
「読みたいから」というより「読まなければならない」必要に迫られて活字をおいかけ、追いつけないでいることが多い。
そのせいか、ひとつの議会が終わるといつも、のどが渇いて水を飲むように、当面の必要性から離れたものを読みたいと思う。
そして手にした一冊。
「・・・五十歳を過ぎてから、隣の国のハングルを学び始め、いつのまにか十年の歳月が流れてしまった。」という筆者は「若いときならもっと手際よく学べたかもしれない・・・」という言う一方で、こんな素敵な言葉を残している。
「ただ、心の中ではひそかにこうも思う。若いときはまだ日本語の文脈がしっかりしていない。五十歳を過ぎれば日本語はほぼマスターしたと言っていいだろう。それからゆっくり《外国語への旅》に出かけても遅くはない。」
語学を学んで「ひとつの発見は、自分の頭のなかに、未知の休耕田があったということだった。耕し方次第で、沃野とまではいかないまでも、何かが実るたんぼがあったということである。」
私も筆者とほとんど同世代。
あまりぼんやりと日々を過ごすと、長く生きても「日本語の文脈もしっかりしない」まま終わるかもしれない。
けれども、あまりジタバタしてもかえって大切な出会いを見落とすかもしれない。
自分の中の「休耕田」を探したくなる。
著者;茨木のり子
装画・カット;高瀬省三
発行;筑摩書房