完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

平成が終わり、昭和が消える。   ~ショーケン・チャコ死す~

2019年03月29日 | 時事ネタ



私は初老男である。





ショーケンが死んだ。





もしかすると、若い人は「ショーケン」と聞いて誰か分からないかもしれない。






萩原健一は68歳で死んだ。








私よりたった10歳しか歳上でしかない。







本当のところ、ショーケンのことをそんなに好きだったわけじゃない。








私はそういう意味で「スキ」「キライ」のハッキリしているタイプだ。








ただ、ショーケンという人の存在は、間違いなく「昭和という時代」の象徴だった。








日本が高度成長期を迎えたその時に、そこここにいた「不安定な若者」の代表というべき存在。







彼の浮き沈みの大きい生き方が、昭和の男たちにはただ単に「カッコいい」だけのヒーローでは無く身近な存在と感じられたのは間違いないだろう。








そして、逝き方も彼らしい。











チャコが逝った。







チャコというだけでは、ショーケン以上に分からない人も多いだろう。






白石冬美は82歳で逝った。







うちのオヤジと4歳しか違わない。






ラジオ番組「ナチチャコ パック」を、私は聞けなかった。






ニッポン放送を中心に聞いていたからだ。







私の世代において「声優」という職業の人は、今より極端に少なかった。






ゆえにちょっと聞き慣れれば、その声優がだれであるかはすぐ分かった。







チャコこと白石冬美の声は、とても特徴的だ。







なかでも「パタリロ!」の声は、彼女の魅力がすべて詰まった名演技だった。








時は移り、すべてのことは「デジタル」で「リアル」なっている。







しかし、不思議なことに「アナログ」で「作り物臭い」ものにより大きなイメージや郷愁を感じるのは、私が「初老」だからなのか。







まもなく平成が終わる。








そして、内田裕也・ショーケン・チャコが新しい元号を迎えずに逝ってしまった。








それは「昭和の消滅」でもあるような気がする・・・。








今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、消えゆく昭和に想いを馳せますように。








               May







平成だって結構長かったんだけど・・・。昭和はその倍以上あったからねぇ。



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改めて思いました。    ~柳家小さんの落語を聞く~

2019年03月21日 | 落語


私は初老男である。







花粉症が始まった。








今年は遅い。









これはもう治らないんだろうなぁ。








『落語 昭和の名人』なる隔週CD全集シリーズの第3弾が発売されている。








ファーストシリーズは全巻を揃えているが・・・・。








セカンドシリーズには手が出なかった。








そして今回。







相も変わらず「古今亭志ん生」が、第一号ってのがどうも気に入らない。








が、今回はちょっと気になったので購入したのが・・・。





 


          柳家小さん「うどん屋・湯屋番・狸賽」







                                 である。






私には悪い癖がある。











今現在の「凄い物」の価値を認識できない。









という癖である。









例として







            「山口百恵」「古今亭志ん朝」







山口百恵の本当の凄さが分かったのは、彼女が引退して数十年経ってから。










古今亭志ん朝の落語をチャンと聞いたのも、彼が鬼籍に入ってかなり経ってからだ。










ついつい「世間的に人気のあるもの」へ対してヒネクレ者らしい対応になってしまう。









柳家小さんという落語家の落語も、その一つであろう。









私にとっての「巨匠」という存在の落語家は、おそらく彼と「三遊亭圓生」の二人である。









そして、その頃の好みでは圧倒的に圓生であり、カセット時代に初めて買ったのも圓生の「一人酒盛り」「死神」だった。










そして、今回ほとんど聞いたことの無かった「彼」のCDを買ってみた。








買った理由が「うどん屋」が演目にあったからだ。











毎度落語噺になると引き合いに出してしまうが、桂枝雀の「風邪うどん」を私は好んでいる。










上方落語での「風邪うどん」が江戸落語に移植されて「うどん屋」になったらしい。









枝雀の「風邪うどん」は絶品である。










話としては「単純」である。









小噺と呼んでもいいような内容とオチである。








しかし、笑いというモノの感覚を色褪せさせない枝雀の技術においては爆笑となる。








酔っぱらいがうどん屋に絡むシーンなどは本当に笑える。








そうした「笑い」を取ってこそ「落語」だと、つい最近まで思っていた。









しかし、今回このCDを聴いていて思う。








「落語」というモノは「爆笑」させることが必ずしも「正解」ではないのだ。









初老男となってみて分かってきた。








落語には「伝統芸能」としての重みがある。








江戸落語には特に「歴史的」「日本文化的」な部分を残している。







「湯屋番」の中で若旦那が湯屋の主人に「白波五人男」のセリフを引用する所などは、歌舞伎を知らないければ全く分からない。








逆に言えば、そのことに笑えなければ小さんの落語の面白さは理解できないのだ。









柳家小さんは偉大だったんだなぁ・・・。







改めて思い知りました。








今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、歳を取るごとにモノの重みを思い知りますように。








             May







「狸賽」なんて、本当に小さんでなければ出せない味があるよなぁ。


























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