Lec2:くらしの環境を風景から考える
(1)地域風景とは何か
①都市空間と都市環境
都市空間:物的な実態
都市やまちは、建築、道路、橋、公園、川など様々な構築物や自然物から成り立っています。都市空間という言葉はこれらの構築物などからなるフィジカルな実態を指す言葉だと考えていいでしょう。
都市環境:歴史、文化、風土的存在
都市空間は私たちのくらしの場であり、様々な活動を成立させている環境でもあります。都市空間をいとなみや暮らしの場という面からとらえると、都市「空間」というよりは都市「環境」という言葉がふさわしいと言えます。人間にとっての環境という意味では、気候や自然、風土なども都市環境の一部と考えたほうが良いでしょう。
都市環境は自然や風土を基盤に、人々のいとなみが時間とともに作り上げてきたものといえます。大地の上に人の手により一本の道がつくられ、建物が並び、そこで様々な暮らしが展開します。代を重ね、時間とともに、都市環境は、様々な意味や物語に満ち、複雑な文脈をもつ世界となります。そういった都市環境のなかで私たちは育ち、自己を形成していくのです。
私たちの経験は常に都市環境の中での特定の場所と結びついています。私たちの記憶も、特定の場所と結びついています。自分がどこにいるのかわからなくなるということは、自分が誰なのかがわからなくなるということでしょう。私たちは自分を取り巻く都市環境を拠り所として自分というものを位置付けているのです。
その都市環境があまりにも毎日変わってしまうと、私たちは自分との関係をきちんと取り結ぶことができず、戸惑います。もちろん都市環境は日々変化しているものですが、一定の安定性を持つことも求められるのです。
都市環境は、自然や風土と私たちのいとなみとが協働で作り上げてきたものです。長い年月のもとで受け継がれてきた歴史的存在であるといえます。また私たちの物的あるいは精神的ないとなみが形として継承されてきたものであるという意味では、文化的存在であるといえます。いとなみがその土地固有の風土のもとでなされているという意味で風土的存在でもあります。
身の回りの建築や道路などを都市「空間」として捉えれば、人間とはいったん独立した客観的な物的存在だととらえることができます。住宅を、床、壁、天井、屋根からなる構築物、ハウスとしてとらえるようなものです。一方、ハウスの中での人のくらし、いとなみをトータルに考えるとホームとなります。私たち建築の設計を専門とするものは、実態としてはハウスをデザインするのですが、常にハウスの中で営まれる家族やその活動を含むホームをイメージしてデザインをします。ハウスとホームの関係は、都市空間と都市環境の関係に近いように思います。ここでは都市空間を建築や道路、橋などからなる実体的な空間、そしてその空間を私たちのくらしいとなみの場だととらえた場合の言葉として都市環境という言葉を使いたいと思います。
②景観と風景
人いる風景、工学としての景観
私たちは、歴史文化風土的存在としての都市環境の中に暮らしています。その都市環境を私たちの前に立ち現れた姿として理解した場合に、それを風景と呼びます。ここまで、私は景観という言葉ではなく、風景という言葉を使ってきました。景観と風景という言葉の意味は重なるところが多く、本稿でも適宜景観という言葉を用いることもあります。しかし、違いもあります。なぜ風景という言葉を使うのか、景観という言葉との対比で考えてみます。
二つの言葉の違いを少し具体的に考えてみます。年末のテレビ中継で、年越しそばの準備にあわただしい蕎麦屋の厨房を映しだしたり、神社で新年を迎える準備をしたりする巫女さんたちを映します。その時の決まり文句が「正月を迎えるための年の瀬の『風景』」という表現です。また、年越しそばをうっている職人さんの作業「風景」とは言いますが、作業「景観」とは言いません。景観に人が加わった時に、その総体を描写する言葉として風景が用いられるのではないでしょうか。都市空間の中に人を容れて考えるのが都市環境でしたが、都市環境のたち現れた姿を表現するのは風景という言葉がふさわしそうです。
また先ほどの年末のテレビですが、年の瀬の「あわただしい風景」という言葉も常用されます。また廃校になって誰もいない教室を写す映像には「さみしい風景」というコメントが付きます。さみしい「景観」とはいいません。
あわただしいとか、寂しいというのは見ている側の主観です。都市環境の姿を主観との関係性の中で描く言葉が風景だと言えるのではないでしょうか。風景は心象風景や心の風景といわれるように、見る側の気持ちや状態も包含されています。景観は見る人により変わるものではないとしても、風景は時間や状況によって異なるものになります。人生の転機に見た「忘れられない風景」という表現もあります。何でもない景観でもある人の思い出の中では大切な風景になります。
