このところ、私は、中居&フジテレビ問題から目が離せなくなっている。それは、単なる好奇心を超えて、この問題からは、日本社会に根強くある前近代的な女性観と、それに対する一部の女性の毅然とした対応ということが見えているような気がするためである。
人が人である上において、想像力が大切であり、ネアンデルタール人などの類人猿が滅びてもホモサピエンスである人類が生き残って来れたのも、ある意味では、自分や自分の属する集団が行ってきた従来の行いや考え方に疑問を持つことの出来た、一部の想像力や勇気を持った人がいて、冒険に出掛けたり、今までに無かった方法を試したりということがあったからだと推察している。人が想像力を錬磨するについては、まず第一に、自分がやってきた、考えていることに疑問を持つということもあるだろうし、自分と接する人がどう考えているか慮る能力ということも大切だろう。ところが、現実の世の中では、性欲や出世欲、世間の人から良く見られたいなどの様々な欲があり、また、今までやってきた考え方ややり方が正しいという心理的なバイアスもある。それらが人や集団における想像力の欠如ということに繋がっている。
中居氏は、災害地への多額の寄附やボランティアなどを行ってきて表彰も受けているような人であり、人に対する思いやりが全く無い人ではないと思われるが、今回のトラブルでは、その女性と、より親しくなりたかったということが本心であったとしても、その女性の心のうちなどに思いを致すということが結果として出来ておらず、逆に、女性がPTSDを発症するほどの大きなトラウマを与えてしまった。
想像力を育むには、大学を出ているとかは重要ではなく、自分自身に対する、また、社会的風習などに対しての疑問を持つことが必要であり、そのようにして想像力を豊にすることが、視野の拡大、他者への寛容・共感などを育てることに資するのではないかと思われる。
この問題では、フジテレビに代表される組織の、被害女性への対応に問題があったとされている。女性からの相談を受けたフジテレビの上司たちは、自らの組織風土が、このトラブルを招いた原因とは考えず、或いは、女性が中居宅を自ら訪問してトラブルに遭ったことを捉えて、単なる男女間の問題であると敢えて矮小化し、当事者である中居氏に対して問いただすことも無く、事案を収めようとしたとされる。有力タレントや有力者の会食に、社員女性を接待要員として招くことが常態化していても、それを異常であるとは思わない企業の在り方がある。有力な幹部に逆らうことが難しいという強い権力匂配のある中で、会食に招ねかれた社員女性にも拒否する自由があると言い張る企業論理の異常さは、コンプライアンス重視とか、女性活躍社会とかの理想論に、公正中立を旨とする放送局であるフジテレビの企業風土が、全く異なっていたということが明らかになった。
しかし、この問題での唯一の救いは、トラウマの渦中にあった被害女性が、幾分かの回復を見せて、自らのフォトエッセイを出版しようとしていることで、おそらく、エッセイの中では、このトラブルそのものに触れる事が無いものの、それでも今の自らの気持ちを正直に本の中に記載したことだろう。
まさに、この時期に、同じような経験を持つ伊藤詩織さん監督のドキュメンタリー映画が、アカデミーショーにノミネートされたというニュースが飛び込んできた。伊藤詩織さんは、安倍元首相と親しかった元テレビ局員から、泥酔状態になったときに性被害を受けたとされ、警察に被害を訴えたものの、警視庁幹部の意向により事件化されなかったと言われており、社会の性暴力に対する無関心や日本の司法制度に問題がある中、6年間かかって自分の経験をこの「Black Box Diaries」という作品にしたとされる。
重大なPTSDの症状から立ち直って、自らのインスタグラムの中などで、「私は、それでも負けない」と女性としての毅然とした姿を見せている渡邊渚さんといい、世界的に評価される作品の監督をした伊藤詩織さんといい、心無い誹謗中傷をする人も多い中で、開き直った女性が如何に強いかと見せてくれることは、明治期に活躍した、新島八重や津田梅子などの女性たちとは、また違った意味で、格好良く、自らの生き方を大切にしている、現代のハンサムガールが現れたような気がする。