元幸福の科学の会員で1987年より三十数年間、在籍し、活動をしてきました。その間を振りかえります。

最初は勉強会だったのに大川隆法氏は1991年に突然に自分は地球神・エルカンターレだと宣言し、宗教法人となった。

「日本の経済停滞を天上界は良しとしていない」 大川総裁が故郷・徳島で講演会

2016-04-26 18:20:22 | 日記

「日本の経済停滞を天上界は良しとしていない」 大川総裁が故郷・徳島で講演会
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11255

日本全国で数千人規模の講演会を行い続けている大川隆法・幸福の科学総裁は23日、徳島市のアスティとくしまで、「人類幸福化の原点」と題して、講演を行った。

徳島は大川総裁の故郷。会場には、地元徳島を中心に、香川、愛媛、高知などから約4,700人が詰め掛けた。講演の様子は、同グループの中継網を通じて、四国や中国、関西地方の各会場に同時中継された。


◎「ここまで自虐的になってはいけない」

大川総裁は冒頭で、現代の日本では、日常生活の中でも、学問の世界でも、表立って「信仰心」という言葉が語られなくなっている現状を指摘。だが、昔の日本では、多くの人々が信仰心を持っていたとして、こう語った。

戦後、新しい憲法ができ、政治と宗教の分離を決められ、学校教育から宗教を追放されてから、宗教が一種の迷信扱いされてきた。(中略)しかし、その国が戦争に敗れたから、その価値観が全部間違っていたかというと、そんなことはない。ここまで自虐的になってはいけない」

今年で立宗30周年を迎えた幸福の科学。当初より、人間の本質は魂であり、天上界、地獄界が存在し、死んだ後も個性を持ったまま魂は生き続け、何度も地上に生まれ変わりながら、魂修行を行うという「霊的人生観」を説き続けている。

「あの世の証明」の最たるものが、三百数十冊もの数に及ぶ「霊言集」だ。


悪霊や悪魔に通じる考え方とは

また、大川総裁は、悪霊や悪魔という存在が実在しており、死んだ後に浮かばれない霊が、地上で生きる人を地獄に引き込もうとしたり、家庭をメチャクチャにしようとすることがあると指摘。

他人の不幸を見て胸がスッとするというのは、人間として最低の心。(中略)これがいわゆる、悪霊(あくりょう)や悪魔に通じていく。原理は簡単なんです。他人様の幸福を願う方向で考えているか、不幸を願う方向で考えているか、これが人間の方向を決める」

この論点が、今回の講演の演台「人類幸福化の原点」の答えへとつながっていく。


◎「世界のリーダーになることを放棄しているのではないか」

また、近年、頻発する地震や津波などの天変地異についても言及。こうしたものが起きる時は、国が乱れている時であるとして、こう語った。

「阪神・淡路大震災辺りから始まって、東日本大震災、熊本と来ていますが、どうやら日本の20年から25年の経済停滞は、天上界から見て、良しとされていない。この国はもう一段、力強く発展して、世界のリーダーになるべき立場にあるのに、それを放棄しているのではないかということに対して、不満がおありになるんじゃないかなと、私は思います」

幸福の科学では、正しき心の探究や霊的人生観の教えを中心にしながら、日本のみならず、世界の国々が進むべき政治や経済、外交やの道筋を示すなど、既存の宗教の枠を超えた活動を行っている。

今回のご講演でも分かるように、そうした幅広い活動の根底にあるのは、「人の幸福を願う人を増やしたい」という思いがある。


◎幸福実現党・福山氏「リニア新幹線で、四国経済を発展させる」

講演後、「四国から新しい日本の未来を」と題して、幸福実現党の釈量子党首と、夏の参院選の徳島選挙区からの出馬を決めている福山正敏氏が対談した。

冒頭で、釈党首は、幸福実現党として、被災した熊本への支援の募金活動を進めていることや、救援物資を届けている活動を報告した。

福山氏は、働く場所が減り、人口が減って、野菜や魚など、さまざまなモノが売れなくなっている徳島の現状を語り、こう話した。「50年前に走った新幹線が、徳島にはいまだにない。いっそのこと、リニア新幹線を通して、観光などで外国人にもたくさん来てもらい、四国の経済発展を実現したい」

これを受けた釈党首が、「四国以外にも、鳥取や島根に新幹線がないが、そうした地域は、年金の依存度が高い。ぜひとも、四国に新幹線を通したい」と述べると、会場からは大きな拍手が起こった。

その後、駆けつけた、香川選挙区から出馬する中西梨絵氏と、愛媛選挙区から出馬する同党の森田浩二氏が登壇。力強く、こう語った。

「20年、25年給料が上がらない、GDP横ばい。こんな経済はおかしい。仕事しながら、子育てをしてきたが、これ以上、多くの方々が苦しむ姿を黙って見ていられない。リニアを香川まで引っ張って、四国4県、交通革命で、わくわくする地方都市、高度成長を目指したい」(中西氏)

「一貫して、自分の国は自分で守る、という国防の大切さを訴えてきた。北朝鮮、中国の軍事的な脅威が迫る中、国防産業を成長させていく。四国の沿岸には、優秀な造船会社がある。原子力潜水艦や空母をつくり、強い国日本、繁栄する日本を発信していきたい」(森田氏)

なお、講演で、大川総裁は、以下のような論点にも言及した。
・自身が徳島に生まれた理由について
・信仰心と道徳心の関係について
・「人類幸福化の原点」とは何か
・「反戦平和」などを唱える勢力の間違いとは
・「徳島阿波踊り空港」の改名のススメ?
・既存仏教や座禅、念仏の問題点とは
・老人ホームなどの補助金行政の問題点について

この法話は、幸福の科学の全国の支部、精舎、拠点において、拝聴できる。
支部や精舎への問い合わせは、以下の連絡先まで。
・幸福の科学サービスセンター
 Tel:03-5793-1727 : 火〜金/10:00〜20:00 土日/10:00〜18:00
・同グループサイトの支部や精舎へのアクセス
 http://map.happy-science.jp/まで。

【関連書籍】
幸福の科学出版 『熊本震度7の神意と警告 天変地異リーディング』 大川隆法著
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1664

【関連記事】
2016年4月17日付本欄 「宗教を信じる人たちが正しい道を示す努力を」大川隆法総裁が京都で講演
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11200

Web限定記事 熊本地震は 「日本の神々」からの警告
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11193

2016年3月27日付本欄 「誤った経済政策の責任回避のために衆院解散するのはおかしい」大川隆法総裁が富山で講演
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11130


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「歴史通」5月号に、釈党首のインタビュー掲載!フルカラー10ページです。

2016-04-26 18:19:26 | 日記

「歴史通」5月号に、釈党首のインタビュー掲載!

HRPニュースファイル編集部よりお知らせいたします。

現在発売されている保守系言論誌「歴史通」2016年5月号(定価890円〔税込〕ワック株式会社)に、釈党首の「『河野談話』取り消しなくして日本に正義ナシ」が掲載されました。

同記事は、「幸福実現党党首」の肩書で紹介され、フルカラー10ページで、たくさんの写真入りで紹介されています。

ぜひ、全国書店にてお求めください。

【歴史通:2016年5月号】
「国連女性差別撤廃委員会」報告
「河野談話」取り消しなくして日本に正義ナシ
釈量子 幸福実現党党首
http://web-wac.co.jp/magazine/rekishi/2016%e5%b9%b45%e6%9c%88%e5%8f%b7




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「保育園開園」と「住民が静かに暮らす権利」 どちらが大切?