言い方を変えると、風景というのは、見られるものが、見る人の心もちと反応して立ち現れてくるものといえます。風景は客観的に固定化して記述することはむつかしく、見る人の心に結像するものです。人と環境との応答の中で形成される心的な風景「体験」と考えることもできるでしょう。
景観は(言葉自体は翻訳語で、景を観るという字を当てているので、見る主体も含む概念ですが)一般的には、主体から見られる側の、対象物を記述するときに用いられます。主体と対象物がきちんと分かれているので「景観工学」という工学の一部門にもなります。都市「空間」の立ち現れた姿を景観と呼ぶと考えてもよいでしょう。景観ではなく、風景という言葉を使うということは、時間の中で、また身体性をもつ人間という視点から暮らしのすがた、すなわち都市環境を考えていきたいという気持ちを込めています。
風景は社会の文化を投影するもの
風景は主体があっての体験だとすると、主体の側のそのまちや地域に対するこれまでの経験や知識の深さによっても風景体験の質は異なってくることになります。
例えば、鶴岡を含む庄内地方には芭蕉の足跡が多く残り、観光名所にもなっています。人々も芭蕉と同じ場所を訪ね風景を追体験しようとします。景色を楽しむだけでなく、景色を前にして歌枕や先人の思いを追体験するのだと思います。当然ですが、芭蕉と同じ風景体験をするには、多くの知識や経験の蓄積が必要となります。同じ文化を共有している人は、ほぼ同じ風景を共有できる。逆に言うと文化を共有していない人には、その現場に立っても風景の共有は難しいともいえます。
このように考えると、風景というのは同一文化集団の了解事項ともいえます。風景という見方には、個人だけでなく集団としての、私たちの生活様式や価値観、文化が投影されています。
体験されている風景は歴史文化的所産としての環境なのです。そこに込められた意味や物語が、風景の深みとなり、同時に私たちの暮らしを文化的に豊かにしてくれるといってもよいのではないでしょうか。自分たちの環境を考えるときに風景としてとらえるということは、自分たちの環境の中に、歴史的なものや、そこに関わってきたもろもろの物語も一緒に考えようということ、文化的に環境の姿をとらえようということの裏返しとも言えます。
人間のよりどころとなるもの、地域のアイデンティティと切り離せない
人間は環境の中で育ち環境との応答を通して、世界の認識方法、自己と環境あるいは他者との関係性も身につけます。従ってその環境の認識の仕方、環境体験である風景も自己形成に大きくかかわっていることになります。言葉、言語と同じように、また和辻哲郎がいう風土などと同じように重要なものです。
人間は風景に自らのアイデンティティを重ねます。人は慣れ親しんだ風景を喪失すると自分のよりどころを失います。数年前、パリのノートルダム寺院が火災で焼失しました。テレビ映像では、人々の悲しむ姿が映し出されていました。それは、歴史的に価値を持つ文化財が失われることの悲しみ以上に、自分が人生の折に触れ慣れ親しんできた風景がなくなっていくことへの喪失感だったのではないでしょうか。そこにいつもノートルダムがあるということが、自分のアイデンティティにかかわることなのです。
第二次世界大戦後にヨーロッパの多くの都市では、がれきと化したまち並みを戦前の姿そっくりに戻しました。まち並の風景にこそ、自分たちがなんであるのかを確認するよりどころがあるということを示していると思います。
イタリアの建築家アルド・ロッシは「外部の環境のイメージやそれとの間の安定した関係ということが、集団自身が自ら創りあげる観念のなかで最大の関心事となる」というアルブヴァックスの言葉を敷衍するなかで「都市そのものが民衆の集団的記憶装置である」と述べています(ロッシ、A. 1991p213)。まさに風景(この場合は中心部にある建築と街並み)が、その都市が何であるのかということを思い起こさせる市民の記憶装置であるといえます。戦後の日本のように、建物や道路がどんどん姿を変え消えてしまう場合には、まち並みの風景は私たちのよりどころになりにくいと思います。帰属する意識やシビックプライドは安定して持続する風景からうまれるものです。
風景は社会で共有されるもの、コモン材、公共財
