豊川斎赫編2021『丹下健三建築論集』岩波書店を読んで
私は、丹下先生が退官する年に都市工学科に進学した。おそらく最後に近い授業を聞いた学生の一人だと思う。授業の課題で丹下先生の都市に関する本を読んで以来、何冊かの建築論、都市論を読んだり、最近では湯島の建築資料館で行われた丹下健三展を見たりしたが、今回のこの本を読んで、あまりにも自分が知らないことがい多いことに、我ながらあきれる思い、恥ずかしい思いである。しかし事実だからしようがない。
備忘のためにも、この本から学んだことを少し書き留めておきたい。
<近代建築のとらえ方、近代主義の超克の方法>
まず歴史の中での近代建築のとらえ方について。
1957年の「サンパウロビエンナーレ展の焦点」(豊川編2021、pp235-250)の書き出しが「いまどこの国でも、近代主義を乗り越える道を探し求めているようにみえる」というもの。すでにみんながそのように認識していたのか、あるいは丹下先生の認識が時代に先行していたのか?いずれにしても私は丹下先生が1957年にそのような提示をしていることに驚いた。
建築や都市計画における近代主義を主導したCIAMで都市のコアを議論したのが1951年。丹下健三は広島の計画を発表している。その後数年を経てCIAMは崩壊に向かうのだが、1950年代はミッドセンチュリーと呼ばれた近代主義的なデザインの全盛期でもあり、いわば近代建築の全盛期という印象を、私は持っていた。その時期にあって丹下先生はすでに、次の時代への強い問題意識を持たれていた。
丹下先生は近代建築が1920代にコルビジェやグロピウス、ミースたちによって始まり機械時代の建築であり、機能主義とも呼ばれたと説明をした後、「すでに形式化した近代主義は、その創造性を失った」(豊川編2021、p236)と切り捨てている。
そのうえで、近代主義超克のための3つの道をしめす。
①近代主義の徹底。代表はミース。代表がシーグラムビル。
②近代主義のもっている冷たさ、非情さを捨てて、温かい人間らしさを求める道。サーリネンやブロイヤー。ユネスコ本部。
➂ヴァイタルで人間的なものを求める立場。①のように技術至上ではない。また②のように技術を単なる手段と考えるのでもない。コルビジェのコンクリートの作品(ロンシャン礼拝堂1955のことだろう)。
丹下先生の立場はもちろん第3の道。その自分の立場を第1の立場のフィリップジョンソンや第2の立場のブロイヤーと戦わせた建築賞選定過程のの議論を借りながら自説を開陳する。レトリックとしてもうまい。
例を挙げる。「工場労働者の住居集団」の審査での議論を借りながら丹下は持論を展開する。機能主義の都市計画では住居・労働など4機能に分けてそれぞれの機能にかなった解決を得ようとする。それに対して丹下は都市計画の近代主義は間違っていないが「ただ何かに欠けている」という。「生活はそれらの機能の統一として実在している」という認識を示す。そのうえで「都市計画をする場合、いま建築家には、より広い、より新しい立場と創造力」を求め、「機能の統一体ーいえば社会生活そのものを視覚的にイメージしうる能力が必要」だと断じている。「社会的な構想力」である。この構想力は丹下先生の考えにあるキー概念である。
建築家個人の中に、近代主義を乗り越えていく力ー「社会的な構想力」を期待しているのである。この言葉にはひかれる・・・。
<建築と都市計画の関係>
この項目は「美しきもののみ機能的である」と論じた論文「現代日本において近代建築をいかに理解するか」(豊川編2021、pp32-54)に関するもの。
この小論は、近代建築の限界を超えようとする中で日本的な伝統とどう向かい合うべきかなど内容は深いが、 ここではただ一つ丹下先生の「建築には都市計画の立場が内在しなければならない」という言葉(豊川編2021、p35)との遭遇について書き留めておきたい。
この言葉の意味するところはおおむね次のようなことだろう。建築空間の表現は私的経済的機能としての内部機能と社会的立場からの外部機能の接触するところにある。その例はピロティ。ピロティのあり方を考えることが、建築単体としての存在を超えて社会との適正な関係をつくりだす。すなわち建築が都市計画の立場を内在させるものになるということである。
