コロナ禍の最中には大学などでオンライン授業が行われていたが、私などは、それよりも早くから放送大学でオンラインの授業を受けていて、約十年間で三つのコースを卒業した。しかし、現在の学歴社会にあっては、放送大学という誰でもが出願さえすれば入学出来るという大学についての(ただし、卒業するには規定の単位を取っておく必要があり、最近の単位認定試験は難しくなっている。)世間の評価は未だに低い。
ところで、最近では、chatgptなどが登場しており、かねてから、AIが「人間の知能を大幅に凌駕する」時点(シンギュラリティ)が近いということが一部で話題となっていることからしても、SNSで検索すれば、昔のように大学でのみ得られるという知識が少なくなっていることからしても、大学や院を卒業したとしても、それは単なる免状を得たに過ぎず、例えば、その人が就業した時に、必ず役立つ人間であるという証明にはならないとも言われていて、今後、数年先には、単なる定型的な事務仕事などはAIを利用すれば良い時代がきて、何も大卒の者を雇う意味は無いとまで言われかねない。特に、学歴を基にしての終身雇用とか年功序列とかについては、苛烈な競争に晒されている企業で不必要となる時代が、もうすぐそこに来ているのかもしれない。
しかし、高卒でしかない私が長年勤めていて、一部の大卒の人にかなわないと思ったのは、物事の把握能力とか集中力とかであったし、人との関係性を作る能力であった。それは、過酷な受験競争に勝ち残ったということと、大学生活の中で豊富な人間関係を作ってきたということの特徴であったかもしれない。(しかし、あくまで人によるので全ての大卒者がそうであったというのではない。)
そんな私でも、定年前から放送大学に入学して学習してきた。放送大学は、幅広い教養科目が中心であって、その中から希望のコースに沿って、自分で科目を選択して自由に学習するというスタイルであったが、その中で、自分で学びたいテーマを見つけて学習してこれたと思ってはいる。一般に教養学部を軽視する風潮もあるが、世の中に対する幅広い視野を養うには、基礎教養が重要であることは言うまでもないし、判らないことを自分で調べようとする力こそ大切だと思う。
AIに出来ないことは些細な現場対応力かもしれないし、逆に、幅広い視野から物事を把握する能力であるかもしれない。学歴は単なる免状に過ぎないかもしれないが、それを得る過程で何らかの得るものがあった人であるならば、それなりの証でもあるだろう。しかし、単に試験に合格する能力とか、不必要な知識だけ詰め込んだということなら、そんな人はAIには勝てそうにないだろう。絶えず、物事の真実は何かということを考え続けることも大切だと思う。私が、ロシアや中国共産党などの統制国家が、自由主義を標榜している西側諸国に結局は勝てないだろうと思うのは、誰かが決めたことをなぞるのではなく、自由な発想で新しい事実を追求しようというところにある。この数十年間我が国が停滞してきたのは、縦割り、横並び、慣例重視という、お役所的なことなかれ思想に染まってしまったことにもよると思っている。