完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

大事なのは「感覚」     ~道具選びの条件~

2016年07月26日 | いま興味のあること
私は初老男である。


幾つかの「状況変化」によって、休日の過ごし方が「わからなく」なっている。


やはり、初老になってからから特に「時間の使い方」に「焦り」を感じてしまう。


3連休の最終日ともなると、特にそうだ。



・・・・たぶんだけれど、こうした「焦り」はかなりの時間を経ないと、無くならないだろう。



もしかしたら、ずっと解消されないかもしれない。




ということで。



先日、ある失敗をした。


仕事における文書に万年筆を使ってしまい、上司から注意を受けた。



そうである、仕事における文書は「油性インク」のものを使わなければならないのである。


提出した文書にふとしたことから、水が垂れてしまい字がにじんでしまったからだ。



しばらく、その「書き味の良さ」から万年筆を使ってしまっていた。


こうなると、当然ペンを油性のモノに変えなければならない。




となると、初老男は・・・・。


困ったことに「安物のボールペン」を使えない。


そうでなくとも、悪筆な私が安物を使ったのでは読めたものでは無いのだ。


私もあと数年で定年である。


仕事での文書の作成も、それほどは多くないだろう。



ということでボールペンを買いに行った。



さて、


          「安物」



と書いたが、ではいくらからが「安物」でないのか。



というより、値段とパフォーマンスが釣り合うものであれば、単純に「安物」とは呼ばない。



100円ショップでも、それなりの「パフォーマンス」があれば、十分使える。



ただ私の場合、そのパフォーマンスのレベルが、もしかすると「ちょっと高い」かもしれない。



まず、1000円代のものから試し書きをしてみる。


次々に2000円代・3000円代のものと試してみる。


どの価格帯にも「複合筆記具」がある。



つまり、2本以上のペンが1本になっているものだ。


便利ではあるが、私は研修や外での会議の時しか使わない。


しっかりとした事務を執るときには、あまりお勧めしない。


やはり「バランス」が悪い気がする。




結局、私が選んだのは・・・・


          「5000円のボールペン」

                        である。



3000円までのボールペンと、選んだものとの決定的な違いは何か?




それは、単純に言えば「重さ」である。


3000円以下のものは、私のような初老男が字を書こうとした場合「ペン先が安定」しないのである。


ある程度の太さも重要で、握力が低下しつつある私には「細く邪魔にならないペン」は、ペン先を細かくコントロールできない。



ペンにおいて「太さと重さのバランス」が、歳を重ねる度に重要になってきた。


5000円という値段は、若い人に限らず「字を書くこと」に、あまり強い執着を持たない人には考えられない値であろう。



しかし、冒頭のセリフを繰り返すことにする。


「わたしもあと数年で定年である。仕事での文書の作成も、それほどは多くないだろう。」


そうした中で、少しでも自分が納得する「字を書くこと」(仕事をすること)に対して、この値段のペンは、決して高くない。


・・・・もしかすると「そんな安物wwwwww」って人も少ないくないのかな?



今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、他人の言葉よりも「自分の感覚」を信じますように。




             May



ボールペンのすごいところは、中の芯を「リフィル」として、売っているからずっと使えるところであろう。このペンのリフィルは・・・「240円」いかにその「外身」の方が大事であるかってことだね。




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やりたい人って「本当に」やりたいの?その2      ~国政と地方自治、それぞれのやりたいこと~

