親鸞は阿弥陀仏が南無阿弥陀仏と唱える念仏者を帰依させ、善悪を自力で計らわないことを自然と言っている。即ち、形も色もない自然の無上仏に念仏者を導くことが阿弥陀仏の誓いである。
従って、親鸞は罪悪深重の衆生の救済の方便として現れた姿が阿弥陀仏であり、その力は凡て実体化を無化する空である。さらに、導く力を超越する形成力の縁起が無自性であり罪性空となり絶対善である。凡夫は空は何もないものと解するが、数字のゼロのことで、ゼロはお客が乗っていないタクシーのことである。
道元は都機(月)や梅花など自然に関するものが多く、雪裡梅花只一枝と詠んだ釈尊の悟りは雪の中に梅の花が一輪綻び咲くところにある。禅宗の即心是即仏で、煩悩を断じた境地の悟りから、南泉斬猫は罪相であり、同時に悟りの仏行で不殺生戒の背信行為であるが絶対善としている。
他力の浄土真宗親鸞=南無阿弥陀仏の念仏=自然、 自力の禅宗道元=春夏秋冬の時節因縁=自然
よって、共通の自然から、釈尊の無常に行き着く。(無常=縁起の現象あるなしの仏性=自然、有常=善悪を区別する心)
従って、親鸞は罪悪深重の衆生の救済の方便として現れた姿が阿弥陀仏であり、その力は凡て実体化を無化する空である。さらに、導く力を超越する形成力の縁起が無自性であり罪性空となり絶対善である。凡夫は空は何もないものと解するが、数字のゼロのことで、ゼロはお客が乗っていないタクシーのことである。
道元は都機(月)や梅花など自然に関するものが多く、雪裡梅花只一枝と詠んだ釈尊の悟りは雪の中に梅の花が一輪綻び咲くところにある。禅宗の即心是即仏で、煩悩を断じた境地の悟りから、南泉斬猫は罪相であり、同時に悟りの仏行で不殺生戒の背信行為であるが絶対善としている。
他力の浄土真宗親鸞=南無阿弥陀仏の念仏=自然、 自力の禅宗道元=春夏秋冬の時節因縁=自然
よって、共通の自然から、釈尊の無常に行き着く。(無常=縁起の現象あるなしの仏性=自然、有常=善悪を区別する心)
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