中国の儒学に照らしても、信長の天下取り行動は、明らかに、
「放伐(ほうばつ)の思想」(放伐:暴君や暗君を討伐して都から追放するという行為)
に依拠していたことは間違いない。
だからこそ、信長は、明智光秀にも討たれた。明智光秀もまた教養人であり、当然、放伐の思想を知っていた。
彼から見た信長は、
「悪徳王」
であって、決して徳のある王とは思えなかった。
だから、天命に従って、信長を討つことこそ、この国のためになり、またこの国の人民のためになると信じたのである。明智光秀も、また単なる天下取りではなかった。彼の行動には、はっきり思想的根拠があったのである。
ちなみに、明智光秀は、自分の拠点であった、京都の北にある亀岡地帯を周山と呼んだ。この名残りは、今も京北の町七周山街道として残っている。戦国武将達は、自分達の権力闘争が血まみれで、どろどろしたものであるだけに、逆に理論的根拠を、孟子の放伐思想に求めたといってよいだろう。
話はちがうが、こういうように、歴史の法則である主権の下降という基準から見れば、日本歴史における、いわゆる、
「三大政治変革事件」
は、この歴史の法則に逆行するものといわざるを得ない。それは、天皇から貴族へ、貴族から武士へ、武士から下級武士へ、そして下級武士から市民へという主権の下降の原則に、全く背くからである。
日本で三大政治変革事件というのは、大化の改新・建武の新政・明治維新の三つをいう。
共通することがある。共通する事項というのは、この三大変革が、すべて、
「王政」
で貫かれていることである。
大化の改新も天皇親政が目的であり、建武の新政も後醍醐帝による親政が目的であり、明治維新の別名は、はっきり王政復古といった。だからこそ、これらの三大変革は決して長続きしなかった。それは、反乱者が多かったからではない。歴史の法則に背くからこそ長続きしなかったのだ。
我々に身近なところでは、明治維新から、百年たたないうちに、大東亜戦争というばかな事件もあったが、結局新憲法の下における民主政治に移行せざるを得なかった。民、王憲法では、主権は、明らかに、
「国民」
の手に渡った。もうこれ以上下がりようがない所まで、主権は下降現象を続けてきた。
従って、これをいったん手にした市民は、あくまでもこの主権を守り抜かなければならない。
それが、時折、妙な散発現象が起こることがある。しかし、歴史の法則というのは、こういうものであって、たとえ散発的に逆流現象が起こっても、大河のようなうねりや流れは、決して元へ遡ることはない。川を流れた水は、悠々として大海に注ぎ、溶け込んでいくのである。市民が握った主権が、二度と遡行することはない。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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