2016年07月13日 | 時事ネタ
私初老男である。



南シナ海を巡る仲裁裁判所の判決は、中国側の完敗と言える結果となった。


初老男としてはこの「東アジア」のことに少なから興味を持ってきた人間としては・・・・。


          「ざまあみろ!」


                      である。


しかし「あの中国」は「空気を読む」なんてことは、絶対にしないのである。



残念ながら、最悪のシナリオとして「南および東シナ海での武力衝突」の可能性が「少しだけ」高くなった。



まあ、あの国はどこまで行っても「冷静な議論・理性的なブレーキ」が存在する国ではないということを、ベースに置いておいたお方がよい。


       
         「馬鹿を相手にすると『共馬鹿』になる」


死んだ私の婆様が言っていた。



ああした国とは、なるべく「相手にしない」というのが得策である。




ということで、前回の続き。



舛添要一という人は、最後に「都民のために、私にオリンピックの旗を受け取らしてほしい」といっていた。


つまり「都民にとって」といいながら、彼は、なんとしても「オリンピックの旗をリオ市長から『自分』で」受け取りたかったのだ。



・・・・・そりゃあ、辞任しなきゃなんないわなぁ。結局「自分が」だもん。



どんな人が都知事になっても「私が」が主語につくような人であれば「小舛添」になるだけだ。



「行政」においては、結局「役人」がしっかりしていれば、80%はうまく回っていく。


そうでなければ、週に1度か2度しか知事が登庁しなくても「行政が滞り無く」流れていくわけがない。



問題なのは「残りの20%」の部分である。



この「20%」が、新しい行政を進めていく上での「決断」であり「政治手法」になる。


それをどれだけ持っているかが、都知事になる「資格」といえるだろう。




おそらく、ほとんどの「地方行政」は、(もしかすると「国政」も)優秀な官僚・役人がいれば進んでいくのであろう。



どこかでもUpしたが、政治家はどれくらい「無私」の心が宿っているかで政治家としての「器の大きさ」が決まる。



これは世の東西を問わない。


いよいよ「本題」に入りますが・・・・・。



今回の都知事選において、投票の基準も「これに尽きる」のある。




昨日、鳥越氏が立候補を表明したが、その立候補における記者会見を聞いていて「国政のことと都政のことは違うんじゃない?」と思った人は少ないくないはずだ。


それは、当然「小池某」にも当てはまる。


宇都宮氏は「苦渋の決断」といって、立候補を取り下げた。


いかに未指数とはいえ、かれの都政を見てみたかったと思う。




私の個人的な思いであるが、もう「パフォーマンスとしての政治理念」はもううんざりだ!


しばらく浮ついていた「行政の肝となる20%」を、行政経験で埋める人が就任するべきではないだろうか。



最後に、関係ないかもしれない話。



「小説吉田学校」(戸川伊佐武著)という本が、あり、私はむさぼるように読んだ。


この本は「党人政治」vs「官僚政治」を描いたものであり、結局どちらが良いというような結論は描かれていない。


今、都知事選はある種この疑問における一つの究極の「答え」を探る戦いになる気がする。



今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、結局本質的に「政治家」が、何をやりたいのかを見極めて投票しますように。



               May



・・・・・・・・・・・どちらにせよ、私は東京都民でないから「投票権」は無いのさ!




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やりたい人って「本当に」やりたいの?その1      ~都政・国政・市政・町政と首長~

2016年07月11日 | 時事ネタ
私は初老男である。



毎週見るとはなしに見ている日曜のモーニングショーでのスポーツコーナー。


張本って人が、また、私の神経を逆なでする。



サッカーのユーロ選手権の映像に


           
            「こんなもののどこが面白いの?」


                              とのたまった。




彼の年齢・経歴では仕方がないのかもしれないが、妙にイライラさせる発言だ。



ちょっとしたスポーツ好きなら、どう見ても「Jリーグ」よりこちらの方が面白い。


もちろん、これは私の「私見」だから、人の押し付けるつもりはない。


まあ、彼は職業として「こうした発言」をしてなんぼの存在になっているのだろうから、私のような者をイラつかせてこその存在なのかもしれないが・・・・。



ということで「例の」話。






今更ながらであるが、舛添要一という人は「本当に都知事に向いていなかった」のであろうか・・・?


逆に言えば「都知事に向いている人」というのは、どんな人なのであろうか?




それ以前に「政治家」とひとくくりにするが、それはどこいらへんまでの人を言うのだろう?


調べてみると、

「衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長の職」(国会議員、地方議員、地方首長)は公職選挙法の適用対象となる公職とされ、公職にある者、公職の候補者または候補者となろうとする者が政治家の代表的な存在である。副知事、副市長、民間人閣僚、政治を志している人(政治活動家)も政治家と呼んで差し支えない。


しかし、その後に

行政において裁量権を持つ高級官僚は、一般に「行政家」(もしくは行政官)と呼ばれ政治家に含めないことが多いが、広義の意味では政治家に含める場合がある(明治憲法下での貴族院勅選議員の大半もこのような高級官僚出身者であり、厳密な意味で「政治家」なのか否かについては曖昧である。


ともある。



国家・地方の行政においての首長は、やはり「政治家」のくくりに入れてよいのであろう。



しかしである。


多分、議会における「議員」と自治体の「首長」に必要な資質は「別のもの」ではなかろうか・・・。


また「町」における議員・町長のに必要な資質と「県・府・都」における議員・知事に必要な資質もまた、然り。


さらに言えば「国会議員」に必要な資質と「都知事」に必要な資質も、然り、しかり。


私はこう思うのである。


まず、本人がその「志」として政治的に「やりたいこと」が「強く」あることが最低の条件だと思っている。



という意味では「青島幸男」なる人は百歩譲って都知事になることに違和感を「それほど」は覚えなかった。(まあ、ナントカ博なるものを開催しない。という何とも言いようのない志だけれどね)


しかし、その後の「石原慎太郎」という人は、本当に「都知事」になりたかったか、わたしは疑問である。


あれだけ「国政」で、様々な丁々発止のやり取りをしていた「国会議員」だった人が、なぜ「都知事」になったのか?



・・・ということで、文字数が多くなりすぎたので、続きは「その2」に譲ります。



今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、自分の人生に「これだけはやりたい!という志」を持ちますように。




                  May



結局、石田って人は出馬しなかったんね。(・・・・・・あったり、まえじゃ!)