2016-04-26 07:43:24 | 日記

「保育園開園」と「住民が静かに暮らす権利」 どちらが大切?
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11260

共同通信社によると、昨年の4月以降、少なくとも10件の認可保育園が、周辺住人の反対により開園断念・延期になったという。

「保育園落ちた」ブログを契機に問題意識が広がる保育園新設めぐる、一つの壁が浮かび上がっている。


◎「静かに暮らしたい」

千葉県の市川市では、4月に開園する予定だった私立保育園が、住民による反対運動により開園を断念した。

こうした反対の理由として挙げられるのは、以下のようなものだ。

「子どもの声がうるさい」「静かに暮らしたい」「母親たちが子供の送迎時に溜まるから迷惑である」「予定地の周囲は交通量が多く道が狭く子どもたちには危険だ。自転車が行き交い事故が起きるのではないか」

待機児童問題が深刻化している今、「保育園の開園」と「周辺住人の環境」のどちらを優先させるべきなのだろうか。


◎自分は静かに育ったのか?

一つには、「誰もが子供時代は周りに迷惑をかけて育ってきた」という観点がある。

今は「静かに暮らしたい」と思っている大人たちは、大声を出さない、静かな子供だったのだろうか。

「今の自分たちがあるのも、過去、大人に迷惑をかけても大目に見てくれたり、寛容に受け止めていてくれたりしていたから。直接、大人たちに恩を返すことは難しい。しかし、自分がしてもらったことを、次の世代を担う人たちにすることは可能だ」

国民一人ひとりの立場から言えば、こうした「報恩」の考え方で保育園開園を許容する、という考え方があるだろう。

ちなみに、保育園以外に目を転じれば、公益性の高い道路敷設や住宅開発などの際は、個人が立ち退きを拒否できない場所もある。社会全体の発展と比較した時に、「私権」は絶対ではないという考え方は、民法にも入っているものだ。


◎対話の余地もある

ただ保育園を開園するに当たり、住民側が受け入れやすくなる工夫もあり得る。

例えば、世田谷区太子堂にある保育園開設においては、反対する住民との和解がスムーズに成立している。

行政・保育園と住人の間を、まちづくり協議会の梅津政之輔氏が取り持ち、話し合いの仲介や園の建設計画の調整を通して、住民達の不安を解消するための対処を行ったというものだ。

梅津氏は、「子どもの声のしない町には未来がない」と考え、当時の園長である栗田怜子氏と共に「建てたあとに地域の仲間として迎え入れてほしい」と住人側に伝えた。

住人の不満・不安の底にある本音を聞き出すなどの対話を重ね、道路に面していた園庭の位置を変えたり、住民の日当たりを確保するため、敷地を掘り下げて建物の高さを抑えるなどの工夫を行なった。(NHK「クローズアップ現代」参照)

保育園と住人側の和解は、工夫次第では可能だ。

子供は宝だ。将来を担う子供達を温かい目で見守りつつ、現実的に解決可能な問題点については、互いに歩み寄る努力をしていくべきではないだろうか。(手)

【関連記事】
2016年3月17日付本欄 補正予算の中心は「待機児童」 税金投入が企業の参入を妨げる
https://the-liberty.com/article.php?item_id=11066

2016年5月号 企業の自由な活動がカギ 税金を増やしても待機児童は減らない - ニュースのミカタ
https://the-liberty.com/article.php?item_id=11117


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大川隆法・家庭も一冊の「人生の問題集」

2016-04-26 07:13:24 | 日記

『悩み苦しみの根っこは子ども時代にある

「子ども時代に、家庭内で、さまざまな問題が起き、それを充分に乗り切ることができず、大人になり社会人になってから、うまくいかなくて困っている」という人は、数多くいるようです。

その問題の根っこは家庭のなかにあり、また、子ども時代の考え方、生き方が、その人の出発点として大きな意味を持っているのです。

したがって、大人の問題を考えるにつけても、あるいは、大人自身が自分の人生を振り返り、反省するにつけても、やはり、折に触れ、子ども時代に遡って自分自身を見つめてみなくてはなりません。

根っこは、意外に、小さいころ、子ども時代にあります。「子ども時代の自分の苦しみや悩みなどに根っこがあり、大人になって、それを忘れているけれども、実は、それが原因で、いま、そのように考え行動している」ということが数多くあります。

理想の家庭に育つことだけが幸福ではない
そして、ともすれば、「自分の家には、こんな悩みがある。こんな秘密がある」ということを、人に打ち明けることもできず、苦しんだり悩んだりして、「こういうことがなく、理想の家庭だったら、どれほど自分は幸福か」と思うのです。

しかし、現実には、一点の非の打ち所もない理想の家庭というものは、日本中を探しても、おそらくないでしょう。もちろん、問題のほうが非常に大きくなってくると、家庭のなかが地獄化してくることもあります。家庭のなか自体が生き地獄になり、「どうやって、ここから逃げ出すか」ということで苦しむ人もいます。

そのように、人生の早い時期から厳しい試練が襲ってくる人もいます。気の毒といえば気の毒です。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

亡き妻が教えてくれた「あの世は絶対にあるよ」

2016-04-26 07:11:49 | 日記

http://voicee.jp/201407059980

40歳の若さで亡くなった妻

数年前、5人の子供と私を残して、妻のHが40歳の若さで、がんで亡くなりました。もし信仰がなかったら、私は悲しみに暮れ、仕事も手につかなかったでしょう。

しかし、今、私は心に希望を抱いて生きていくことができます。それは、「人生はこの世限りではない」ということを確信しているからです。そして、あの世から見守ってくれている妻の存在を感じているからです。

妻の死を通して、私が感じ、学んだことをお話ししてみたいと思います。

突然の余命宣告

「お父さん、私、がんだって……」

ある春の日のこと、妻が不安そうな声で会社に電話してきました。

「最近、胸のあたりが苦しい」と体調不良を訴えていた妻が、病院で受けた検査の結果でした。病名は「スキルス性胃がん」。進行が早く、治療が難しいと言われている胃がんだそうです。

「すぐにでも入院して、手術しましょう。胃の3分の2を切除すれば、治癒の可能性もあります」

医師の強い勧めにしたがって、手術することになりました。ところが、手術が終わって医師に呼ばれると――。

「残念ですが、奥さまのがんは予想以上に進行し、周辺の臓器もすでにがんに侵されていました。胃は全体を摘出しましたが、すべてのがん細胞を取り除くことは不可能でした。余命は……あと、1カ月から半年です」

あまりのショックに言葉も出ません。

医師の説明を聞きながら、「どうして今まで気づいてやれなかったのか」と申し訳なさに涙があふれるばかりでした。

「生命は永遠」と知ってはいても……

私たち夫婦は、幸福の科学の信者です。人間の本質は霊であり、死んで肉体が滅んでも、あの世に還って新たな生活が始まると学んでいます。

しかし、実際に妻の死が迫っていることを告げられると、私はすっかりうろたえてしまいました。

しっかりしなければ――。そう自分に言い聞かせて、妻の病室に向かいました。手術前、妻から「手術の結果は隠さずに伝えてほしい」と言われていたので、私は医師の説明を彼女に伝えました。

「気をしっかり持って頑張るんだぞ」と言いながら、自分が動転しています。

「お父さん、大丈夫よ。心配しないで。何があっても私は仏を信じているから。でも、あと4、5年は生きられるように頑張るからね」

妻は全く動じることなく、いつもの笑顔で、逆に私を励ましてくれました。病名を告げられてから、手術を受けるまでの間に、心の整理をし、覚悟を決めていたようです。

しかし、私にはとてもそのような不動心はありませんでした。

優しかった妻

妻は高校時代の同級生で、当時から付き合い始め、24歳の時に結婚しました。

私は運送会社の営業職で、朝から晩まで忙しく、結婚当初から家庭を顧みる余裕はありませんでした。

「もっと早く帰ってこれないの」と時々こぼしていた妻でしたが、幸福の科学の信仰に出会ってからは「お仕事、遅くまでおつかれさま」などと、ねぎらいの言葉をかけてくれるようになりました。