東京駅の話になります。レンガとドームの外観が特徴的な東京駅は、かつて建て替えが具体的に検討されていました。建築学会などが、建築的価値からの保存を訴えましたが、無力でした。しかし多くの人の願いで、残ることになりました。保存に力があったのは、その建物に親しみを感じ、その風景と自分の思い出を重ねる人々の共通の思いでした。東京駅の風景はみんなに共有されるコモン材あるいは公共財になっていたのです。
このことはヨーロッパのまちなどでは日常的に実感されます。公共空間である街路空間を構成する「壁」はそれぞれの家の私物ですが、この壁は共有空間である街路空間を形作る不可欠の要素です。個人宅の外壁であると同時に公共空間の一部でして認識されている、すなわち外壁がつくる風景がみんなの共有物になっているので、個人が勝手に建物を立て直して外観を変えることが禁じられているのです。多くの人に親しまれている風景は、共有の財産なのです。
③地域風景とは
以上で風景という見方、都市環境のとらえ方について共有できたと思います。
厳密に定義することはできませんが、風景の中でも、地域の人たちにとって共有され、大切にされている風景を地域風景と呼んでいます。
「はじめに」で述べたような映画おくりびとの背景となっている鳥海山のような自然風景も地域風景ですが、本稿では、人々が暮らしの中でつくり出してきたものを対象に考えていきたいと思います。すぐに思い浮かぶのは、棚田とともに一体のまとまりをなしている集落や街道筋の伝統的なまち並です。それは人々のいとなみが深まれば深まるほど豊かになる風景です。
(2)地域風景の現在
①失われた地域風景
多くの識者が、かつてはみんなに共有され愛されていた美しい風景が日本の方々にあったということを指摘しています。渡辺京二は外国人の目をとして江戸末期から明治の風景(渡辺京二2005)を描き出しました。また建築家レーモンドも日本の19世紀の街並みの素晴らしさを指摘しています。
この美しい風景は、明治維新や第二次世界大戦など大きな変革期を経たのちに、1970年代までの高度成長の時代に決定的に失われてしまったことも、多くの識者の共通認識になっています。結果として私たちの眼前にあるのは、「都市には電線がはりめぐらされ、緑が少なく、家々はブロック塀で囲まれ、ビルの高さは不揃いであり、看板、標識が雑然と立ち並び、美しさとはほど遠い風景となっている。四季折々に美しい変化を見せる我が国の自然に較べて、都市や田園、海岸における人工景観は著しく見劣りがする」(国土交通省2003 「美しい国づくり政策大綱」)という風景です。
②高度成長の中で何が起こったのか
建築の商品化
かつて住宅は地元の大工さんや左官職人が伝統を踏まえた工法で、地元材によりつくっていました。つくるプロセスが共同体の普請になることもありました。まちや、屋敷、農家、長屋等一定の型(かた)や地方ごとの特徴ある形式もありました。
しかし今や多くの住宅は、企業が供給する商品になっています。商品は工業製品の組み合わせでできています。工業製品は全国共通に規格化されることで性能が保証されます。また工業製品は新しい方が性能が良いので、古い製品は取り替えられます。住宅は消費物となっているのです。
沿道の商店なども、全国チェーン化する中で消費者の関心を引くように建てられ、一定の収益を上げたのちは、消費者の飽きが来る前に取り換えられていく、いわば消耗品となりました。
これらの傾向は、自治体も助長しています。最近自治体が行う事業コンペの要綱を見ると「20年間はお貸ししますので、建物を建てて注液を挙げてください。そののちには更地にして返却してください」となっています。建築は、ただの使い捨ての商品です。これでは持続的な風景、地域風景は期待しようがありません。
車のための環境に作り変える
車社会になり、まちは車が活動しやすいように構造を変えてきました。まちを歩くことがなくなりました。車で行き先を認識するには、大きな看板や、主要な交差点などの経路を示す記号があれば十分です。道路沿いのマックの建築自体が記号といえるかもしれません。身体性を持った人間が、目に映るものや音、匂いなどのまちの雰囲気を感じながら、目標に到達する必要はありません。車にはまち並みが不要です。
また車にとっては距離が抵抗にならないので、場所の特性がなくなってきます。まちが均質化して、場所の意味がなくなるのです。TV番組のブラタモリで体験する「高低差」は車には関係ありません。車でアクセスしやすいかどうかがクリティカルで、川に近いか、歴史的な中心に近いか遠いかなどは関係ありません。風景は均質になっていかざるを得ません。