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今の選挙制度っていうもの。       ~参院選投票日に思う~

2016年07月10日 | 時事ネタ
私は初老男である。


参院選の投票日である。



前々からいっていることの繰り返しになるが・・・・。



今の「小選挙区・比例代表並立制」は「民意」を反映されにくい。



もともとどんな選挙制度であっても「民意を完全に反映する」ことはできないのであろうが、いまの制度は特にひどい。



政治・社会のことを少しでも考えている人であれば、今のこの制度は「圧勝」するか「大敗」する可能性が大きすぎるものであることに気が付くだろう。




民主党が政権を握った時のことを思い出してもらうと分かりやすい。(握ってからもひどかったけどね。)



「片方の失敗」は、顕著に「もう片方への期待」になる。



本当のところ、政治家にとってもっとも「怖い」のは「選挙に落選する」ことのはずだから・・・・・



          「次の選挙で落ちるかもしれない」



と思わせれば「真剣に」活動するようになるはずだ。



そうするためには、政党の力が拮抗している方が望ましい。



しかも、議会制民主においては「政党」単位での活動が基本であるから・・・・。というより、選挙制度自体がそう決められている。


ゆえに政治家が政治家としての活動をしようと思っても「政党」の属さなければ、思ったような活動ができないことになる。


しかし、多分に日本においては「政党」より「政治家個人」を選挙にのぞんでいたはずだ。(おらが地域の代表って感じね)


さらに〇か✖かの選び方の選挙は「死票」を増やしてしまう。



だから、政党の支持を拮抗させようとしても、選挙民たちが余程上手に計画して票を投じないかぎり当選者の数を「拮抗」させることはできない。


つまり、そんなことは「ありえない」のである。



やはり、そうしたことを踏まえても、



                   「中選挙区制」


                             を復活してほしいのである。



今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも自分の投じた票が「しっかり生きる形」を考えますように。





                 May



。。。。今の選挙制度って、政党にとってはある意味「都合の良い制度」だから、簡単に変えられるとは思えないけどねぇ。








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非常に「惜しい!」     ~ドラマ「火車」見ました。~

2016年07月09日 | テレビ
私は初老男である。


九州地方では大雨。


関東地方は、水不足で給水制限。


台湾に向かっては「猛烈な台風」が上陸。


我が地域も、小雪の影響での水不足が懸念。


なんでこんなにうまくいかないのだろう。。。。


・・・・・自然の大きな力の前では、人間は本当に「ちっぽけ」だと思わざるを得ない。



ということで、


          ドラマ「火車」


                       見ました。




宮部みゆきは、当代でも屈指の女流作家である。


「レベル7」を最初に読んで、その本の厚さに相対しない「読みやすさ・内容の濃さ」に瞠目した。


歴史に興味を持つものとしては「蒲生亭事件」も忘れられない。


彼女は、私と「同い年」の55歳。


ほぼ同じ時を過ごしたといえる。



彼女は、やはりモーツァルトにも似た「天才」なのだろう。


ほとんどのストーリーが「天から降りてくる」形で、文字になっていくという。



「火車」も、1993年に書かれた傑作だ。


今回見たのは、上川隆也・佐々木希・寺脇康文というキャストで2011年11月に放送されたものの、再放送だ。


ほかにも、田畑智子・ガレッジセールゴリなど、脇もなかなかの充実に見えた。


もともと、宮部作品は2時間ドラマを見ているような展開の良さがあるが、それを「ダレる」ことなく映像化している。



しかし、



しかし・・・・・・・。



しかしである。



「当然」のことながら、本で読んだラストの「緊張感・高揚感」の伝わってこなかった。


佐々木希の「一言も発しない」演技も、充分緊張・高揚するのではあるが。。。




その原因は・・・・・・。



宮部みゆきという作家の「天才性」にある気がする。


彼女は小説を書くときに登場人物を「完全なるスクエア」(実在の人物をイメージしない、という意味)で進めるという。



つまり、ここにその種がある。


私の読書法は全く逆で、登場人物を男優・女優の誰かをイメージとして当てはめて進める。


ゆえに「そのギャップ」が、ラストの緊張・高揚を生む。




☆☆☆☆☆☆☆☆☆もし、本を読んでいない人。ネタバレがあるので、注意して!☆☆☆☆☆☆☆☆☆





よくできたドラマではあるが、つまり、本にあるラストの「新城喬子の登場」に「佐々木希という女優」のイメージを強要された時点で、緊張・高揚が削がれてしまっているのだ。



つまり、それは・・・・・・・・。



これを言ったらおしまいって話になるのだが・・・・・・・・・・・・・・・。



ドラマを見始めたときに、すでに「火車」という小説を読んでいたことで、何割か緊張・高揚が割り引かれていたのだ・・・・。



今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、面白いドラマにがっかりすることがありませんように。



             May



・・・・ここまで書いてきて、何なのではあるが・・・・小説を原作として「映像化」するとだいたい失敗するけど、この「火車」はずいぶんよくできていたと思うよ。


















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