久しぶりに布団から出るのが億劫な朝を迎えました。
自分の人生で一番布団から出たくなかった朝というのは、やっぱしあの日、ですね。
あれも寒い朝でありました。
目が覚めるまではとても気持ち良かったのも鮮明に覚えております。
なんと申しましょうか、あれは恥ずかしい歳になってからの寝小便ゆえ60年経った今も心の傷として残っていると思うのですが、まっ、いいでしょう。
が、さすがに今朝は寝小便が原因ではありません。
まず、寝覚めの感覚がじんわりと寒いのでありました。
いやいや、布団は冬のままですのでそれは無いと思います。
で、いつもの時刻を過ぎても目が開かず、タイマーで鳴ったラジオを耳の遠くで聞いたまま頭まで布団に潜っていたわけであります。
いや、そのまま眠っていたい気持ちは山々だったんですがトイレへの欲求も強く仕方なく起きた次第であります。
そしてトイレに入った途端、下の方の放水に伍して鼻水が流れ出たわけで、止まることの無い、言って見れば滝のような鼻水と寒気に不調を確信したわけであります。
で、起きてしまったので朝飯の席に着いたわけですが、質素な朝飯をいつもと変わらずに食べられ、コーヒーも飲んで、一服したら庭の野菜の育苗箱の見回りもして、と活動してしまうと大して不調でも無い感じなのですがふと気がつくと鼻水が垂れ頭が重いのであります。
と、いうことで、これはコロナか風邪か、と疑ったんですが、もしやと思い調べてみたら、我が家地方の花粉は「多い」でありまして、症状のある人はとてもツライ・ツライ・ややツライを含めると6割を超えているわけであります。
そーすると自分の原因もこれかな、と思った次第でありますが、コロナだったら笑っちゃいます、なんちゃって。
で、朝から取り留めのない話でアレなんですが、ここ暫く死生観と言いますか、仏様の教えを元に老いと死を考え、何度かブログにまとめようとしているんですが頓挫しているわけであります。
何度も書きかけては途中で行き詰まり下書きに仕舞い込み完成しないわけです。
で、下書きを読み返し手直しでなんとかならないかとやってみるんですが矛盾点を乗り越えられず前に進まないのであります。
それはどの下書きも書きたいことは同じなのに角度を変えているだけ、と言うことで壁も同じところだから、と思うわけであります。
なんと申しましょうか、この行き詰まりを考えて薄々わかったことがあるんですが、自分ごときの盆暗が明確な筋を立てられる命題では無いと言うことでありまして相手が悪かったのであります。
で、自分の感じる壁は、社会を支配するのは現実であり理屈は無力である、と言うところから始まるわけです。
釈迦もキリストも素晴らしい言葉を残し、それが真理というのは疑い無いわけであります。
が、しかし、真理で腹はくちくならないし、政治も変わらないのが現実でありまして、過去にこれを乗り越えた歴史を自分は知らないわけであります。
で、釈迦もキリストも意識(無意識か?)でそこを乗り越えろ、それこそが安寧の世界なのだと説くわけです。
ここなんであります。
痛いの痛いの飛んでけぇ〜で騙される年頃は別としても、現実社会には納税の義務やらと生まれただけで背負わされる荷物があるわけで天上天下唯我独尊が揺らいでいると思うのであります。
さて、話が怪しくなってきたのでオチに向かいたいんですが、現代社会は釈迦やキリストの想像を超えてしまったのかと自分は思うのであります。
なので真っ当な真理が霞んでしまい矛盾を生じているのだと思うに至ったわけです。
で、オチは真理と相対する社会に矛盾が生じる、でありますが、矛盾は当然相容れないわけです。
と、言うことで、真理はいつだって真理ということは、間違っているのは社会なわけであります。
なので、間違った社会に生きる人は真っ当な感覚を持つ者ほど苦しくなるのが道理なのであります。
と、言うことで、生き死にが面倒な話になっているのも社会が歪んでいるからってことでオチにしたいと思うんですが、はい、そこの貴方の異議を認めます。
うーん、結局老と死には至れませんでした。
練り直そう、なんちゃって。