1979年から7期21年、衆議院議員として活動し、今年3月31日亡くなった「藤田スミさんを偲ぶ会」に参加しました。
しみじみと「偲ぶ会」というより、「日本をどうする!大阪をどうする!!」と真面目に考え、真剣に闘う決意みなぎる集いでした。
それはスミさんが、最後まで闘い続けた人だったからだと思います。
久しぶりで会う懐かしい顔もたくさんあって、一言あいさつを交わしあうだけでしたが嬉しいあたたかい想いでした。
スミさんが会わせてくれたと思います。
スミさんとの初めての出会いは、私が27歳のとき。
スミさん初めての衆議院選挙のアナウンサーとして宣伝カーに乗りました。
学生のときから、選挙のアナウンサーは経験していたので「自信満々」とは言わないまでもそれなりには・・・と思っていましたが、スミさんの評価は散々でした。
「まわりの空気とハダハダや」と言われて、何のことやらさっぱりわからなかったことがあります。
市会議員を何年か経験して、やっと「ハダハダ」が少しわかるようになりました。
そうして、何度目かの選挙で車に乗ったとき、「あんた、うまなったなぁ」とほめてもらえました。
気合の入れ方、空気の読み方、間のとりかた。議員になって自分なりに「真剣勝負」の戦いを経験してやっと、スミさんの「教え」が理解できるようになりました。
母親の強さ、母親の優しさ、それを体現した「母親政治家」という呼び名の似合う大先輩がいてくれたから、思いもかけず「市会議員に」という要請を受けた38歳の私が、一歩を踏み出す決意をすることができたのかもしれないと思います。
この党の一員で幸せだったと思う一日でした。
しみじみと「偲ぶ会」というより、「日本をどうする!大阪をどうする!!」と真面目に考え、真剣に闘う決意みなぎる集いでした。
それはスミさんが、最後まで闘い続けた人だったからだと思います。
久しぶりで会う懐かしい顔もたくさんあって、一言あいさつを交わしあうだけでしたが嬉しいあたたかい想いでした。
スミさんが会わせてくれたと思います。
スミさんとの初めての出会いは、私が27歳のとき。
スミさん初めての衆議院選挙のアナウンサーとして宣伝カーに乗りました。
学生のときから、選挙のアナウンサーは経験していたので「自信満々」とは言わないまでもそれなりには・・・と思っていましたが、スミさんの評価は散々でした。
「まわりの空気とハダハダや」と言われて、何のことやらさっぱりわからなかったことがあります。
市会議員を何年か経験して、やっと「ハダハダ」が少しわかるようになりました。
そうして、何度目かの選挙で車に乗ったとき、「あんた、うまなったなぁ」とほめてもらえました。
気合の入れ方、空気の読み方、間のとりかた。議員になって自分なりに「真剣勝負」の戦いを経験してやっと、スミさんの「教え」が理解できるようになりました。
母親の強さ、母親の優しさ、それを体現した「母親政治家」という呼び名の似合う大先輩がいてくれたから、思いもかけず「市会議員に」という要請を受けた38歳の私が、一歩を踏み出す決意をすることができたのかもしれないと思います。
この党の一員で幸せだったと思う一日でした。