ブログ仙岩

各紙のコラムや報道番組、読書の感想、カメラ自然探索など。

大石邦子の「新米の季」

2024-12-24 04:56:17 | エッセイ

久しぶりで会津美里町を走った。

今回は、旧新鶴村役場の跡地に出来た歴史資料館の庭園に、蛯原由紀夫記念碑の建立でお招きいただいた。

先生は「心にふれたことは何でも書いておくことだよ」と、書くことを勧め、先生の創刊し「詩脈」100号記念祝賀科会も兼ねていた。

終わって、友人が「ドライブしながら帰ろうか」と誘ってくれた。

何時も私の心の内を察してくれている友である。

会津平野を走り続けていると、全ての稲穂が根こそぎ倒れている。

線状降水帯の凄まじい豪雨に因るもので、「大丈夫、何とか刈り取りの方法があるらしいから」、彼女が言った。

私は純粋の白米派で、子どものころには、白米はお正月だけで、大晦日の白いご飯に、赤い鮭のご馳走である。

当時は流通が悪く、新潟の海も、磐城の海も、まだまだ会津には遠かった。

私達世代が集まると、あの貧しい時代「白いご飯と赤い魚」が話題になり、面白おかしく笑い合って過ごしている。

苦しみも悲しみも、いつか必ず懐かしさに変わるときが来るものと、この頃思えるようになった。

ちなみに、10月15日今日初めての新米を焚いている。

今日の歌日記は、新米にしよう。

新米は古米に比べて水加減が少ないから、三合ならレベル3丁度でよろしい。農家の皆さんに感謝。 

また、おかずのお魚を捕る漁業者にも感謝。幸せクリスマスイブをお祈ります。

 


フラガール

2024-12-12 04:50:55 | エッセイ

フラガールの学び舎「常磐音楽舞踊学院」は、2024年今年で創立60周年を迎えた。

日本で最初のフラダンス・ポリネシアン民族舞踊学校として、これまで428名のフラガールを世に出した。

四倉の片寄平蔵が白水の向かいの山に石炭を発見して出来た常磐炭鉱は石炭から石油に代わりやむなく閉山、炭鉱と家族を救うため、ポリネシアンショーのダンサー養成学院が1965年に設立され、2年後に常磐ハワイアンセンターがオープンした。

1期生から指導している学院の早川先生は「まず、自分を愛して下さい」とフラガールに教え、アロハの精神自分の忍耐力で、自他ともに愛情をもって接すること。

フラは感謝の表現でもあり、優しさ、調和、心地よさ、謙虚さ、忍耐を手や足で、そして体全体で表現している。

舞台はセンターだけでなく、紅白に出演したり、

平成2年にスパリゾートハワイアンズと改名したり、

平成23年には3.11震災で、やむなく休館、フラガールは踊る場を失っても、涙でなく、笑顔で前進「フラガール全国きずなキャラバン」として、避難所やイベント会場など全国・韓国など125か所・247回の公演を行い、多くの人々に笑顔と勇気を届けた。

しかし、又コロナ過でも生き抜く逞しい姿勢を伝え、未来を担う子供たちに希望と力を届けた。

フラはハワイに伝わる民俗舞踊であり、手の動き一つ一つに意味があり、愛や喜び、感謝などの感情を表現、まさに相手あっての踊りである。

どんな苦難があっても、フラガールにしか出来ないこと、チーム一丸となって踊る象限は「愛」そのものである。

常磐炭鉱を救ったフラガール、3.11復興の象徴になり、コロナ過でも笑顔を届ける故郷への郷愁。

そして歴史を受け継ぎ、第19代キャプテンを中心に、フラガールは地域文化を築き上げ、新たなページで笑顔を届けることでしよう。IWAKI12月号より。

 

 


