()して「ため息」と書き込むことに違和感を感じつつもフト閃いた・・・人は退化しているのか? と。
知らぬ間に椿が咲いていました
あれです・・・文字の元は絵や記号だそうですが、現代文明もいよいよ煮詰まったら文字はまた絵や記号に逆戻りしている、何てことを思ったんですが如何でありましょうか?
いや、文字の発達とともに声の届かない距離では文章による伝達が広まったと思うのですが、それで高度になった文字による表現はまた絵や記号を混ぜないと伝わり難くなっているのか、なんてことを思った次第であります。
あれです・・・私の持論に「都市化による感覚の退化」というのがあるんですが、まず都市には自然な曲線が少なく、何でもかんでも直線でして、しかも壁も柱もきっちりと垂直に立っている訳であります。
これは私の勘なので科学的根拠は無いのですが、こんな不自然な直線だらけの都市に住んでいると視覚的感覚は退化すると思う訳です。
まっ、大昔に心理学の入り口で似たようなことを習った記憶があるのでひょっとするとどこかで刷り込まれた記憶であって自前の論では無いかもしれませんが・・・まっ、いいでしょう。
で、都市に住んでいると光や空気に対する感覚も不自然になると思うのであります。
何と申しましょうか、都市の作り物の空間は人間が「ああすればこうなる」と予定した場に生きる訳でして、自然の感覚からはずんずんと遠ざかり鈍くなっていく訳であります。
で、一番の問題は「ああすればこうなる理論」の中に生きるというのは、自然の摂理から程遠いだけで無く、特定の人間が考えた空間や状態の中に生きることだと思うのでありま。
それが「画一的感覚」を生み、ひいては自然を不自然だと感じるようになるのかと思うのであります。
言ってみれば、誰かの脳みその中で設計された空間に生きる訳でして「ああしてもこうならない」は理不尽であり、意のままにならない自然は排除の対象なのであります・・・はい、そこの貴方の異議は認めません。
と、いうことで・・・都市に住み「ああすればこうなる理論」に浸って生きる人間の感覚は退化し、以心伝心や察する、なんて機微は汲み取れなくなり、目で見てわかり易い絵文字や(笑)などの表現が益々増えるのでありましょう。
なんてことを無理やり考えてみましたが、どーでしょうか?
ちなみに「ああすればこうなる理論」は養老孟司先生の受け売りでして私のオリジナルではありません。
しかし、コロナウィルスに対しても人類総出で「ああすればこうなる」を試行錯誤して立ち向かっている訳ですが、その根底にあるのは「人は死んではいけない」があると思うんであります。
で、もはや長くなったので端折りますが・・・。
高齢者や他に重い疾患を抱えた人が重篤になったり死亡しているコロナウィルスなんですが、年寄りや重い病気の人は放っておいても先は長く無いのであまり気にしなくても良いと言ったらダメですか?
まっ、言われることは概ね想像できますが「ああすればこうなる理論」を駆使しても人は死ぬのでありまして、そこにあるのは個人の感覚で捉えた「時間差」だけであります。
私の記憶が正しければ過去に死ななかった人はいない訳でして、若い人ならいざ知らず、繁殖期を終えた年齢は自然に任せては如何でありましょうか・・・と、私の提案であります。
で、ここが味噌なんですが、どんな重症者でも死ぬ時までは生きますから、苦しまない措置だけはして欲しいと思うんであります。
ここなぁ・・・やっぱしここに尽きるんだな「高齢者専用安楽死施設」が必要なんだよな〜。
で「酒池肉林ハーレムコース」とか「世界の博打堪能コース」とか「韓流スターと4泊5日夢の日々」とか「世界のドラッグお試しコース」その他を用意して年寄りを安楽に送り出してやれるようにしたら良いんだけれどもなぁ〜。
いや、最後が支離滅裂で失礼いたしました。
~この持論はとてもいいと思いました。先ほど石牟礼道子論30枚(12000字弱)評論賞応募してきましたが、こういう考え方は石牟礼と通底する部分があるのです。
評論を30枚ですかぁ〜重いですね。
評論って、小説や創作と違って観点を決めたら逃げられ無いのでとても難しいと思います。
俳句という表現の凝縮はきっと長文に通じるんですね。