おっさんは過糞症なので良くトイレに行く訳です。
で、座っている時に暇なんで本など読む癖がついている訳です。
で、本を何冊も持ち込んでアレしているうちに、ンじゃぁ本棚を作ったら良かろうと言う事で壁面におっさん自作の本棚などこしらえてある訳です。
いや、これ、大地震が来たら厄介でスゼェ~・・・トイレの中に本がブチ撒かされてドアが開かなくなっちまいますぜ・・・大抵のトイレのドアは内開きでしょ?
で、もう一つ・・・トイレに本棚のある家は便器の蓋は閉めておきましょうね・・・本が飛び込み自殺しちまいますから。
と、言う事でトイレで読書はサントリーと言いますか・・・違うな、日課だな・・・まっ、ナンでアレトイレにこもって本を読む習慣が有る訳で、本日も文庫本を紐解いちまった訳です。
五木寛之の「不安の力」であります。
何度も読んでいる訳ですけれども、根が馬鹿なものですから読んだ事さえ直ぐに忘れちまって、何度読んでも新鮮だと思うのがおっさんの特技であります。
そんな訳で五木寛之著「不安の力」はとても新鮮な感じで読めたんでありますが、しかし、内容に付いて申し述べれば、ナンだか面倒くせぇ事を言うジジイだな、と言う感じが否めない訳です。
いや、五木寛之大先生に向かって面倒くせぇは無いなと思う訳ですけれども・・・しかし、親鸞気触れの年寄りの、一寸良い話的アレコレには、ナンだか辟易すると言いますか・・・所詮は他人の文章に触発された心なんてのは長続きなんてしないんだからさ、仏様の言葉の焼き直しなんか無用ですぜ、と言いたくなっちまう訳です・・・いや、大先生に向かって失礼と無礼と、分を弁えない悪口の数々は許し難いと言われるのは分りますけど・・・しかし、ホントにそー思うんですもん。
しかし、流石に一流の作家でありますよ・・・17ページ頃に・・・大地震は間違いなく来るだろうと言われています。核施設の事故もあり得る事です。・・・と書かれているんですけれども、この本の日付を見ると平成五年となってますからね・・・当てちまってる訳ですよ、地震と福一を。
で、そう言うのを引き合いに出して「不安」の輪郭を描こうとしているんですけれども、それが面倒くせぇと思う訳です。
地震に対して不安なんじゃないし、原発がピカっとなったり津波が来るのが不安なんじゃ無くて、結局は「死ぬ」と言う事に対する恐れや不安な訳で、地震や事故と言うのは原因でしかないんで、そう言うの、作家だから文章にしないと本にならないのは分りますけど、仏様がもっと簡単に宣ってますからぁ~と、おっさんは思っちまう訳です。
アレですゼ・・・死への不安は生への不安でもある訳でスゼ。
死ぬのがドーでも良いと達観できるなら生き様とか、生きるってナニ?ナンてのは出て来ない訳ですよ。
いや、死なないんなら何遍でもやり直しが出来ると言いますか、無限の挑戦が可能でありますからね・・・納得いくまでやれちまいますからね。
時間の縛りが無くなったら総ての価値観が変わっちまう訳で、やっぱし総ての元は「死」でありますよ。
まっ、この手の話に「死」を持ち出しちまうと言うのはある種の禁じ手であるかも知れないのはおっさんも十分承知している訳ですが、大先生がたくさんの例を挙げて文章を作り上げているのを見ると・・・歎異抄でも読んでりゃいいジャン、と言いたくなる訳で、その理由として禁じ手の「総ての道は死へと続く」を出しちまった訳です。
で、後の方の第8章で大先生もいよいよ本題の「死」を持ち出す訳でして、と言う事はそれまでの話はやっぱし前振りじゃんかぁ・・・と、おっさんは思っちまう訳です。
それはあたかもアレです・・・街の路傍の八卦見が万人の気持に合致する見立てをするような、こんだけ書いとけばどれかは当てはまるだろうと・・・いや、大先生はそんな下衆な考えで書いている訳では無いはずですが、おっさんのような臍曲りはそんな風に思えちまう訳です。
で、病気と死の影に怯える、と題されているのは、取りも直さず「生老病死」の四苦を言っている訳で・・・やっぱし面倒くせぇなぁ・・・最初から四苦八苦の話をしろよな、と、凡夫のおっさんは思っちまう訳です。
でねっ、思うんですけど・・・ずーっと以前に宮城県知事をしていて汚職で務所にぶち込まれた人が居る訳なんですが、その人も後に仏様に傾倒してそんなような事を本に書いているんですよね。
なんで人は悩んで何かを見つけたと思う時に「仏様」の話しに行くんでしょうかねぇ?
やっぱし、仏様の言葉が真理なんでしょうかねぇ?