その変化に驚き、幸福の科学に興味を持った私は、妻の勧めで入信しました。そして、仕事で問題につきあたったときなどに、『常勝思考』や『仕事と愛』などで説かれている成功論や仕事論を実践し、少しずつ教えの素晴らしさを実感していきました。

しかし、今振り返ると、当時の私は、仕事のため、成功のために仏法真理を学んでいたようなもので、確かな信仰を持っているとはいえない心境でした。

一方、妻はもっと深いところで、仏の慈悲を感じていたのでしょう。信仰に出会ったことで、本当に強くて優しい女性になりました。

家庭では私や子供たちにいつも笑顔で接してくれ、「ありがとう」という感謝の言葉を絶やしません。

子供の母親同士の人間関係の中でも、何か揉め事が起きれば仲裁に入り、人のことは絶対に悪く言わず、いろいろな人に頼りにされていたようです。伝道にも熱心で、友人・知人に仏法真理の本をお勧めする手紙をよく書いていました。

自宅療養のため5月に家に戻ってからも、妻の優しさは全く変わりませんでした。「お父さん、身体大切にしてね」と毎日笑顔で送り出してくれる妻に、私も笑顔で応えました。

しかし、私の心の中は、数カ月のうちに妻を失うことになるかもしれないという不安と悲しみでいっぱいだったのです。

父の日の手紙

自宅療養が始まって1カ月ほど経った6月中旬の父の日のことです。

「これ、お父さんへの感謝の気持ち」と、妻が手紙をくれました。

「Kさんへ。いつも家族のために、お仕事頑張ってくれてありがとうございます。(中略)Kさんの優しさ、励ましに支えられて、今の私があると思います。Kさん、家族、幸福の科学の仲間たち、数多くの方々の愛に気づかせてくれた、仏の慈悲に深く感謝いたします。この生命を正しく全うし、来世でもまたKさんとご縁がありますように……」

涙で、手紙の文字がにじみます。あふれてくる涙を拭いながら、何度も何度も読み返しました。私は、手紙に込められた妻の強い信仰心に、改めて目を覚まされた思いでした。

妻は、心から仏を信じ、その信仰心の輝きで私や子供たち、そして身近な人たちを照らしていました。 自分の身を案じるより、周りの人たちの愛に感謝し、そして何より仏に感謝して、許される限りの生命を全うしようとしている……。

私は、妻を失うことを悲しんでばかりで、自分のことしか考えていませんでした。悲しんでばかりいるのは自分勝手なことだと気づき、私も仏を信じ、信仰を拠り所として、妻をあたたかく支えていこうと思えたとき、悲しみでいっぱいだった心に、一条の光が差し込んできたような気がしました。

それからの私は、悲しみや絶望にさいなまれそうになる自分の心を、仏に祈り、仏法真理を学ぶことで励ましながら、自宅療養を続ける妻を心身ともに支えていきました。

再入院

療養生活を送りながら、病状は徐々に悪化していきました。8月下旬になると、腹部の痛みや倦怠感でつらそうな顔をしていることが多くなりました。

そして9月に入ってすぐ、妻は耐えられない痛みに自宅で倒れ、救急車で運ばれて再入院することになったのです。

「再入院になったら、もう家には戻れません」と医師から言われていました。いよいよ最期のときが近づいてきたことを私は覚悟しました。

私は仕事の都合をつけながら、毎日のように妻の病室に足を運びました。

「お父さん、いつも、ありがとう」

私が行くと、妻は必ずやせた頬に微笑みを浮かべて声をかけてくれます。

夜中の付き添いにいけば、「少しでも眠ってね」と忙しい私の身を心配してくれました。激しい痛みと倦怠感で、人の身を気遣えるような状態ではないはずなのに……。

私も、悲しみをこらえながら、できるだけ明くふるまい、「少しでも楽になるように」と願いながら、幸福の科学の書籍を読んで聞かせたりしていました。

やがて衰弱が進み、妻は話すこともままならなくなっていきました。

入院して2週間が過ぎたある日の午後。いったん、会社に戻った私に病院から電話がかかってきました。

「すぐ病院に来てください」

急いで子どもたちを連れて病院にかけつけました。

医師や看護師に囲まれ、酸素マスクをつけられた妻が、目をつむってベッドに横たわっていました。

私と子供たちが妻の手を握ると、妻は少し薄目をあけて微笑んでくれました。子供たちは、皆泣いています。

「今まで世話ばかりかけてごめんな」

私が泣きながら謝ると、妻は微笑んだままゆっくりと首を横に振りました。

そして、震える手で酸素マスクをはずし、何かを言おうとするのです。

「子供たちのことが心配なのか?」

そうたずねると、妻は、「そうではない」というように、ゆっくりと首を横に振りました。

「あ・り・が・と・う」

声にはなりませんが、そう唇が動きました。その言葉を最後に、妻は穏やかな笑顔を浮かべたまま、静かに息を引き取りました。私たちは、ただただ泣くばかりでした。

妻からのメッセージ

帰天式(幸福の科学式の葬儀)には、700人もの方が参列してくださいました。いつも穏やかで、誰に対しても優しく接する妻には、多くの友人がいたようです。

私は、信仰深く生きた妻の思いを伝えようと、妻の友人たちに幸福の科学の教えを紹介していきました。しかし、そうして前向きに努力しているつもりでも、一人になると何とも言えない寂しさや自責の念が襲ってきます。

亡くなってちょうど30日目、納骨を済ませた日の明け方、まだ暗いうちにふと目を覚ますと、空色の服を着て、にこにこと笑っている妻の姿が見えました。

「H、今、どこにいるんだ?」

「天国の手前で、あの世について勉強しているところよ」

いつもの優しい笑顔で答えてくれました。

死後まもない霊は、霊界の入り口であの世について勉強してから、それぞれの心境にふさわしい世界に還ると、仏法真理では説かれています。

「H、やっぱりあの世は、本当にあるんだな」

「あるよ。絶対にあるよ」

「じゃあ、あと40年くらいたって、俺も無事、この世での人生を終えて、あの世に還ったときは、お前迎えに来てくれよな。そして、来世、生まれ変わるときには、また一緒になってくれよな」

「うん。約束よ」

そう言った妻の姿がすーっと消えていき、はっと気がつくと朝になっていました。

その後も、四十九日を迎えるまでに、何人もの親戚や友人の方から「Hさんと夢で会いました」「Hさんの声が聞こえました」と言われました。

肉体は死んでも、現実に魂は生き続けている。人間は、この世限りの存在ではなく、この世とあの世を転生輪廻しながら、魂を磨いている存在なのだと実感しました。

自分の死を見つめながら、信仰のもと最期まで強く生きた妻の姿。そして、あの世からのメッセージ。これらの経験を通して、私は少しずつ穏やかな心を取り戻していくことができたのです。

限りない感謝を込めて

妻が亡くなってから、私は、10人の方を幸福の科学の信仰に導くことができました。その中には、「Hさんの姿を見ていて、素晴らしい宗教なんだろうと思っていました」と言って入信された妻の友人もいます。

実は、再入院することになる前の晩、妻と私はこんな話をしていました。

「私、お父さんと一緒に、たくさんの人を仏のもとにお連れしたい」

「そうだな、一緒に伝道しよう」

死を目前にしてなお、妻の伝道への情熱はいっそう強くなっていたのです。この世では、もう二人で縁ある方を伝道することはできませんが、私の伝道を、妻があの世から応援してくれていると感じます。