ブラタモリのように歩くことが、まちの成り立ちや文化に触れることです。まちのそこかしこに埋め込まれていた歴史や物語も車では体験することができません。感覚を持ち、記憶を持った人が歩くことを通して体験できる場所の持つ意味が希薄になってしまいます。風景も均質化するということでしょう。
不燃化・高度利用
まちを俯瞰的な立場で見る行政からすると、木造で密集した日本の街は危険極まりなく、また効率的合理的な利用がなされていないものに見えると思います。不燃化、高度利用の考え方にはもちろん一理あるのですが、それをめざさないと「遅れたまち」とみなされる、近代主義的な考えです。これにより町の歴史や営みを伝える文化的なものが失われていく速度が加速されてしまったといえるでしょう。
また大きな建築物はどうしても中央の資本となります。駅前にジャスコという風景は多くの地方都市が経験したことですし、また資本の論理によりジャスコが撤退して空きビルになるというのも共通に見られる風景です。
自由な個の跋扈
個人の自由は尊重しないといけないと思います。しかし、この写真を見ると、どうも個人の自由が環境の良さ、心地よい風景の創出にはつながっていないということを強く実感します。
それぞれの敷地の事情で出来上がった風景です。
先年(2022年)亡くなられた建築家・都市デザイナーの長島孝一さんがお書きになった文章を引用します。イギリスで、自邸を改築しようとした時に自由にならなかった経験を綴っておられます。
歴史的に個人の自由と権利を至上の価値として尊重し執着してきた西欧市民社会の論理として、どうしてこの事例のように私権無視とも思える判定が通用するのだろう。思うに、市民社会の原理として “ 私権 ” とは独立した絶対的なものではないのだ。市民社会の文脈の中では、無数の “ 私権 ” から成る集合体があり、権利義務を平等に分かち合う実体として “ 公 ”(public)という観念が強く存在する。その “ 公 ” の中で “ 個 ” の権利としての “ 私権 ” は相互間のバランスをとりながら相対的に位置づけられる。これが市民社会の原理である。そのようなダイナミズムの中で公正な判断するのが “ 公 ” の役割であるというのが市民社会に普遍的な “ 心の習慣 ” なのだ。
市民社会の原理についてはイギリスから学ぶことがありそうです。かの国の落ち着いたまち並、美しいまちや集落の風景は、共有されている市民社会の原理に源があるように思います。
多くの要素であふれる道路などの公共空間
電線電柱、ストリートファーニチャー、ガードレール、路面標示などで公共空間が混乱していることは言うまでもないでしょう。
法律にも期待できない
この状況を受けて2005年にできたのが景観法です。また歴史的な環境をまちづくりに生かすためにいわゆる歴まち法など多くの法律も作られているので、私を含め多くの人が風景や景観が改善されることを期待をしてしまう状況が生まれました。
しかし景観法を含む日本の法制度に過度の期待はできないようです。私の恩師、都市計画家土田旭氏が関係者の協力のもとにまとめた『日本の街を美しくする 法制度・技術・職能を問いなおす』(土田旭ほか2006)という本があります。この本は日本の景観の状況を総合的に考えるうえでの教科書のようなものです。そこから引用しながらいまおかれている状況をまとめてみます。
「明治維新以降、わが国の都市計画、建築規制制度の基本使命」は「日本型近世の街並みを欧米型近代への街並みへと、いかに円滑に変容させるか」ということでした。ここでいう「欧米型近代の街並み」へ変容させるというのは、パリやベルリンの美しいまち並みをつくろうということではなく、既存の木造の「貧相な」まち並みを否定して、外国人が見ても恥ずかしくないような荘厳な建築を並べていこうということです。またこれに合わせて「モータリゼーションに対応していない道路体系については徹底的な改造」が行われてきました。この考え方が、すでにあった伝統的な地域風景をどんどん壊す方向のベクトルを持つことは言うまでもありません。
この状況を受けて景観法はできましたが、土田が言うには「都市計画・建築規制制度の基本的性格自体が変更されたわけではない」ということです。「都市再開発特別措置法が生まれ、建築基準法の性能規定化と天空率制度の導入などの、まち並みスカイラインの更なる発散を志向し、許容する制度整備が並行して行われる」というように「国のビジョンは・・・統合失調症に陥っている」という厳しい指摘もなされています。
