あれです、今日から一月四日まで冬休みなので早速スキーに行こうと思ってましたが今朝起きようとしたら身体がガリバーになってまして・・・あっ、意味不明でしたか?
ガリバー状態ってのは、小人に捕まって縛り付けられているような感覚でベッドの上で身体が思うように動かないことであります。
余談ですが皆様はガリバー旅行記は子供向けのお話ではなく社会風刺の過激な話だったってのはご存知ですか?
いや、知っていたからって役に立つ話でも無いんですが、例えばグリム童話なんてのも原作は決して子供向きではなかったんですが、まっ、いいでしょう。
と、そんなわけで体調が思わしく無いのに加え窓の外は雪でありましてスキーに行く気が起きなかったのであります。
何と申しましょうか、昨日まで仕事の予定があって気持ちが張っていたのかと思うのであります。
いや、そんな意識は無かったのですが気持ちが緩むと身体も緩むのでありましょうか? 休みたい信号がでたと思うのであります。
しかし、今こうしてPCの前に座っていても気持ちのどこかはスキー場に行ってまして、今日は新雪を滑れたかも、なんて微小な後悔も無くは無いのであります。
で、認めたくは無いけれども、これは確実に「老い」の証であり、終わりの始まりを確信した次第であります。
来年はもっと身体的にキツくなるのを想うとガックリ来ますが、出来ることはやれるし、出来ないことは諦めるってことであまり遠くなさそうな来るべき日に向かう所存であります、なんちゃって。
いや、50代ではスキーの帰りにジムに寄って身体作りをしていたのがいつの間にかキツくなり止めましたが、その頃から老いは始まっていたのは間違いないわけであります。
あれです、人の生き方ってのを真剣に考えた時期がありまして、随分とそれらの本を読んだわけです。
で、外国物から日本の本まで読んだ結果一番性に合ったのが仏教でありました。
そんなわけで都合30年ほど大乗だの小乗だの、親鸞だのお釈迦様だのと読み漁った結果、今の自分の考えは面倒で難しいことを言う宗教的教えからほとんど離れました。
あれです、仏教という名に惹かれ踏み込んだわけですが、どーにも読む本ごとに表現が違う上に本格的になるほど意味不明に陥ったのであります。
で、巷では分かりやすいと言われる親鸞などに触れると色味と味は仏教なんだけれども、自分の期待するものと何かが違うってことで益々混乱するわけであります。
しかし、ある本に出会い私は宗教のややこしい呪縛から解放されたのであります。
それは関大徹著 「食えなんだら食うな」と言う本でありました。
いや、自伝という感じで体験談を元に「仏心」が説かれていると思う本なんですが、身近な話題に織り込まれた仏の心は自分の生活と重ねることが容易なのであります。
で、これが仏陀の教えだ、なんて構えたことは殆ど書いていないのに今まで読んだどの本よりも脳みそに響くのでありました。
そんなわけで、自分は「食えなんだら食うな」って本で気づいたわけですが、真理は「食えなんだら食うな」なのであります。
いや、これは真理でして他に解釈は無いと自分は思うのであります。
あれです、食わないと死ぬわけですが、たぶんその解釈をどうするかは日々の生活の中で考えろと教えていると思うのであります。
そんなわけで、多少熱があってもゲレンデに出て滑れば治ると入れ込んでいたスキーを諦めた今朝は、図らずも老いの現実から引いては死ぬ日も左程遠く無い、まで想いが巡ったわけでありますが、のんびりするのも良いものであります。
で、関大徹は「自分の来し方に満足しきった老人ほど美しい姿はない」とも語ってまして、できない事を嘆いたら悔やむ歳ではないってことで明らめようと思います。
因みにそこそこの仏教関係の本を読んで自分の心に残ったのは「あきらめ」でありましたが、まっ、いいでしょう。
それにしても時間に追われないってのは余裕ですな、なんちゃって。
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