悲しい出来事ですが、しかし、もし、妻の病気と死がなかったならば、今でも私は、心から仏を信じる喜びを知らずにいたでしょう。すべてを支えてくださっている仏の慈悲に、心から感謝いたします。

そして愛するHへ。今世、僕と一緒になってくれてありがとう。あなたが教えてくれた深い信仰と愛を胸に、これからも多くの方に仏の教えを伝え続けていきます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大川隆法 「積極的イメージの力・人間の心は磁石のようなもの」

2016-04-26 07:07:41 | 日記

暗い思いと言うものは、結局、失敗者を引き寄せる傾向があるのです。

人間の心は磁石のようなものであり、「類は友を呼ぶ」のです。常々、失敗のイメージを心に持っている人は、そういう失敗をいかにも起こしそうなひとを、また呼び寄せることになります。

これに対して、成功のイメージを持っている人には、失敗を起こしそうなひとが近ずいてきても、どこかで価値観がかみ合わず、相手は、何となく雰囲気的に違うものを感じて、離れてゆくことになります。

こうして疫病神から逃れることができるわけです。

事業の成功、不成功も、人との付き合いから始まっています。

とんでもない失敗を招くのは、たいてい相手を見誤った場合であることが多いのです。

そのように考えてみると「常に、肯定的、積極的イメージを出し続ける」ということが、どれほど大事であるかが分かるでしょう。

それは肯定的、積極的イメージを出すことが、実はそういう人たちを呼び寄せる原因となるからです。

肯定的、積極的な人たちが集まってきて、成功しないということは、ありえないのです。

幸福の科学出版「成功の法」より抜粋


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネクラ、転職13回、自殺しようと思っていた最低なダメ人間を変えた一冊の本

2016-04-26 07:04:09 | 日記

現在、56歳ですが31歳の時までは劣等感が強く、自己卑下、消極的、人と話すことが苦手、自分で自分の性格が嫌いでネクラで、いつも死にたいと思っていました。

その為にアルバイトを含めると転職は20回近くになっていました。
もうダメだと人生をあきらめていました。

しかし、わたしは高校生の時から、なぜ生きなければいけないのか、何の目的で生きているのか、なぜ勉強しなければいけないのか、人間はどこから生まれどこに帰るのかずっと疑問でした。

14年間スピリチュアルの本を読みあさりましたが自分の疑問に答える本は一切ありませんでした。読んだ全ての本や新興宗教の本は理路整然としていなく、理屈に合わないものばかりでした。

31歳の時に当時は、不動産の営業をしていました。初めての営業でしたのでぜんぜん成績があがらず、部長から、他の社員の前でお前は営業に向かないと罵倒されイジメられていました。

その時、高校生の時から自分の求めていた本にようやく出会いました。

生きる目的は自分の心、魂を向上させ、この3次元の世界をユートピアにすること。

そして人間は全ての人が太古に創造主が自分の体の一部を、無数に分けて宇宙に散乱させた。これが人間の魂と書かれていました。つまりよく言われる人間は「神の子」だということです。

この人の多くの本を読み、自分は神の子だと思ったら自己卑下することはないと思えるようになり、営業で超一流会社の常務に会っても、ぜんぜん平気になりました。

またこの人の他の本には繁栄・発展の教えが多く、何度も読み返して自分の暗い心を修正してゆきました。

すると半年が過ぎた頃、いきなり、契約が決まりはじめ案内する物件の契約がすごい勢いで次々と決まりました。人生で初めての成功でした。奇跡のようで、いじめていた部長は唖然として、手のひらを返したように接する態度が変わりました。

奇跡を体験して本当に思いを正しく変えるだけで現実が変わり、本で教わった目には見えない守護霊や指導霊の存在を実感しました。

それからすぐにお客だった社長にヘッドハンティングされ、映像の会社へ入社しました。それからも色々とありましましたが、13年前にお客にすすめられて独立できました。

6年前に仕事で出会った映画製作会社の社長に出会い、2008年に夢だった映画を製作しました。映画「ボディ・ジャック」をテアトル系のキネカ大森、銀座テアトルシネマ、テアトル梅田、全国各地の14館で上映できました。

本当に奇跡です。31歳の時にあの本と出会わずに、あのまま自分をダメ人間だと卑下し続けていたら、今頃は自殺していたでしょう。
映画を作ることなどできなかったと思います。

この人の本はすごい、こういう思いでいればこうなると理路整然としていて、発展繁栄したいなら、こういう思いと行いをしなさいと分かりやすく具体的に書いてあります。さらに幸福になる方法論が書いてありました。

難しく一言でいうと『人間は神の子、仏の子であり、永遠の転生輪廻の中で、もし悪き運命があるなら努力精進してそれを克服することができると。つまり人間は仏と同じような自由意志や創造性を発揮し、自分の力で幸福な人生を切り開いていける』という教えです。

この人の本は知恵のかたまりです。私の人生が180度変わりました。一生かかってもわからない知恵がたくさん凝縮されています。

本は800冊も発売されています。なぜこのような本を多くの人は読まないかというとマスコミの攻撃にあい、宗教は全てが悪いと洗脳されています。FBでもカルトと載せる人がいます。本を読まないでマスコミを信じた愚か者です。

カルトの本を20年間以上読み続けて、夢だった映画を製作し上映できると思いますか?正しい教えだから夢が実現できたのです。

マスコミを信じ、この人の教えを学ばないのは本当に損をしています。偏向マスコミによる偏見を捨てるべきです。自分の夢をかなえたい、幸せになりたいと思うなら、読んで学ぶべきです。

この人とは大川隆法総裁です。最初は霊言や霊界について本は抵抗があると思いますから、まずは私の人生を変えた「常勝思考」それに「発展思考」など発展繁栄系の本、法シリーズの「幸福の法」「勇気の法」がおススメです。はっきり言います。読まなきゃ損ですよ!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大川隆法「失敗をプラスに変える考え方」

2016-04-26 06:18:12 | 日記

一度失敗したからといって、「自分はもうだめなのだ」

と思ってしまわないことです。

通常であれば「もうだめだ」と思うような状況であるにもかかわらず、

不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を持って前進している人に対して、

人は見方を変えていきます。

「『この人はせいぜいこの程度の人間だ』と思っていたが、

意外な面がある。


もしかしたら、なかなかの人物かもしれない」と思うようになるのです。 

『幸福の革命』P.78

 

 

※幸福の科学出版
http://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M270936&c=10209&d=203d

※Amazon
http://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M270937&c=10209&d=203d


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大川隆法「私はできるぞと宣言せよ」

2016-04-26 06:16:49 | 日記

強く打ち出せ 自分の姿勢を

強く肯定せよ 自分の将来の夢を

私はできるぞと 宣言せよ

 

—人生に勝利する詩より抜粋—

 

『光ある時を生きよ』P.59

※幸福の科学出版
http://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=186&utm_source=wordsJpn&utm_medium=email

※Amazon
http://amazon.co.jp/o/ASIN/4876881731/hsmail-22/

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まず自分が変わることで幸福になれる。相手を変えるのは難しい

2016-04-26 05:25:27 | 日記

今から数年前、私は嫁姑関係に悩んでいました。義父母とは同居ではありませんでしたが、近くに住んでいたので、接する機会がよくあったのです。

「さっさとしなさい」「それダメでしょ」

私は義母のものの言い方が苦手でした。義母は気丈な人で、思ったことはずばり言うタイプ。一方、私はどちらかというとおっとりしていて、頭の回転が速い義母と会話するのが苦痛でした。