また「景観法が制定されたからといって、よりよい景観デザインが、より高度利用を図るデザインに常に勝利できるようになったわけではない」という指摘には着目すべきです。理由は「景観法による景観計画の内容は、建物の高さや壁面の位置、外壁の色調などの単純かつ概形的な要件」のみになっており「実際に良好な景観の創出に到達する作業は、個別のデザインが受け持つしかない」からです。とすると状況は景観法依然と大きくは変わっていないのです。
まとめ
以上をまとめます。下のような風景が私たちの現前にあります。
- 時間の蓄積がなく深みのない風景
- 土地らしい味わいや地域らしさのない風景
- 調和がなくバラバラなのに無個性な風景
- 町の濃度差がない中心を失った風景
(3)地域風景をデザインする
①都市デザイン/地域風景デザイン
以上のような状況を受け、地域風景をデザインするということは、私たちの暮らす都市環境に働きかけて、少しでも魅力的で個性的な地域風景をつくり出していこうということです。もちろん、いいものについては守り、育て、そして必要に応じて新しいものを生み出していくということになります。
都市環境に働きかけるという意味では、都市デザインという活動があります。
都市デザインについて簡単に復習します。19世紀半ばに生まれた近代都市計画や20世紀初頭から並走するモダニズム建築や都市思想は、都市環境が歴史的、文化的また風土的存在であるということをひとまず棚上げして、インターナショナルで機能優先の都市空間づくりに励んできたといえます。その反省のもとに、都市空間に再び人間を置き、歴史的文化的また風土的存在としての都市環境を個性的魅力のあるもの、誇りをもてるものにする活動が20世紀後半からの都市デザインだったというのが私の理解です。
都市デザインが扱うべき課題や目標は地域、時代によって変わってきました。しかし、人間を中心に据えるということと、歴史、文化、風土的存在として都市環境をとらえるという基本認識は根底にあり、変わらないものだと思います。都市デザインとは対象となる広がりや場所における時間の流れや、文化の繋がり、そして風土が積み重ねてきている文脈の中で、良いものを守り育て、必要に応じて新しいものをそっと丁寧につけ加えていくという行為だと思います。その態度は、都市スケールから建築のスケールに至るまで共通です。
都市デザインは、市民や自治体と様々な分野の専門家が協働して取り組むべきものです。私のように、建築設計を専門とするものは、都市「環境」の「空間」構造、成り立ちを考え提案することを通して都市デザインに関わります。
風景とは、都市環境の立ち現れた姿ですので、私たちの地域風景デザインとは、都市環境を風景という側面からとらえたデザイン活動であるということができます。
②広いエリアからのアプローチ
地域風景をデザインするうえでは、地域や都市スケールから建築やストリートファーニチュアに至るまでの総合的な視野のもとで、総合的に取り組んでいくことが求められます。風景に向き合う態度は共通するにしても、主体や方法はスケールごとに違います。例えば地域の風景を大きくとらえる場合には、地形や気候風土の分析など広い視野からその地域の風景の特色を捉えることから始まり、課題を分析し、何を守り、育て、改善していくべきなのかを整理して、実行のための手法の議論を整理するということが出発点になります。そういったことについては、別の機会にまとめてみたいと考えます。
➂小さな風景、個の風景の集合として積み上げること
本稿で扱うのは、建築スケールの小さな風景の改善を積み重ねることで、地域風景をデザインしていこうという試みです。私たちの研究室や私の設計アトリエで扱う対象がおのずと小さなものになるということでもあります。また、前項の土田旭氏の指摘にあるように「実際に良好な景観の創出に到達する作業は、個別のデザインが受け持つしかない」というのが現実です。しかし、小さいところから風景を少しずつ変えていくことにはさらに大切な意味があるとも考えています。
都市という一枚の絵
私たちの研究室などで行ってきたことも、一つ一つの建物を何とかしようとする活動の集積であったともいえます。
いつもは小さなことを扱うがゆえに、建築家や都市デザインナーは、大きな広がりを一枚の絵で描いてみたいという魅力、魔力にとらわれることがあります。20世紀半ばのように、人口も増え、経済も成長するときには一枚の絵でまちをつくることが実際に行われてきました。しかしその「一枚の絵」をかくという行為を槇文彦氏は「都市という一枚の絵」(槇1977)のなかで「これほどロマンティックな暴力行為はない」と戒めています。
