完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

関口さんの「芸風」なのか、それとも・・・?     ~いつも見るワイドショー~

2015年03月23日 | テレビ
私は初老男である。


少し思うところあって、ブログを精力的にUpしようと思う。


・・・・かなり疑わしいけれど。



ほぼ、毎週日曜日の朝はワイドショーを見ている。(タイトルの名前で分かってしまうだろうけれど)


最近の彼は、こうした政治色の強いワイドショーの司会が当たり役のようだ。


しかし、この人は結局のところ「バイプレーヤー俳優」以上の重みをもっているとは、私には思えない。


・・・っていうか、この人政治にもスポーツにも文化にも興味ないんじゃないだろうか?


特にスポーツコーナーではズレまくっている気がする。



昨日もサッカーのブンデスリーガの香川の得点に



          「ごっつぁんゴールだ。私でもできる!」



                             なる発言をしていた。


過去にも、香川がドイツ・イタリアで活躍していた時に、日本代表に招集されてもあまり活躍できないことを批判していた。(まあ、批判程ではないか・・・)



彼は71歳。



これくらいの歳の人なら仕方がないのかもしれないが、ちょっと、いやずいぶんズレている。



目の前に転がってきたボールを蹴ることは、彼が思っている程「簡単」ではない。


日頃のサッカーチームで活躍している選手だって代表で活躍できないなんて話はJリーガーでも良くある話だ。


その上に海外に行った選手は、シーズンの違い・気候の違い・周りの選手のプレーのレベルの違いを乗り越えなければ日本代表で活躍できない。


ある意味、海外での活躍が華々しい人ほど活躍しづらいということにるのでは無いだろうか。


そのことを関口さんあたりには、理解できないだろうなぁ。




そして、もう一人の「彼」のはなし。


そう、張本ご意見番のこと。


彼は74歳。


根っからの野球人である彼は、他のスポーツの事にもそれなりの知識を持っているのは分かるが、結局すべての物を「野球目線」で物を見ている。


私のようなヒネクレ者から見れば、この関口・張本両氏の「ズレ加減」は・・・。


おそらく「恣意的」に修正せずにいるのだ。


勿論、その黙認はほかの「発信情報」にも見え隠れする。


このテレビ局のワイドショーの・・・と言うより放送に対する意識そのものが、微妙にズレている感がずっとしている。


4月からのクールに、この局は新たなワイドショーを企画しているらしいが、少しずつその「恣意的」な部分を増やしていくんじゃないかなぁ。




今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、テレビ局の単純な「恣意」に乗せられませんように。



              May



どんな話にも「表」があれば「裏」があるってか。







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初老男、歳を実感する。      ~桂米朝逝去に思う~

2015年03月21日 | 
私は初老男である。


自分の歳を実感することは、歳を取れば取るほどその機会が増える。


大きな声でいうことではない。


当たり前のことだ。


特に「人の死」は、自分が生きてきた時間と残りの時間を実感させる。


リリーフランキーの「東京タワー」の中に、主人公のおばさんが「男は母親を送って初めて一人前だからね」と言うセリフがある。(ちょっと違った?)


名言である。


しかし、母親でなくても「人の死」は充分人間を大人にする。



            
          「桂米朝」


が亡くなった。



過去のこの人のことを記したのは2009年で、彼が文化勲章を授与されたときだ。


その時でも、たしか彼は高座には上がっていなかったと思う。


そうした意味でも、彼の落語を聞いたことがある人は減っているだろう。


まあ、私とて彼の落語を直接聞いたことがあるわけではないが・・・。


しかし、少しは落語ファンであろうとしている人間として、彼の落語・本・ひととなりに触れてきたつもりだ。


そして改めて思う。


桂米朝と同じ時代を過ごせて幸せだ、と。



何事にも、興味を持ちはじめたときに「根」となるものがある。


落語を興味をもって聞き始めたのは20代のはじめだったが、まずは江戸落語で「圓生」「志ん生」「圓楽」などの名人たち。


そして、上方落語。


落語よりも先に様々な活躍をしていたのが「桂三枝(現文枝)」「笑福亭仁鶴」であり、知ってはいたが、本格的に聞いたのは



           「桂枝雀」


いまだに、落語を聞くときはこの人の物が一番多い。


その枝雀の師匠が誰あろう米朝なのである。



桂枝雀は「時を感じさせない」落語家である。


彼が演じる人たちは、現実に隣にいる存在感がある。


逆に、米朝は「時を感じさせる」落語家だろう。


まるでタイムスリップしたかのように、昔の大坂の問屋の中に引き込まれる感覚。


番頭や丁稚に向かって「しっかりしな、あかんで」っていうセリフが、これほど似合う落語家はもう出てこないだろう。


そう、上方落語を聞くときは、この人が私の「根」になっているである。


高度な情報化社会になって・・・、そんなセリフさえ陳腐になった今の時代だ。


その中で「自分を見失わない」でいることは容易いことではない。


米朝の落語を聴くことには、そのことの効力がある。


これからも、私は米朝を聴きつづけるだろう。


ただ、本人が鬼籍に入ってしまったことで「。」を打たれたような突き放された気分になる。



これこそが、ある意味での「大人」になることだと感じるのだ。



今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも「同じ時間を過ごせてしあわせだ」という人を見つけますように。



        May



芸の伝承と言う意味において、落語家たちはほとんど形を受け継ぐのではなく「精神性」を受け継ぐモノなのだろう。米朝の弟子たちは、少しも彼の形を受け継いでいないように見える。









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心で感じることができるなら。    ~ホキ美術館に行ってきた2~

2015年03月15日 | Weblog
私は初老男である。


前回のつづきである。


まず「百聞は一見にしかず。~ホキ美術館に行ってきた1~」を読んでほしい。



         (野田弘志の絵を見て)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


絶句せざるを得ない。


最近の野田氏の絵は「巨大」である。それまでのギャラリーで見てきた絵をはるかに超える大きさだ。


写実絵画において作品の大きさが持つ意味は非常に大きい。


制作時間が当然伸びるし、大きければ大きいほど写実が難しくなる。


しかし、その分見る者にとってのインパクトは格段に大きい。



私の鑑賞法は、多分にほかの入館者の迷惑をかけるのでお勧めできないが、この方法が一番絵を理解できると思っている。


まず、絵にぴったりくっついて画家が筆を使ったであろう距離で鑑賞する。


そして、絵を見ながらゆっくりと後ずさり、その絵の「ベスト鑑賞点」を見つける。


大きな絵ほど、その「ベスト鑑賞点」は遠くなる。


野田氏の絵は、特に離れる。


そして、やはり本物を見たことで分かったことがある。


写実絵画は、近づけば近づくほど「細かい部分が細密に描かれていない」ということ。


先ほどの、絵の「ベスト鑑賞点」の話の裏付けになるのだが、小さな絵なら描いている人間の視点と見る人の視点がほぼ同じになる。


我々素人が、描けば当然そうなる。


しかし、ある程度に離れたところに「ベスト鑑賞点」がある場合、その鑑賞点で一番「写実」になるように描かなければならない。


それができてこそ「画家」なのであろうけれど。


元々写真と言うものだって、ルーペで見れば三原色の配合を変えた「点」の集まりでしかない。


どんな絵画でもそうであるが、写実絵画においてレプリカや印刷はある意味もっともその作品の良くない見本になっているのでは無いだろうか・・・。



絵を仕上がりと言うものは、私が生業としている調理における仕上がり似ていて「どこで止めるか」が問題なのだと思う。


そして、それがすべての印象を決めおそらく評価も決めてしまう。


それは当たり前だが「取り返し」がきかない。


大きな違いは、調理の方が圧倒的に時間が短いということ。



写実絵画を描くにおいて、短くとも数日。長ければ年単位の時間が必要だろう。

(聴くところによると7年以上の時間をかけたりするという)


日本人の「物作り」に対する観念は、世界的にも有名であるが日本人画家にとっての「職人意識」に近いものがこうした写実絵画にも発揮されているように思えてならない。



今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、写実絵画の中にある静謐を感じ取るれますように。


           May


・・・写実絵画における「裸婦」に、本当の美を感じれる歳になったなぁ。








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百聞は一見にしかず。    ~ホキ美術館に行ってきた1~

2015年03月11日 | Weblog
私は初老男である。


「人生」と言うものは、儘ならないモノである。


自分の人生においては「幸運」だったことも多々あると自覚することも決して少なくない。


しかし、ほんの数日遅れただけで出来るはずのことができなくなると自分の「運の無さ」を実感する。


まあ、すべては「糾える暖簾のごとし」である。



閑話休題。


前々から気になっていた美術館があった。



      「ホキ美術館」


               である。



千葉県千葉市にある写実絵画専門の美術館だ。


美術と言うものに詳しいとはとても言えない私だが、やはり「本物を見極める目」と言うものは持っていなければならない。


そして「本物」と言うものは「直に触れてみる」意外に本質をつかむことができない。


美術品は特に印刷物では絶対に分からないのである。


だから、年に一度程度美術館に行ったりする。



子どもの頃に「絵」と言うものに「写実」を求めたことは無いだろうか。


見たそのままを写し取る。


写真と言う技術が生み出されるまで「絵」に求められたのは、それではないかと思う。




そして、今のデジタルなバーチャル世界においての「写実絵画」と言うものの意味はどこにあるのか?


見たそのままを写し取るであれば「写真」の方がいい。(実際は、写真は見たそのままを写し取らない。そこに写真の面白さがあるのだが・・・)


そんなことを考えながら、その作品の数々をネットや書籍で下調べをしながら5時間ほどの千葉まで道のりを過ごした。


・・・さすがに遠かった。



目指すホキ美術館は、住宅街のど真ん中にあった。


新興住宅地らしき閑静な家が並ぶ中で、ひときわ奇妙な建物がそうだった。


入場料は1800円。


美術館としては「高い」方だろう。


まず、石黒賢一郎の「SHAFT TOWAR」が目に飛び込んでくる。



・・・この一枚ですでに一つの疑問の答えが出た。


それはごく単純なこと。


写真と言うものは、焦点を合わせるとそれ以外の部分はぼやけてしまうが、写実絵画はすべてに焦点を合わせることができる。


それによって「写真を越える写実」が生まれる。


そして、次々に写実絵画の有名画家の絵が続く。


森本草介・青木敏郎・小尾修・五味文彦・原雅幸・生島浩


そうそうたるメンバーである。


しかし、私の最も好む画家は・・・・島村信之である。


最近のこの人の絵は「光」を味方につけている。


数年前には見られなかった「輝き」というか「明るさ」というか、そうしたものが写実を越えつつある。


そして、どうしても見たかったのが



        「野田弘志展」


                   である。


現代写実絵画を牽引してきた、野田氏の作品はどうしても見ておきたかった。


文字数が多くなりすぎた。


一旦、ここでおわりにしよう。


すぐにつづきをUpします。



今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、本物に触れる機会を増やしますように。



              May


「写実」と言うものには、単なる「絵」を越えるものが表現されている。


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