「自分が変わる」ということ

そんな時、旧友から幸福の科学の書籍を紹介されました。なかでも、夫婦や嫁姑などの人間関係への処方箋が書かれた『「幸福になれない」症候群』は驚きでした。

相手を責めるのではなく、まず自分を変えていくこと――。“目からウロコ”の内容でした。私はずっとお義母さんが変わらない限り、仲良くできないと思っていたからです。

『「幸福になれない」症候群』には、夫を育ててくれた義父母に感謝することの大切さや、嫁姑は実の母娘よりも関係の深い魂同士である、ということが書かれていて、驚きの連続でした。

義母とは心を割って話すことができません。今の状態では、自分の心も苦しくなるばかり。なんとかこの状態を打開したいと思い、義母への接し方を変えていく努力をすることにしました。

子供がお世話になった時、夕飯をご馳走になった時、お土産をもらった時、「お義母さん、ありがとう」と積極的にお礼を口にするようにし、義母が旅行に出掛ける前などにも、「気をつけてね」と声をかけるようにしました。

ささやかなことでしたが、私には精一杯の自己変革でした。それが義母にも通じたのでしょうか、お互い、拍子抜けするぐらいに、楽しく会話ができるようになったのです。義母のいつもの言葉も全然気になりません。

「お義母さん、こういう気さくな話し方の人だったんだ! 私の方が勝手に考え過ぎて、お義母さんのこと苦手に感じていただけみたい」

あんなに苦しかった心が本当に楽になりました。以来、義母との心の壁がなくなって何でも話せるようになり、義母も今まで以上に気さくに話しかけてくれるようになったのです。ちょっと考え方を変えるだけで、こんなに人間関係が変わってしまうなんて――。

「幸福になるって、簡単なことだったんだ」

仏法真理の素晴らしさを実感した私は幸福の科学に入会し、教えを学んでいくことにしました。

愛を与えるって素晴らしい!

そのころ、夫の仕事の都合で大阪から千葉に引っ越すことになりました。

移転後しばらくして、幸福の科学で地域のお世話役をしていたAさんから「支部に行くと、真理の学びも深まるし、法友もできて楽しいですよ」と、電話がありました。

多少不安でしたが、Aさんが私をみんなに紹介してくれて、すぐにうち解けることができました。

ある日、息子を連れて小さなお子さんを持った方向けの大川隆法総裁の法話上映会に参加した時のことです。

息子がむずがりだすと、私はだんだんイライラしてきました。周りの方にも迷惑ですし、息子を怒りたい衝動をこらえていました。

法話が終わると、年配のご婦人が、「イライラしちゃだめよ。お母さんががんばらないとね」と励ましてくれたのです。そういえば、他のお母さんたちも、子供がむずがっても心を乱しているようにみえません。

支部によく行くようになると、会員の方々が、人のためを思い、悩んでいる方の話を聞いてあげたり、一緒にお祈りをしたり、少しでもお役に立とうとボランティアに取り組まれたりする姿をよく目にするようになりました。

「幸福の科学のみんなは、本当に素晴らしい人たちばかりだなあ。私も、こんな人たちのようになりたい!」

以来、私は積極的に活動に参加するようになりました。今では地域の信者の方のお世話役をしながら、幸福の科学の小冊子を配布したり、地区の集いを開いたりと充実した毎日を送っています。

ついこの間まで義母との関係に悩んでいた自分が、多くの方の幸福を願って活動できるなんてうそのようです。本当にありがとうございました


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダウン症の次男の子育てで気づいた、小さな成長を喜ぶ心

2016-04-26 05:24:49 | 日記

ダウン症の次男の子育てで気づいた、小さな成長を喜ぶ心

http://voicee.jp/2015032010857
不安性の私

私は、人から「趣味は何ですか?」と聞かれると、「子育てです。」と答えます。

子育ては大変なことも多いけれど、母親でいられることは本当に幸せなこと――。

そう思えるようになったのは、K(小2)とH(2歳)の2人の子どものおかげです。

結婚7年目にしてようやく授かった長男・Kが生まれたときは、何もかもが不安でした。

湿疹が出るとオロオロし、洗濯済みのおしめの枚数が少なくなると、「すぐ洗わんと」と焦りが募ります。眠っているKのもとに何度も足を運んでは、「ああ、息をしている。よかった」と確認しないではいられないものでした。

遠足の日の出来事

Kが小学生になり、遠足の日を迎えた朝のことです。

支度が遅れ、集合時間に遅れそうな時間に家を出たKが、なぜか泣きながら帰ってきました。

「K、どうしたと?」

「ランドセルいらんやろか?」

昨日、担任の先生から、「雨が降りそうだったら、授業をする。」と言われたらしいのです。でもその日は、雲ひとつない快晴でした。

「晴れとるから、ランドセルなんかいらんよ」

「でも雨、降ったらどうすると……」

「降らんから、大丈夫よ」

私は、小学校に連絡を入れ、不安がるKを、途中まで送っていきました。

その晩、この出来事を主人に話しました。

「何でそんなことで不安に思うんやろな」

「そういえばこの間も、ご飯を食べ終わったのに、何もせんでジーッとしてた。私が『片付けんね』って言ったら片付け始めて……。ちゃんと自分ができるかどうかも心配みたいだし、何か言われないと不安みたいなんよ。何か関係あるんかねえ?」

幸福の科学の法友に相談したところ、私が先回りをして何でも指示するので、それを待つ癖がついたのかもしれないとアドバイスをもらいました。

「やっぱり、私に問題があるんかなあ……」

いろいろ考えてみても、何が原因なのかは分かりません。私の心の問題がはっきりと見えてきたのは、次男・Hがきっかけでした。

ダウン症の次男

生まれてきたHは、生後、すぐに「ダウン症」の疑いがあると言われました。

1カ月後、検査の末、「ダウン症」だと診断されたときには、涙が止まりませんでした。

私は、仏法真理で「肉体はどうであれ、魂はみな健全」と学んでいたので、「この子もしっかり育てていかなきゃ。きっと大丈夫――」と何度も自分に言い聞かせました。

Hは哺乳の際に吸引する力が弱く、体重がなかなか増えません。少しずつ増えた体重も、夏になると痩せてしまったり、便が3、4日でないこともあり、心配のし通しです。

そんな私をよそに、Kは、弟ができたことが本当に嬉しいようでした。

「ねえ、お母さん、Hちゃんは宇宙一かわいいねえ。ダウン症だから、かわいいんかなー?」

「ああ、そっか……。そんな見方もあるのか」と、Kの言葉に、心が軽くなった気がしました。

小さな成長を発見して喜ぶ心

Hは毎週一回、発達に課題のある子どもたちの集いに参加しています。

あるとき、Hよりも後に生まれたダウン症の女の子が入ってきました。その子は体も大きく、今にもハイハイしそうです。

「え!? こんなに成長の早い子もいるんだ……」

体の小さいHが、弱々しく見えました。

会うごとに、自分から動こうとしたり、物を取ろうとするその子の成長を見て、心の中は穏やかではいられません。

「Hはまだ、一人できちんと座れないのに……」

何とも言えない不安と焦りに襲われました。

それからしばらくしたある日の夕方。

「お母さん。作文の宿題みてー」

Kがそう言ってきました。

作文のテーマは、「家族の自慢」です。

「何書くの?」

「うーん。Hちゃんのこと書く。Hちゃんの自慢はいっぱいあるもんね」

『おとうとは、さいきん手をつかないですわれるようになりました。』

内心、「Hはもう10カ月だもん……。普通の子だったらとっくにできるから、担任の先生が読んだら『あれ?』って思うだろうなあ」と思いながら、作文を書くKを見ていました。

『まだゼロさいなんですよ! じまんです。』

私は、ハッとしました。

Kは、昨日のHよりも今日のHはすごいと、素直に思っていました。「ダウン症だから」という同情もなく、ただ目の前にいる弟の小さな成長を発見して、喜んでいたのです。

このとき、自分がHの成長を、他の子と比較して見ていたことに初めて気づきました。

健常児と比べても仕方ない――。でも同じダウン症の子と比べて、できないことが目にとまると、心が揺れていたのです。

その晩、私は御本尊の前で、これまでの子育てを振り返ってみました。思い返してみると、Hだけでなく、Kに対しても、他のお子さんと比べて、「できる」「できない」で一喜一憂してきた自分がいました。

「私の不安が、Kにも伝染していたんだ……」

細かいことに口を出したり、手を貸したり、おせっかいを焼いてきたのも、他のお子さんよりも、Kが「できない」と見られたくないという親の見栄からだったのです。

「K、H、ごめんね。KはK、HはHなんだよね。他の誰とも変えられない――」

そんな当たり前のことが、胸の内に広がり、子どもたちへの愛しさでいっぱいになりました。

他の誰とも比べる必要はない

Hも2歳になる頃には、しっかり座れるようになり、物をもてるようになってきました。

食事のときにスプーンを口元に持っていくとアーンと口をあけ、食べます。

ある日、Kが言いました。

「ねえ、お母さん。Hちゃんにやらせてみて。こぼしてもいいやん」

「え?」

「Hちゃん、自分で食べられるっちゃない」

(あ、私また、手を出しすぎていたんだ!)

Kの言うとおり、やらせてみないと、Hはいつまでたってもできないままです。

初めは、ご飯を口に入れた途端、スプーンを投げてしまいました。

「落としても、服や絨毯を汚してもいい。やらせてみよう!」

半月もすると、スプーンを投げたりせずに、上手にパクッと食べられるようになりました。

Kに対しても、「○○をしなさい」と言う代わりに「次に何したらいいと思う?」とか「何時に寝ると?」と自主性を育むようにしました。

先日、登校前にKが言いました。

「お母さん。今日からね、学校に行くとき、外までお見送りせんでもいいよ」

(ああ。私が口を出さなくても、この子も自分の力で成長しているんだなあ……)

人間はゼロからスタートし、他のだれとも比較できない独自の人生を歩んでいる。――そのことを、私はKの素直な目から、そしてHの小さいながらも一生懸命に成長する姿から、教えてもらいました。

当たり前のことの中の喜びが、幸せを運んできてくれたのです。何よりそうしたゆっくりとした成長であっても、仏様は温かいまなざしで待ってくださっていると思うと、心の中の不安が消え、ありがたい気持ちがあふれてきます。

K、H、私をお母さんに選んでくれてありがとう。これからも、一緒に成長していこうね。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖国に仏の光を! ネパール人の間で広がる幸福の科学

2016-04-26 05:24:17 | 日記

ナマステ(コンニチハ)!

 

 ネパールからやってきたRです。私は1年前に幸福の科学の信仰に出会いました。

 

以来毎日、友人に伝道しています。今、私のいる愛知県のT支部では、日本人の信者以外にも、ネパール人、モンゴル人、イラン人、ブラジル人、インド人など、70人を超える海外の仲間が集っています。

 

日本の信者の皆さんがいつも温かく接してくださるので、支部はまるでわが家のようです。

 

偉大な仏陀の力

 

 ネパールの人々は、家族や仲間をとても大切にします。

 

日本で暮らすネパール人社会には、強いネットワークがあり、良い噂も悪い噂もすぐに広がっていきます。

 

その中で、幸福の科学の信仰が、今どんどん広がっていて、毎日毎日、誰かがどこかで目覚め、再誕の仏陀に帰依しています。

 

 

 

私たちは日本の方からよくこんな質問をされます。

 

「どうして仏陀の再誕を信じることができたのですか?」と。でも逆に私は思うんです。「なぜ日本の方はなかなか信じようとはしないんですか」と。

 

 大川先生は、すでに膨大な経典を編まれています。

 

それらはすべて、大川先生の説法がもとになっています。

 

何も原稿を見ず、天からの啓示でなされた説法が、そのまま経典になるなんて、とても普通の人間にできるはずもありません。これ一つをとってみても、偉大な仏陀の力の証明ではないかと思うのです。

 

 

家族の生活のために

 

 私も数年前、仕事を求めて来日しました。父の定年で、長男の私が家族の生活を支えねばならなくなったのです。

 

当時は、妹もまだ大学生で、学費がかかる頃でした。ネパール国内では適当な仕事が見つかりません。寂しさもありましたが、祖国を離れ

 

る決意をしました。

 

 もともと、日本に対しては良い印象を持っていました。

 

わが家では、長年ホームステイのホストファミリーをしていたのですが、日本人は誠実な方ばかりだったからです。

 

そして、知人の紹介で愛知県の機械メーカーで仕事を始めました。

 

仏陀のお寺へ

 

 ある年の夏。部屋をシェアしていたAさんが持っていた一冊の本に目が留まりました。『釈迦の本心』というタイトルです。

 

聞けば、同僚のSさんという男性から献本され、勉強していると言います。

 

私は、仏教の信仰篤い両親のもとで育ちました。母に連れられて週に何度も近所の寺院に行き、家では仏陀を祭っているデウタ(祭壇)に礼拝していました。

 

仏陀は私にとって、とても身近な存在だったのです。

 

 私はAさんから、「仏陀のお寺に行きませんか」と誘われました。着いた場所は中部正心館。御本尊の像が、ルンビニーの仏陀像にそっくりでした。驚いていると、講師の人が仏陀のお話をしてくださいました。

 

「ご存知でしたか。日本に仏陀が再誕されているんですよ。そ

 

れが大川隆法総裁先生なんです」

 

「あのルンビニーで生まれられた仏陀が!」

 

 ネパールでは転生輪廻が人々の間で深く信じられています。たとえば、今は父と息子であっても来世は逆になることもある、

 

家族で入れ替わったりする、という風に。大川先生のお写真を拝見させていただいた私は、尊さに思わず合掌していました。

 

 

「私は仏陀に帰依します。私は法に帰依します。私は僧に帰依します」

 

 再誕の仏陀のもとで三帰誓願(※)ができた感激は、今でも忘れられません。

 

例えようもない嬉しさに満たされて、私は伝道を始めました。毎日、仕事が終わると日本中にいるネパールの友人たちに電話を掛けます。

 

「2600年前、ルンビニーで生まれた仏陀が、今、日本で再誕されているんだ!」

 

 私の周りで一人、また一人とネパール人の仏弟子が誕生していきました。

 

幸福の科学の基本教義には、「RIGHT MIND」(正しき心の探究)と「愛」「知」「反省」「発展」があります。

 

 

特にこの「発展」の教えこそ、アジアの最貧国として苦しむネパールに必要だと心底感じています。この教えがあればネパールは生まれ変わることができる、そう信じています。

 

 

祖国ネパールの役に立ちたい

 

 来日した当初は、自分の家族の幸せを考えるだけで精一杯の私でしたが、今は祖国の役に立つ人間になりたい、と強く願うようになりました。

 

かつてNGOで働いていたとき、貧しいネパールの人々の将来を憂え、自らもまた不安を抱えていました。

 

そして、生活のために祖国を離れ、将来への希望さえ失いかけていた自分の心に、ついに仏の光が差し込んできたのです。

 

 

 今、私には、ネパールに仏の光を広げるという大きな目標があります。夢はネパールに幸福の科学の支部をつくることです。

 

祖国のすみずみにまで仏の光がゆき渡り、悲願の平和がもたされますように。毎日そう願いながら、今日も伝道を続けています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北朝鮮の潜水艦ミサイルが日本にとって危険な理由

2016-04-26 04:18:42 | 日記

高英起  | デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト

朝鮮労働党機関紙・労働新聞など北朝鮮メディアは24日、金正恩第1書記が、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の発射実験を現地で指導したと、多数の写真を添えて報道した。

(参考記事:「水中作戦能力が強化」金正恩氏、SLBM発射に立ち合い

それによると、今回の発射では新たに開発された固体燃料エンジンの性能や飛行制御、弾頭の動作が検証され、「水中攻撃作戦の実現のための要求条件を十分に満たした」としている。

また、金正恩氏はこれを受けて、いつでも米国の「後頭部」に痛撃を与えられるようになったとして、満足を示したという。

一方、発射されたミサイルの飛距離が30キロにしかならなかったことから、韓国軍は失敗だった可能性も含めて分析している。ただ、これまでに比べれば飛距離が大幅に伸びているのも事実で、SLBM技術の確実な進展をうかがわせる。

通常、SLBMは核兵器の運搬手段であり、それを積んだ潜水艦は水中に潜んで敵国の深部をねらう。仮に実戦配備されれば、日本にとっては厄介な話になる。

筆者が言わんとするのは、単に「SLBMで狙われたらヤバい」というだけの話ではない。周知の通り、北朝鮮の主な標的は米国だ。そして日本は、安倍政権が成立させた新たな安保法制により集団的自衛権の行使に踏み込んでいる。つまり、北朝鮮のミサイル潜水艦が米国に対して怪しい動きを見せたら、実力を行使してでも阻止すべき義務を負っている訳だ。

 

そうなったらもちろん、北朝鮮も黙ってはいないだろう。日本に向けて、直接的な「核の恫喝」を繰り返すはずだ。そして、これからそう遠くない時期に、北朝鮮は日本列島を「核の射程」に捉えている可能性が高い。

大手新聞などの記事を読むと、金正恩氏は米国に対話を求め、揺さぶりとして核・ミサイル実験を繰り返しているとの分析を見かける。しかし、現実はそうではなかろう。彼は1日も早く核兵器を実戦配備し、恫喝としての対外交渉に乗り出そうとしているように見える。そしてその裏には、人権問題で追い詰められ、暴力に頼るしかなくなった、正恩氏の絶望的な現実がある。

 

彼が核武装の腹を決めており、そのために必要な能力の多くを北朝鮮が備えてしまっている以上、われわれに残された時間は多くはない。今からでも、北朝鮮とどう向き合うべきか、本質的な部分を再検討すべきではないだろうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金正恩氏が「核の逆ギレ」を準備している

2016-04-26 04:16:03 | 日記

高英起  | デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト

国連の会議に出席するためニューヨークを訪問した北朝鮮のリ・スヨン外相は23日、AP通信のインタビューに応じ、米韓合同軍事演習が中止されれば、北朝鮮は核実験などの挑発行為を中止する用意があるとの考えを示した。

これに対し、ドイツを訪問中のオバマ大統領は24日、メルケル首相との会談後の共同記者会見で、「北朝鮮が朝鮮半島の非核化に対し真剣な態度を示すなら、われわれも緊張緩和に向けた真剣な対話に乗り出す準備がある」としながらも、演習を中止する計画はないとして、リ外相の提案を一蹴した。

北朝鮮は今、5回目の核実験に向け最終準備段階にあるとされている。

(参考記事:金正恩氏の「核弾頭爆発」が迫っている

その状況下でのリ外相の発言を、どう読むか。筆者ならば、北朝鮮が新たな核実験後、米国に対し「われわれの歩み寄りを蹴った」との非難を浴びせるための「逆ギレ」の伏線を引いたのだと見る。

オバマ氏の「死刑宣告」

一方、オバマ氏は対話の条件として「北朝鮮が非核化に対し真剣な態度を示す」ことを挙げている。北朝鮮は、金正恩第1書記が3月に「核実験と核弾頭装着可能な弾道ミサイルの発射実験を早いうちに断行する」と述べて以来、それに沿った動きを着々と進めている。オバマ氏が提示した条件から、遥か遠い所にいるわけだ。

オバマ氏はこれまでにも、たとえば米韓共同声明で同様の提案を行っている。しかし、そこでは北朝鮮の人権侵害追及にも言及されており、金正恩氏にとってはむしろ「死刑宣告」に等しいものだった。彼の「核の暴走」は、そうした状況から生まれているとも言える。

 

結論を述べるなら、人権問題に言及しないままの米朝間の「対話うんぬん」のやり取りなど、あまり意味がないのだ。金正恩氏は、国連の場で「人道に対する罪」に問われる可能性が提起されており、本当にそうなれば、ヒトラーなどと同列の虐殺者として扱われることになる。

そんな人物と、オバマ氏は握手することができるのだろうか? オバマ氏どころか、ドナルド・トランプ氏が大統領になったところで無理ではないだろうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オバマとは何だったのか:「最高で最低な大統領」

2016-04-26 04:13:22 | 日記

前嶋和弘  | 上智大学総合グローバル学部教授

(1)圧倒的な陶酔感の中で現れた「国民統合」の象徴

オバマとは一言で言えば、「最高で最低な大統領」だったのではないだろうか。それぐらいドラマテックな「オバマの時代」だった。

あまりにも期待が高かったために、その分、失望感も大きかった。

オバマ支持が一種の社会運動に昇華した2008年の大統領選挙を経て、さっそうと現れた初めてのアフリカ系大統領は、リーマンショックによる不景気や、「テロとの戦争」も一気に解決してくれそうなスーパーマンのようだった。多くの国民はオバマの雄姿とアフリカ系の苦難の歴史を重ね合わせ、オバマの就任に目を潤ませた。

そもそも「バラク・オバマ」の名前が全米的に知られるようになったのが、2004年の民主党全国党大会の基調演説であり、この演説で当時上院議員選に立候補していたオバマは「アメリカは青(民主党支持者)の州も赤(共和党支持者)の州の寄せ集めであったことは かつてなく今もこれからもアメリカ合衆国なのだ 」と力強く指摘した。「保守(共和党)対リベラル(民主党)」という2つの極への政治的分極化がすでに2004年段階でも目立っていたことに対するオバマの警鐘だった。オバマが体現していたのは「国民統合」であり、

「2つのアメリカ」と対極にいたのがオバマのはずだった。

外交政策では、ブッシュ前政権の外交を否定することこそがオバマ外交の基調だった。ブッシュ政権の第1期にネオコン組が台頭し、イラク戦争を中心とする介入主義をもたらしたが、これに対し、オバマは、不要なアメリカの介入を避け、対話を進めるという政策を打ち出した。アフガンとイラクという2つの戦争で疲弊した国民の厭戦感をとらえた現実的な外交であった。また、「アメリカ後の世界」(ファリード・ザカリア)という多極化世界の中でのアメリカ外交を位置づけようというのもオバマ政権の狙いだった。

就任直前に筆者はワシントンを訪れたが、様々な人の話を聞いても「オバマが新しいアメリカをまとめてくれるはず」という圧倒的な陶酔感(ユーフォリア)に包まれていた。

(2)「最高で最低な大統領」

7年3カ月たった今現在、その夢は全くと言っていいほど消えてしまった。

無理もないかもしれない。これまでも進んでいた「保守対リベラル」という政治的分極化が就任後、さらに激しく加速化したためだ。オバマ政権発足間もなく生まれた保守派のティーパーティ運動はうねりのように全米に拡大していった。運動参加者はオバマの訴える政策を「ごり押しの“大きな政府”」と吐き捨てた。