だったら、ごちゃごちゃ宣わないで「空」であるな、無情であるな、で良いと思うんですけど・・・と、言っといて、自分も時々面倒くせ事を書く訳ですが。
仏様の言葉を紐解くのは自己の脳内で遊ぶ人には楽しいんだね、たぶん。
そして、一様に、暇なんだろうね、きっと。
で、座っている時に暇なんで本など読む癖がついている訳です。
で、本を何冊も持ち込んでアレしているうちに、ンじゃぁ本棚を作ったら良かろうと言う事で壁面におっさん自作の本棚などこしらえてある訳です。
いや、これ、大地震が来たら厄介でスゼェ~・・・トイレの中に本がブチ撒かされてドアが開かなくなっちまいますぜ・・・大抵のトイレのドアは内開きでしょ?
で、もう一つ・・・トイレに本棚のある家は便器の蓋は閉めておきましょうね・・・本が飛び込み自殺しちまいますから。
と、言う事でトイレで読書はサントリーと言いますか・・・違うな、日課だな・・・まっ、ナンでアレトイレにこもって本を読む習慣が有る訳で、本日も文庫本を紐解いちまった訳です。
五木寛之の「不安の力」であります。
何度も読んでいる訳ですけれども、根が馬鹿なものですから読んだ事さえ直ぐに忘れちまって、何度読んでも新鮮だと思うのがおっさんの特技であります。
そんな訳で五木寛之著「不安の力」はとても新鮮な感じで読めたんでありますが、しかし、内容に付いて申し述べれば、ナンだか面倒くせぇ事を言うジジイだな、と言う感じが否めない訳です。
いや、五木寛之大先生に向かって面倒くせぇは無いなと思う訳ですけれども・・・しかし、親鸞気触れの年寄りの、一寸良い話的アレコレには、ナンだか辟易すると言いますか・・・所詮は他人の文章に触発された心なんてのは長続きなんてしないんだからさ、仏様の言葉の焼き直しなんか無用ですぜ、と言いたくなっちまう訳です・・・いや、大先生に向かって失礼と無礼と、分を弁えない悪口の数々は許し難いと言われるのは分りますけど・・・しかし、ホントにそー思うんですもん。
しかし、流石に一流の作家でありますよ・・・17ページ頃に・・・大地震は間違いなく来るだろうと言われています。核施設の事故もあり得る事です。・・・と書かれているんですけれども、この本の日付を見ると平成五年となってますからね・・・当てちまってる訳ですよ、地震と福一を。
で、そう言うのを引き合いに出して「不安」の輪郭を描こうとしているんですけれども、それが面倒くせぇと思う訳です。
地震に対して不安なんじゃないし、原発がピカっとなったり津波が来るのが不安なんじゃ無くて、結局は「死ぬ」と言う事に対する恐れや不安な訳で、地震や事故と言うのは原因でしかないんで、そう言うの、作家だから文章にしないと本にならないのは分りますけど、仏様がもっと簡単に宣ってますからぁ~と、おっさんは思っちまう訳です。
アレですゼ・・・死への不安は生への不安でもある訳でスゼ。
死ぬのがドーでも良いと達観できるなら生き様とか、生きるってナニ?ナンてのは出て来ない訳ですよ。
いや、死なないんなら何遍でもやり直しが出来ると言いますか、無限の挑戦が可能でありますからね・・・納得いくまでやれちまいますからね。
時間の縛りが無くなったら総ての価値観が変わっちまう訳で、やっぱし総ての元は「死」でありますよ。
まっ、この手の話に「死」を持ち出しちまうと言うのはある種の禁じ手であるかも知れないのはおっさんも十分承知している訳ですが、大先生がたくさんの例を挙げて文章を作り上げているのを見ると・・・歎異抄でも読んでりゃいいジャン、と言いたくなる訳で、その理由として禁じ手の「総ての道は死へと続く」を出しちまった訳です。
で、後の方の第8章で大先生もいよいよ本題の「死」を持ち出す訳でして、と言う事はそれまでの話はやっぱし前振りじゃんかぁ・・・と、おっさんは思っちまう訳です。
それはあたかもアレです・・・街の路傍の八卦見が万人の気持に合致する見立てをするような、こんだけ書いとけばどれかは当てはまるだろうと・・・いや、大先生はそんな下衆な考えで書いている訳では無いはずですが、おっさんのような臍曲りはそんな風に思えちまう訳です。
で、病気と死の影に怯える、と題されているのは、取りも直さず「生老病死」の四苦を言っている訳で・・・やっぱし面倒くせぇなぁ・・・最初から四苦八苦の話をしろよな、と、凡夫のおっさんは思っちまう訳です。
でねっ、思うんですけど・・・ずーっと以前に宮城県知事をしていて汚職で務所にぶち込まれた人が居る訳なんですが、その人も後に仏様に傾倒してそんなような事を本に書いているんですよね。
なんで人は悩んで何かを見つけたと思う時に「仏様」の話しに行くんでしょうかねぇ?
やっぱし、仏様の言葉が真理なんでしょうかねぇ?
だったら、ごちゃごちゃ宣わないで「空」であるな、無情であるな、で良いと思うんですけど・・・と、言っといて、自分も時々面倒くせ事を書く訳ですが。
仏様の言葉を紐解くのは自己の脳内で遊ぶ人には楽しいんだね、たぶん。
そして、一様に、暇なんだろうね、きっと。