ピロティの意義についての議論は措くとして、「建築の中に都市計画」があるべきという表現に素直に驚いた。この表現は大谷幸夫先生のある言葉ー個即全ーを思いださせる。「一つ一つの建築が都市をつくり、自分の設計した建築も都市の一員であるのに、どうしてこれが都市計画につながらないのか」、「強権の指示によって出来る都市計画は、私たちの生活にとって危険なものだ」という問題意識に支えられた言葉である(大谷1961)。
建築家は建築の集合として都市をとらえる見方を持つがその時、建築が他の建築や都市とどのような関係を持つことが、人々にとって好ましい環境を作り出していくのかということが問題となる。建築自体の中に集合に向けての契機を見出すのか、あるいはもっと大きく全体を規定するもの(例えば都市計画)によって秩序を得ようとするのか・・・。大谷先生は個の中に全を内包すべきだと考える。この中に集合の契機を持つような建築を探し求める(その一例が中庭型建築)。
大谷先生の当時の問題意識の背景にあるものを私は大きく誤解していたかもしれない。私は、大谷先生の論文が丹下先生の東京計画1960に対するアンティテーゼという性格をどこかに持っているとばかり勝手に思っていた。丹下先生の東京計画1960はメガストラクチャーである連結したリング状の交通空間(情報やエネルギーのインフラストラクチャーでもある)に、個々の建築がぶら下がるという構造。素晴らしく美しい提案であるが、個が全体に従属しているという印象が否めない。この印象はメタボリズムの提案にも共通していて、古くなったら取り換えるという発想からは、大谷先生が大事にする個の主体性が見いだせない。個の主体性、あるいは自立性を確保したうえでの集合の仕方はないものか?この問題意識は槇文彦先生のInvestigations on collective formからも感じられた。
しかし、「建築には都市計画の立場が内在しなければならない」という言葉には、建築内部に集合への契機を持っていたいという大谷先生の言葉とほぼ同じ意識を感じる。東京計画1960をもってして、丹下先生はメガストラクチャーの信奉者だと思い込むのは早計であった。丹下先生も個の問題と全体(都市、都市計画)の関係に関するいろいろな解決方法を模索していたのではないか。
「建築には都市計画の立場が内在しなければならない」という言葉は私にとって丹下先生の思考の奥深さを改めて気づかせてくれた。
<日本の伝統をどのようにとらえるのか>
この点については、石元泰博と共著の写真集『桂ー日本建築における伝統と創造』について書いた「「桂」序」(豊川編2021、pp227-233)が分かりやすい導入部となる。
まずこの写真集は現実に存在している桂とは違うものであり「私たちは桂を破壊的に眺めている」という言葉に驚かされる。 実際写真は桂の部分を切り取ったものであり、それは桂あるいは日本建築の伝統に対する批判であると吐露される。このイントロダクションに惹きつけられる。
日本建築や庭は、身辺的な体験と情感から出発し空間から時間へととめどなく流れ、統一され全体像に至ることがないことを指摘する。桂はその一例。これは主観情緒的な性格を持つ、弥生的、王朝的文化の系譜。しかし部分的にはヴァイタルな民衆の文化形成のエネルギー、縄文的なものとのぶつかり合いの中で生まれた創造的精神も読み取れる。桂の本は上の両者のぶつかり合いから生まれる自由で多様なものを伝えるためのものであるという。
この弥生的なものと縄文的なものの燃焼のさまが、「伝統と創造の」構造を表すという。ここに学びがあるということだろうが、もう少し深く考えるためには、「現代建築の創造と日本建築の伝統」(豊川編2021、pp55-99)が用意されている。また、桂離宮をめぐっての言説に関しては、最低限「桂ーその両義的な空間」という磯崎新による解釈(石元泰博1983『桂離宮ー空間と形』岩波書店所収)にもあたっておく必要がありそうだ。
途中まで書いてきたが、準備不足、この上ない。この項目については、次のブログでまとめることにしたい。
参考文献
大谷幸夫1961「覚書・Urbanics試論」『建築1961.9 特集 都市構成の理論と方法』青銅社
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