各種世論調査によると、就任直後は、6割から7割の国民がオバマを支持したが、その数字は減り続け、就任後約1年後には支持と不支持が並ぶこととなる。その後はずっと、支持と不支持率がほぼ4割台後半で長期的に拮抗し、現在に至っている。就任直後を除いて、支持と不支持率が拮抗したままほぼ動かないというのは、大統領の支持率調査が定期的に行われるようになったトルーマン以降、どの支持率の推移のパターンにも当てはまらない。通常なら、当選時に最高となり、あとは徐々に下がりはじめ、2年目の終わりの中間選挙のあたりで最低を記録、その後再選に向けて徐々に支持率が上がり、2つ目の支持率のピークが訪れる。もし、再選された場合は再び支持率が下がっていく――というのが通例である。

この異質な支持率の推移には、オバマ大統領の支持についての党派性の強さがある。民主党支持者はなんと現在でも就任当時とほぼ変わらない8割がオバマを支持している。しかし、共和党支持者は就任当初こそ支持率は4割程度だったが、その数字は就任後半年くらいに10%台となり、ここ数年は1ケタ台となることも少なくない 。無党派層からの支持率の推移も、就任当初の6割から就任後半年くらいに4割台となり現在まで大きく変わらない。このように民主党支持者はオバマを溺愛し、共和党支持者はオバマを敵視する。

アメリカ国民にとっては、オバマは「最高であり、最低な大統領」という例外的な存在の大統領がオバマである。

(3)リベラル派に依拠した「開き直り」

就任直後を除けば、オバマ大統領の政策運営も頓挫した。1期目の最初の2年間は上下両院で民主党が多数派だったため、大型景気刺激策、医療保険改革(オバマケア)、ウォール街規制などの画期的な政策を何とか実現できた。だが、2010年中間選挙の大敗で、下院多数派が共和党に奪われた後は、重要な政策はほとんど動いていない。それ以降、特に、財政をめぐる共和党との対立は、息が詰まるような閉塞状況を生み出した。例えば、予算をめぐって対立で2013年10月には16日間にわたって、連邦政府の機能の一部停止に至った。

それでも、再選を目指した2012年選挙では、選挙戦術がお世辞にも上手とは言えなかった共和党・ロムニー陣営の敵失もあり、再選を勝ちとった。

この選挙で勝利した大きな理由が、保守層からの支持をあきらめ、支持層であるリベラル派に大きく依拠した点にある。例えば、オバマ大統領の2期目の就任演説にはリベラル派に依拠した様々な「開き直り」が見え隠れしている。

2期目の就任演説の中心のテーマは、「全ての人間は平等に造られている」という独立宣言と、「人民の、人民による、人民のための政治」というリンカーンのゲティスバーグ演説を基に、貧困層や同性愛者、移民ら、いまだ十分な平等が達成されていない様々な弱者に対して政府が手を差し伸べ、守るべきであるという主張だった。そして。演説の後半部分の「私たちの旅=課題=はまだ終わっていない」という印象的なリフレインは、キング牧師の「私には(全ての人が平等となる)夢がある」という言葉を下敷きにしているのはいうまでもない。

ただ、演説内容についての評価は、分かれるところである。リベラル派にとっては感動的な演説であるのは間違いないが、保守派にとっては、今回のオバマ演説は「独善的な大きな政府への回帰宣言」に過ぎない。

ただ、演説を何度も繰り返し聴いていると、オバマは意図的にリベラル回帰を宣言したのは明らかだった。演説の中での常套句である「議会との協同作業」などには一切ふれず、共和党側を全く無視したような演説になっている。セネカフォールズ(女性解放)、セルマ(黒人)に加え、国民にややなじみが薄いストーンウォール(同性愛者)というそれぞれのマイノリティの権利獲得運動の象徴的な場所を演説で取り上げたのも、オバマのリベラル回帰を象徴的に示している。

ことごとく共和党と対立した過去の4年間を踏まえて「自分の信じる政策を突き進んだ方が国民はついてくる」というのがオバマの本音だったのかもしれない。大統領に3選はないため、実際、オバマにとっては選挙を恐れずに大胆に政策遂行が可能となる。そのため、オバマ自身も共和党からの「解放」宣言をこの演説で示したかったのかもしれない。1期目の苦しみを言葉に織り込み、演説にすごみを与えたといったら言い過ぎだろうか。

(4)「国民を分裂させた大統領」

ただ、リベラル派を固める戦略を前面に打ち出した2012年選挙以降、オバマの存在そのものが、政治的分極化をさらに顕在化させた感もある。

政治学では、「大統領は内政に弱く、外交に強い」という一種の方程式がある。ただ、オバマ外交の基調である「ブッシュ外交の否定」も成果ばかりではない。「ブッシュ外交の否定」の象徴が「アフガニスタン、イラクからの完全撤退」であり、これこそがオバマ外交上の最大のレガシーになるはずだったが、この読みが大きく外れている。イラクについては、2011年末までに米軍最後の部隊のイラク撤退が完了し、約9年にわたる戦争を終結させた。しかし、この撤退についてはかなり拙速の感があり、2014年に入ってからのイスラム国の台頭を招いてしまった。アフガニスタンについては2008年の大統領選挙のころからオバマにとっては「テロ対策の主戦場」という位置づけであり、就任時にから最大3倍以上の10万人規模まで増派を続け、治安回復を進めた。2011年5月には同時多発テロの首謀者でアルカイダを率いたウサマ・ビンラディンを殺害したこともあり、順調にみえてはいた。だが、実際にはタリバンはかなりしぶとく、パキスタンに逃げ込むことで勢力は衰えていない。このままではこれは第二のイラクになってしまう可能性もあるため、一時期には撤収方針を明らかにしたが、この見直しに至っている。オバマ政権第一期目のアジア・リバランスも名称だけが先行し、中国はアメリカの本気度をうかがっていた。中東やウクライナ問題でアメリカが介入しにくい状況に安堵したのか、中国は海洋進出を続けている。

世界中のアメリカ政治研究者や実務担当者の間でおそらくこの1カ月の間で最も読まれているのが、雑誌『アトランテック』に掲載されたジェフリー・ゴールドバーグの“The Obama Doctrine"(March 2016)であろう。筆者ゴールドバーグが何度もオバマ大統領に直接、話を聞き、オバマ自身に過去7年の外交政策運営を語らしている。記事の中で最大のポイントである「オバマ・ドクトリン」とは、“Don’t do stupid shit!”(馬鹿げたことはするな)という汚い言葉交じりのオバマの言葉に他ならない。“stupid shit!”の代表例が、ブッシュ前政権の時のイラク戦争であり、国益を無視して、体力以上に介入を続けた結果、アメリカの海外での威信の低下や、国力そのものの低下につながっているとオバマは考えている。ただ、オバマのこれまでの外交を見ていると、「国際社会におけるアメリカの役割の放棄」とみる国民も少なくないはずだ。

圧倒的な陶酔感の中で現れた「国民統合」の象徴がオバマだったが、就任してからは、皮肉なことに国民が徹底的に分断してしまった。日本など海外ではオバマ人気はまだ高いが、アメリカ国民にとっては何とももどかしいはずだ。2008年の大統領選挙で国民統合を訴えたオバマが「国民を分裂させた大統領」になってしまっているのはたまらない皮肉である。

大統領選挙に大きな注目が集まる中、これまでの外交上のレガシーをまとめあげるかのうように、4月後半にはオバマ大統領はサウジアラビア、イギリス、ドイツなど、同盟国を次々に歴訪している。5月末のG7伊勢志摩サミットもこの延長線上にある。もしかしたら、就任の時から何度か話題に出ていた広島訪問も実現するかもしれない。

残りの8カ月、オバマは何を残そうとするのだろうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする