質が高ければ高いほど、そうなのであろう・・・。



しかし、やっぱり問題なのは


          
             「見えている先」


                が、本当に「正しくて、成し遂げられる物」であるかどうか?である。



それを見えている者として、見えていない者にある程度の納得をさせないと先に進めないのである。



それが「民主主義」というもののむずかしさだろう。



はっきり「正しく見える」ものでも、真剣に考えていない者もいれば、理解できない者もいる。


さらに、理解できていても感情的に反対するものもいる。


志が高ければ高いほど、そのジレンマは大きい・・・。



むずかしいよな。



政治家を含めた「偉い人の感覚」が、ちょっとわかった気がする。



今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、ちょっと気持ちがわかることができますように。



               May



しかし・・・・。見通せる先というのは、ほんのちょっとしたことで「歪」になる可能性が高いからなぁ。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんでこんなに切ないのだろう・・・。     ~老友が逝った~

2015年11月10日 | Weblog
私は初老男である。


唐突であるが・・・。


海外では「年の離れた友達」と言うのが少なくないと聞く。


日本の場合、やはり封建制の名残なのか歳が違うと「礼を尽くせ」的な不文律が生きていて、歳が違えば違うほど「友達」と言うような仲から遠ざかるようだ。


人間関係は全てそうだが、特に「友達」と言う関係は、本人同士がそうだと思わない限り成立しない。


だからこそ「年齢差のある友達」と言うのは、成立しにくいのだろう。



幸運なことに、私には父親よりも年上の「友達」がいた。


知り合ったのは20年以上前。


20代の終わりだった気がする。


私は本格的にバドミントンを初めて、夢中になり始めたころだった。


彼は60を目の前にしていたはずだ。



彼は数か月前から、同じ体育館の反対側で剣道を教えていた。


痩身の温和な笑顔の初老男。


それが彼だった。



はじめは「冗談」だと思った。


少しでも本気でバドミントンをやったことのある人なら分かると思うのだが、数あるスポーツの中でバドミントンは、屈指の「ハードスポーツ」なのである。


60代近くなって始めるようなスポーツではない。


しかも、体育館の反対側で剣道を教えていた人が「なんで?」と思った。


そして、すぐに彼は練習に来なくなるだろうとも。


若い人がクラブに顔を出しては、数カ月でやめてしまうことが珍しくないバドミントンと言う競技を50代後半の人間が続くわけがない。



しかし、彼はその後10年近くバドミントンを続けたのだ。


失礼だがバドミントンの実力派ほとんど上がらなかったが、一生懸命で練習に打ち込んでいるのは当然分かった。


自分の子どもどころか孫に近い若い仲間と、いつも温和な笑顔と共に。


私のところに、ラケットのガットを張ってくれと来たことも何度かある。




私は、結局40代の後半にはバドミントンをなし崩し的に引退してしまった。


農業と言う翻意でない家業・立ち回りの忙しい調理業務そして、激しいバドミントン。


それを続けて、身体の方が悲鳴を上げてしまい「熱意」よりも、身体の保全の方が大事になってしまった。


歳を取ってからの怪我は、身体よりも「心」が折れる。


それが彼がバドミントンを始めた歳まで、私が続けられなかった主たる原因だ。


しかし、彼にも私と同じかそれ以上の故障や持っていたのではないだろうか・・・。



それでも、今の私よりも歳を取ってからバドミントンを始めたのだ。


だからこそ、彼の凄さが身に染みる。


プライベートでは、ほとんど付き合いは無かったけれど間違いなく彼は私の「友」であった。



85歳の彼の悲報は、昨日「年賀欠礼」の形で届いた。



今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、友と呼べる歳の離れた人を見つけますように。



       May



・・・・。人の死がこの頃、沸々と背中に迫る・・・。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする