このゆびと~まれ!

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最後の日本兵 小野田さんの生き様

2015年12月21日 | 人生

太平洋戦争終結後も戦争が続いていると信じ、フィリピンのルソン島で30年もパルチザンとして生活を続けた小野田寛郎(ひろお)さんが帰国後40年、91歳で亡くなった。

「小野田さんはおそらく日本人兵士としては世界で一番名の知れた人物だっただろう。勇敢さ、兵士としての忍耐強さのお手本だった。この人は百年たっても語り継がれるだろう。」
これは数年前、ロシア語のあるWebサイトに寄せられた一文だ。

2014年1月、小野田さんは亡くなられたが、当時のテレビ番組(TVタックル)で北野武さんが、小野田さんのエピソードを語っておられた。

一つは、靖国神社のA級戦犯合祀のことでした。A級戦犯の御魂は分けなければならないのではと言ったところ、小野田さんは、「私たち戦友は、靖国で会おうと言って死んだのですから、分けてもらっては困るのです」とおっしゃいました。

また、小野田さんが、「天皇陛下にお会いしたくない」とおっしゃったことが、マスコミに伝わり、マスコミは、小野田さんは天皇陛下を嫌っていると書きたてたのでした。

しかし、真実はそうでないと小野田さんは言われました。真実は、「私が天皇陛下にお会いすれば、天皇陛下は必ず、『ご苦労をお掛けしましたね』といって頭を下げられる、このようなことを天皇陛下にさせてはいけないので、お会いしないのだ」と言われたそうです。

小野田さんは、日本の若き冒険家・鈴木 紀夫(すずき のりお)さんが現地ルソン島を訪れ、発見されました。

しかし、小野田さんは当初、日本には帰ることはできないと帰還しなかったのです。
それは、私の上官の帰還命令がなければ任務を解くことが出来ないからだと言われたのです。

このとき、鈴木さんは小野田さんの写真を撮り、日本に戻って当時生きておられた上官である谷口義美元陸軍少佐に伝えた。それで1974年、谷口さんが現地ルソン島を訪れ、小野田さんに直接、口達による任務解除命令を伝え、帰国となったのでした。

その後、「パンダ・小野田さん・雪男に会うのが夢だ」と語っていた若き冒険家・鈴木さんは、最後に残った「雪男発見」に情熱を注ぐべく、ヒマラヤに向かい、1986年11月ダウラギリIV峰ベースキャンプ附近で遭難し、遺体で発見された。享年38であった。

小野田さんは遠いヒマラヤの現地までおもむき、鈴木さんの霊にお礼を言ったのでした。
この律儀さを昔の日本人は持ち合わせていたのです。

ロシアでは小野田さんについて、大きな新聞もふくめ、本当にいろんなところで書きたてられた。
そうした文章はほとんどいつも尊敬の念がこめられ、感激に満ちたものだった。

小野田さん以外の日本兵で東南アジアのジャングルのなかに何十年も潜み、司令官の命令を守り続けた人びとに対しても同じようにロシア人は感動を表したものだった。

ここでロシアのサイトやブログに掲載された小野田さんの話について反響をご紹介しよう。
・アレクサンドル・モイセーエフ:英雄の行為だ。
・アンドレイ・クリロヴィチ:でも彼自身はこれを英雄的行為とはとらえていない。彼は言われた命令を遂行しつづけた。これは日本では当たり前のことだ。この経験から学ばねばならない。

・アレクサンドル・ショルヴァエフ:インタビューの答えがよかった。「私は日本が強く、繁栄することを願って戦った。そして今ここに来て、やはり日本は本当に強く、繁栄した国だった」ということは、彼の戦いは無駄ではなかったんだ。
・エレンジェン・ジュカエフ:本当に強い人だ。ものすごく強い…。本当の意味で自分の祖国の正真正銘の兵士だったんだ。

・アンドレイ・マスロフ:ほとんどロシアの兵士だよ。
・アレクセイ・アソノフ:小野田さんのために東京都心で銅像をたてなければ。これこそ自分の国のまことの愛国者だ!
・アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ:まさに侍だ。
と大いに賞賛したのでした。

小野田さんは、ロシアでも尊敬されている方ですが、このような日本人の美徳をたくさんお持ちになった人が、この日本に多くおられたということを誇りに思うのです。

---owari---

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