少し前までは、男性であれば、高身長、高学歴、高収入が持て囃されていて、その上に付け加えるならば、ハンサムとか美人とかがあっただろう。ちなみに、私は、そのどれにも当てはまらないし、おまけに、禿でデブで眼鏡をかけていて社交性も無いという、世間的に言うと、どうしようもない部類に入ると思う。
最近になって多様性ということが取り上げられることが多いが、昔は、日本人は同一民族であり、同質性を持ち、同じような考え方をしているというのが長所であるとされてきたのではなかったかと思う。特に官僚などの世界では、慣例重視、縦割り行政、横並びが尊重され、その上、裏面では、有力者に阿たり、縁故主義が幅を利かせていたようにも思う。ある意味では、安倍元総理とその取り巻き達がその代表であったのかもしれない。特に、戦後は大量生産、大量消費の時代があり、同一規格・同一品質であることが生産的基盤であった。戦後の高度経済成長は、明治期以降の国民教育の成果であったかもしれないし、終身雇用、国民年金などの社会保障制度、皆保険制度などは、昭和の時代の繁栄を支え、人々に将来の夢を保障していた。ところが、近年の人口減少と低経済成長社会では、この画一的で、近視眼的な島国根性的な日本人の性質と昭和の時代に作られた社会構造が、あらゆる分野で障害となってきつつあるのではなかろうか。
個人の持つ多様性、人間関係の中での多様性を尊重するということは、日本社会の中にある、ある意味で、安定や同質性を好むという風潮とは反するものであろうし、それ故に、本当の意味での多様性を主張することは、ある種の強固な反対に遭う可能性が常にある。ユネスコなどで多様性の尊重が取り上げられているので、知識人や政治家、マスコミは、好んでダイバーシティなどと横文字を使ったりしているが、本当に多様性を尊重するということの現実的な意味を理解しているのだろうか。グローバル化が進み、少子高齢化により人口の急激な減少と、それによる経済的、社会的縮小過程に突入しつつある我が国において、唯一の道は、多様性の尊重にあるといっても過言ではないと思うが、現実に行う場合には、縦割り、横並び、慣例重視という日本の社会構造をも変革せざるを得ないだろうし、LGBTQなどをやむを得ず少しは認めるといった部分的なものではなく、我々の考え方の根本の改革が必要とされるのではなかろうか。
そこでは、昭和の時代に好まれた「三高」とか、イケメンとかという考え方ではなく、学歴や就いている職に関わらず、懸命に努力する人々こそが尊重されるだろうし、何よりも機会の平等が求められ、多言語での公教育・行政サービスや、異なる考え方や人種的差異をも包摂することが必要とされるだろう。しかし、果たして、それを本当に行う覚悟が我々日本人にはあるのだろうか。もし、それをしなかったら、日本は近い将来、果てしなく収縮した社会となり、世界からは見捨てられることになるだろうことは目に見えている。
※ 2001年11月にユネスコにて採択された「文化的多様性に関する世界宣言」の第一条では、「生物的多様性が自然にとって必要であるのと同様に、文化的多様性は、交流、革新、創造の源として、人類に必要なものである。この意味において、文化的多様性は人類共通の遺産であり、現在及び将来の世代のためにその重要性が認識され、主張されるべきものである。」と規定されている。