大石邦子「別れの美術展」より

2024-11-19 04:59:08 | エッセイ

出光美術館閉館で、友が東京行きの話しから、私もお別れしたかったので「私も連れてって」

私は以前、1940出光興産として改組設立した所に2年ほど勤め、通勤バス事故で車いす生活になったが、

懐かしさが甦り、美術館は東京駅の近く丸の内ビル帝国劇場の4Fから上が本社で、

美術作品は、創業者1885年生まれの出光佐三さんが集めたもので、一つ一つが出光さんに見えてくる。

会津の一事務員である闘病の私を見舞いに来たのも、出光さんは「社員は家族」と言っていたからで、

呼び名も社長でなく「店主」で、初めて訪ねたのは昭和48年(1973)で応接室の棚に花瓶が飾れていた。

花瓶には桃の彫刻が施され見とれていると、店主は良いだろうと無造作に私の車椅子の膝に載せた。私は花瓶を抱きしめるように撫でた。

後日、その花瓶を美術館で見たが、陶芸界初の文化勲章受章者・板谷波山の作品と分かり、国の重要文化財であった。

何度目か伺った時、店主は抹茶を点ててくださり、頂いている時、店主が悪戯っぽく、それはね「命乞い」の茶碗というのだよ。

波山さんと出光さんは交流が深く、奥さんから「出光さん、助けてください」と電話が入った。

行ってみると、波山さんが、窯から出したばかりの作品を次々と割っている。完璧なものしかこの世に残さない主義。

家計は苦しく、6人の子供に食べるもの着るものもまともに与えられずの当時の生活だった。

その中で、危機一髪、割らずに済んだ茶碗の一つが、この抹茶碗で、これも今回の美術展に並んでいた。

私は深く頭を垂れ、手を合わせ別れを告げた。ハイ!みんぽう11月号より。

いい出会いといい美術作品の思い出である。私仙岩がいつも抹茶を頂いている京都で買った茶碗です。

 


大石邦子「あの日の涙」を読んで

2024-10-28 05:21:40 | エッセイ

明治新政府の困窮策として、世界各地へ入植移民を募り、第二次大戦でアメリカ在住の日系人が敵国として収容所へ送られた。

その後の人々を知りたくて、会場に30人ほどの日系人の方が来て、お話しをしても日本語を忘れ、英語で泣いてしまう方も。

帰り際に1枚の写真を頂いた。ナチス・ドイツのアウシュビッツ強制収容所解放の折りの写真である。

その先頭の戦車の上で、高らかに星条旗を振っているのは若い日系の兵士だった。

でも、この戦いは日系人にとって、収容所にいる父や母を開放すためで、多くの日系人の若者が亡くなった。

更に白髪の老人が「戦争で何もかも失った。カリフォルニアの荒れ地に入植して、苦労して耕した土地も全て没収、収容所に送られた。

私達はどんな権力にあっても奪われないもの、子ども達に教育を受けさせることに頑張ってきました。

心に刻まれたものは、誰にも奪うことはできません」涙が零れた。

第二次大戦で日本人が310万人亡くなったことを心に刻む日8月15日です。平和と不戦を誓う式典戦没者追悼式。

昭和の第二次大戦も遠くになりにけり、しかし、その戦争がロシアとウクライナ、イスラエルとイランで今起こっている。考えさせられます。Timeいわき市草野のカフェ。

 


燈日草書店菅家洋子さん

2024-10-25 04:53:13 | エッセイ

菅家洋子さんは、広島県出身だが、沖縄でサトウキビ栽培を、農業と物創り体験ができることに魅力を感じ応募して、

2年間の研修を昭和村でからむし織など体験、研修後村に移住、講演会でカスミソウ栽培を知り、話題の農家に手紙を出した。

アルバイトとして採用、その後縁あって嫁いだ。

カスミソウの収穫時期とからむしの収穫時期が重なり、多忙ですが義父が手伝ってくれるので、からむし織は2,3年に一度の織りとなっている。

本が好きで、廃校の「喰丸小」で、2021年にチャレンジショップが始まり、月に3~4日書店を開いた。

村民だけでなく、旅行者も立ち寄って買っていきます。昭和村の燈日草書店で買った思いでが蘇ることを楽しみに。

また、毎年ヒロシマ展を開き、原爆にかかわる展示をしており、少し緊張しましたが、伝えなければいけないことしてやっている。

村に来て16年、冬の雪の多さに驚き、その分春が来た時の喜び、カスミソウ、からむし織、燈日草書店は、どれも欠かすことの出来ない大切なものであり、人との出会い、自分の人生のかけがえのない存在の一部になっている。