同様なことを、生活者の視点から鋭く指摘し実践でも示したのが1950から60年代のJ. Jacobsだと思います。彼女は、モダニズムの建築家や都市計画家が、全体を俯瞰する立場から機能的で効率的なシステムとして都市を作り変えようとしたことに対して、人間の視点、あるいはストリートにいる一人の人間の視点から、NOを突きつけました。まちの中で繰り広げられる人と人とのつながりなどを大切にすることから、モダニズムの都市計画を否定したのです。
またJacobsは私たちが暮らすまちや都市をどうとらえるかという点でも、都市はOrganized Complexityであり、そんなに簡単に分析して解が得られるような単純な代物ではないということを分析しています。同様にC. Alexander複雑な有機体である都市空間を「建築家として設計してしまおう」ということに対して、そもそも人間の能力的に不可能であることを数学的に証明しようとしました(『都市はツリーではない』)。B. Rudofskyの『建築家なしの建築』なども、建築家の一枚の絵に期待してはいけないことを、指摘したといえるでしょう。
藤沢周平の視点
庄内の生んだ小説家藤沢周平が、故郷の風景について語った文章があります(藤沢周平2005)。氏は、生まれ育った「見馴れた風景の中に、ごく近い将来高速自動車道が割りこんでくること」(下線は引用者)に対し危惧を表明しています。
氏の小説の舞台となっている鶴岡城下-海坂藩-の風景(この場合は実際のものではなく氏の心象風景)は彼にとって終生変わらぬものであっただろうと思われます。その一方で、現実の鶴岡が都市活動により日々変貌することは認めざるを得ず、高速道路もその一例です。しかし、地元の人々の営みの結果で風景が変わっていくのではなく、高速道路のように、その土地の歴史や文脈とはまったく無関係な侵入者によって風景が変わることに対して、抑えがたい感情があったのだと思われます。
藩のお家騒動などを、全体を俯瞰する立場ではなく、そのなかで翻弄される一人の生身の人間を通して描き出したのが藤沢氏です。高速道路をつくるにも実際にその場に立って、一人の生身の人間として道路を捉える視点がないことにいらだったに違いありません。その視点こそ、風景体験の場としてまちの環境をとらえる視点であり、個人の風景をまず大切にし、その集合として環境の在り方を考えていく視点だと思います。
風景の回復を考えた場合に、まちや地域全体を俯瞰して、戦略を練ることも当然必要なことです。しかし同時に上記のような、一人一人の心の風景、日常生活の風景の集積で私たちの風景が成り立っていることを忘れてはならないと思います。ここに地域風景を再生する手掛かりがあると思います。
個のつくる都市
もう一つだけ、私たちが日々デザインの対象としている建築や小さな公共空間から風景を考える意味について述べます。
イタリアやギリシャのまちを歩いていると自分の歩いているみちが、建築によって囲まれた空間であるということを実感します。建築が集合することで公共の場所であるみちという空間が出来上がっているのです。また細い路地を入っていくと建築の一部がくりぬかれたようになっていて、路地空間が続くこともしばしばです。また、道端の住戸には2階に玄関がある場合もあり、1階の建築が2階への通路を提供していたりします。言い換えると建築が2階への通路と不可分な存在であり、建築をつくることがまちのあり方をそのまま規定しているということです。大きな広場も小さな広場も、建築が取り囲んでいることで、空間となっているのです。
そのような都市においては、建築をつくるということはすなわち、みち空間をつくることであり、また都市空間をつくるのだという感覚に結びついているのだと思います。そのような都市では、周りを無視して建築をつくるということは基本的に不可能なことです。
私は、小さな建築や、小さな公共空間などのデザインもまちや都市の全体を形作る重要な要素だといつも思っています。もし、個々の建築の集合が、美しく魅力的なくらしの環境を形作るとすれば、全体からのルールだけでなく、個の建築の中にも、全体の集合のあり方に関わる遺伝子のようなものが埋め込まれているはずです。私たちの設計作業は、その遺伝子を確認するプロセスかもしれません。
次章からは、私たちの小さな場所での実践を交えながら、地域風景を回復、創造する試みについて述べます。
高谷時彦 建築・都市デザイン
Tokihiko TAKATANI architecture/urban design
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